第8話 敵の名前

 雨が降り出しそうなほど薄暗い空の下を行列は進んだ。

 先日の麗々しい国入り行列とは 雰囲気が異なる。ずっと簡素であり、仲良くなった馬の青波も今日は城で留守番である、と虎之介は妻の真喜への手紙に記した。

 実際のところ今回の行列に見せる要素はなく、武器をかかえた部隊の発する物々しさもない。早朝、各種の土産物を携えて物静かに出発し、夕刻までに明信院の隠居所のある寺へ到着の予定である。

 

 せめて風景をと、紅葉を期待していた虎之介は、風が出ても乗物の窓を開けたままにして外を見続けた。

 ときおり灰色の空に光がさした。すると、生き返ったように木々の葉が光の中に浮かび上がる。それだけが今日の楽しみだった。

 きゅうくつな乗物は苦手だし、明信院への挨拶は幕閣や大大名へのそれとは別の緊張感がある。

(横江の話だって、期待はすまい)

 生前の母を知ると聞き、墨田の部下だった横江に会う予定をねじ込んだものの、書院番にいる息子にたしかめると、

「江戸での話は、あまり聞いた覚えがございませぬ」という返事だった。それに、「父は満足に腰もたたず、かえって殿のご迷惑になるのでは」と、名誉ともとれる話にも最初は消極的だった。

 本人の希望によって郊外に引っ込んだことになっているが、背景には家族のややこしい問題があるようだ。寡婦だという長女が面倒を見ていて、嫁とは没交渉だという。

 それに横江の息子によると、かつて歳下の上役であった墨田との関係そのものが決して良好だったとはいいがたく、「父の言い分によりますと」との注釈付きで、失敗を押し付けあって揉め、役を離れてからはすっかり疎遠になっていると聞かされた。


 古い砦跡の脇に駕籠を止め、一行は休憩をとった。雲の切れ間から明るい光がさしてきて、虎之介はほっとした。

「八里様は、何を好んでこのようなところに」

 難波忠次郎がぐちっていた。八里様とは、わざわざ城下から半日以上かかる場所にいる明信院を家中ではそう呼んでいる。

「湯治がお好きなのだろう」小平太の声が答えた。

 明信院の隠居所は、湯治場とされているあたりにあった。


 虎之介は明信院について考えていた。

 妻の真喜はたしかに普通とは違うところがあって、祖母の気質を受け継いだところも少なくないと思う。ただ、当の祖母の普通との違いっぷりたるや、孫とは規模の大きさがぜんぜん違う。

 院が鵠山藩主に嫁した年齢は、当時の平均よりは上であった。

 いわゆる適齢期を迎えても周囲の意見など気にせず、好き勝手に過ごしていたが、ある日自分から言い出して嫁入りを決めたと伝わる。

 また、夫になった人物には、正妻を迎える前から国元に内縁の妻がおり、子まで成していた。しかし、その後に短い移行期間をおいて、少々複雑だった人間関係はしかるべきところへと収まり、婚姻はつつがなく進行した。

 鵠山に嫁入るに際して明信院の持参した化粧料は実に三万石に上った。これだけで虎之介の故国全体の石高より大きい。

 さらに彼女は、江戸にあたらしい屋敷を設けさせ、経済的にもずいぶんと気儘な暮らしを独身時代同様に享受した。

 これら、かなりの力技が実現した理由はある意味、わかりやすい。

 

 名門の生まれである院には、同じ母親を持つ弟がひとりいた。

 利発な姉は、幼いころ成長の遅れ気味だった弟について嘆く父母を、たびたび諌めたという。

 そして無事に育った彼は、日本で最も高い地位にある武士となった。

 夫の在世中は、唯一の同腹の姉として当代の大樹公を江戸屋敷にたびたび迎えて親しく交わり、いまも欠かさず便りを交わし合う間柄である。

 また彼女には人物鑑定を過たないとの定評があり過去、弟とその側近に幾度か助言を行った。現在の有力幕閣のうちにも「われが今あるはあのお方のおかげ」と世辞を言う人間が少なくないとされる。

 雪花斎ごときがいくら格好をつけようと、中央への影響力が比較にならないのは子供にもわかるほどだった。

 

 院は夫に先立たれたのち、特に望んで領内の山深く、豊富な資金と将軍家からの援助も遠慮せず利用して建立させた寺に隠棲していた。

 しかも、彼女はその後もしばしば江戸に出没し(鵠山城付近より隠居所の方が船舶の弁が良い)、虎之介も早くから面識があった。

 当人に子はなく、代わりに藩を継いだ義理の息子の、ただ一人の正室との子である真喜姫 –––– 血縁上は実の姪の娘にあたる –––––を、その気質ごと愛した。

 そして男子の親戚では、唯一評価していた虎之介との縁談を、双方の父親の意向はまるで無視して自らまとめあげたというわけだった。


 なお、若い頃の院の夫、すなわち先先代藩主がどんな人物だったかについては、肖像画が残っている。別の絵師による複写を真喜が所有していて、虎之介も見せてもらった。

「殿に似ています」とのことだったが、いくらなんでも鵜呑みにできるほどおれは自惚れ屋ではないぞ、と思うほかない神々しさだった。

 肖像の原本は、独身時代の院がさる幕閣を通じて入手し、いまもなお秘蔵しているそうだった。


「忠次郎、お前はこのあたりになじみがないのか」

 湧かした茶を持って来た時に尋ねると、

 彼は大きくうなずいた。「いささか、山場とは相性が悪く…」

「それほどの山でも、ないぞ」虎之介が笑ったその時、大きく日が陰った。

 どこからか泣き声のような音が聞こえた。

「どこかに人の家でもあるのか。赤子がないているようだが」

「いえ、拙者にはいっこうに」

「そうか。気のせいか。鳥かもしれぬ」

「はい。拙者は鳥などより人の声が好きでございます」

 

 城を離れるにつれ、家も人も様子を変えていく。山間部に入ると、カルサンというのだろうか、山袴様の下履きを男女とも身につけている。

 小屋の前で一組の男女が土壁を修理していて、小さな子供がまとわりついている。それを見る虎之介の胸に湯のような感情がこみあげてきて、思わず目を閉じた。

 

 明信院の屋敷のある村についたのは、午後も遅くなってからだった。

 紋付姿の庄屋たちが村の産物を献上しようと待ち構えていた。ところが、荷を曳いてきた老翁は、紋付どころか頰っ被り姿のまま面倒くさそうに礼をした。

 それを目にするなり、嬉しそうに乗物から飛び出て、両手を取らんばかりに答礼する主の姿に、

(賢いお方と思うていたが、まるでうつけか嬉しがりだ…。まだ、子供なのかな)と、忠次郎は首をひねりながら、ついて回った。

 やっとたどりついた院の隠居所は、立派な寺の一角にあった。

 寒風を防ぐために樹木で囲い、さらに生け垣で周囲を覆ってあった。屋敷は茶室風の外観をして、屋根に強い傾斜がついている。周辺にいくつも家屋があるのは、院の世話をする者が詰めているのだろう。

 通された簡素な部屋は、汗ばむほど暖かった。

 明信院は、面長な顔に謎めいた微笑を浮かべ、虎之介主従による口上を聞いていた。ただし、仏像のそれと同じくなにを考えているかは少しも読めない。土産物の目録が読み上げられて、双方の従者たちが退場した。

 

 それを待って院はようやく、

「真喜の勝ちですね」と言った。絶えず手紙のやりとりをしている彼女と、夫が一連の口上をよどみなくいえるかで賭けをしていたのだという。

 独特の、静かだが口跡のはっきりした喋り方で「どうやら見くびっていたようです」と、嬉しげに謝ったあと、

「よき若武者ぶり、さぞ母者もお喜びでしょう」とつぶやくように言った。

 四方山話をするうち、先日の雪花斎に会った折の話題になった。

 即座に院は、見せかけだけの男で配慮する必要なしと断じたうえで、いずれ本格的に国政に取り組めば、同じように誰かがまた口を挟んでくるだろうと警告した。

 「ああいったやからは言葉あそびをしたいだけです。急ぐべからず、といった者はすぐに同じ口で遅いとなじり、猶予なしと脅した者は、今度は焦りすぎだとくさす。やればやったで責められ、やらなければ嘆かれる」

「そういうものですか」

「ご一門や古い執政といった連中が、どれ程のことを為しましたか。ぼうふらが湧いていると思えばよろしい」

「それより」院がききょう、ききょうと呼んだ。


 反射的に虎之介が振り返ると、すでに女が平伏していた。顔を上げると三十前後の、日に焼けた目立たない顔立ちの女だった。

「普照はまだ江戸か」

「いえ、すでに立ったはずにございます」

 明信院は虎之介に向かって、

「わたくしの願いは、殿と真喜が末永く仲良う暮らすことのみ。彼岸に渡った正親どのの息子らは、悪いが惜しいとも思わぬし、ましてや死人に肩入れしての諍いにはほとほとあきれ果てておるのですが」と、まで言って桔梗に説明するよう、うながした。 

 桔梗はうなずき、

「恐れながら申し上げます。主が昔、目をかけた普照という修験者が江戸にございます。その者がさいぜん、なにやら凄まじく怪しい気配が、このごろ城下で勢い盛んとなりはじめたのといって寄越し手形を求めて参りました。その妖気は以前にもいったん強まり、その折りに若殿さま方が相次ぎ亡くなられたそうで、普照はそれを防ぎたいと申します」


 虎之介は、しばらく頭の中で整理しなおしてから尋ねた。

「つまり修験者は江戸にいて、遠見の術かなにかによって、このわたしを妖気が狙っているの感じたと、いうことか」

 桔梗は申し訳なさそうな顔をして仰せの通りとうなずいた。

「ぜひ殿に拝謁して、かなうならば会得した技で怨霊を退散したいと申します」

「笑ってはいけませんよ」自分では笑いながら院はいった。

「普照は、あれの父親の縁で知っていましてね。あの手の者にしては、ましな方です。城にお戻りになれば、また洒落の分からぬ石頭とばかり付き合わなければならないでしょうから、箸休めに良いかと思いました。お札がわりにはなるでしょう」

 

 見た目の印象は寡黙な明信院だったが、もちろん中身はおしゃべり好きの老婦人である。

 虎之介の身の上の変化への感想から江戸城中での四方山話、真喜の近況などをたっぷり報告させられた。

 ただし、先日の雪花斎に感じたいやしさ、貪欲さは皆無であり、楽しい経験ではあった。

 そして院は、次回は舟を使って行列を連れずにこられよ、と言った。

 隠居所の近くには大きな川もあり、その気になれば院は舟を使って城やそれ以外にも容易に移動できる。

 かつて、突然江戸に出現したのも舟を上手に乗り継いでのことらしい。そしてさっきの桔梗も、船頭兼護衛だという。

「その前に、墓参を兼ねて私が殿をお訪ねしてもよろしいですね。榊兵部のしかめつらを近くに見るのもまた一興」とも言った。

「ええ、ぜひ」

「ただ、寒いのは嫌です。梅や桃ではまだ早い。わたくしが生きておれば、また桜の咲く頃にでも」


 夕餉のあと、虎之介は湯をすすめられた。湯治場は屋敷のすぐ近くにあった。藩主専用の湯殿もあり、普段は村人が入るのを禁じているのだという。

 彼の気分としては、村人やら供として付いてきた者たちやらと一緒に入りたいぐらいだったのだが、そういうわけにもいかないらしい。

 逆に、背中を流す女を用意したと言われて懸命に断ったら、結局はひとりきりで湯船に浸かることになった。

 湯の周囲は、紅葉を筆頭に雑木林によって隠されていて、ほどよく粗放な、いい雰囲気をかもし出している。

 忠次郎か小平太だけは来るだろうと思って見ていると、忘れ物をしたと小平太があわてて駆け出し、戻ってこないのに焦れた忠次郎もあとを追った。おかげで最側近のはずの床机役がすっかりいなくなった。虎之介は彼らの軽挙に、

(兵部がいたら、どれほど怒るだろうな)と、心の中で考え、笑った。虎之介の前では大人びたふりをしているが、彼らもまた、ほんの小僧なのだ。 


 他の者たちは別の小さい湯に分かれて入るようだ。風呂からなのかは判らないが、ときおりどこかに賑やかな声が響き、うらやましくも思える。 

 しかし、誰もいない湯につかってじんわりと体を温めていると、これはこれで気分がいいな、と思い直した。

 城では好きに入浴させてはもらえない彼にとって、一人放置してもらえる露天風呂はことのほか自由で気持ちよく感じる。

 ゆったりと長い手足をのばし、久しぶりに解放された気分を味わおうとしたそのとき、

「もし、もし」かぼそいが線の強い、娘のような声がした。

「えっ」まさか、湯女ではあるまい。声の主を捜してきょろきょろしていると、

「こっちだよ、ばかだな」別の声がした。「これっ、口をつつしめ」と叱る声と言い合いに変わった。


「おおすまん、入る場所を間違えたかな」

 虎之介が立ち上がって探そうとすると、

「あいや、そのまま。湯の中でお聞きを」

 わけあって姿を見せられないが、決して怪しい者ではないと女の声はいった。

「近くの者か」

「いいえ。ついこの前までは江戸におりました」

「そうよ、江戸っ子よ。ほんとは下総だけどさ」

「これっ、口をお出しじゃないよ」と叱ってから女は、乱暴な言葉と男のなれなれしさをまた詫びた。そして、唐突な話をするので驚かれぬようにと前置きしてから、

「実は私めは、かつて江戸におりました折に、貴方さまに御恩を賜りました」

 じっと考えても、それらしい人物は思い出せなかった。

「すまぬ。どこで会ったかな」

「場所はかんけえねえ、気にするな。おいらだって前から存じ上げてたよ」

 また、男の声がした。それにかぶせて小娘の声が、

「いつかご恩返しを、と願うておりましたところ、偶然にも御身を狙う者があるのを知り、とるものもとりあえず」

「狙う……。それは、おれが城主になったのが気に入らぬ奴か。やはり江戸にもそのような奴はいるのか」

「いえおそらく、思い浮かべておいでのひとびととは違います」女の声は少しあわてた。「なんと申しましょうか、いうならば、乱心いたした我が眷属」

「眷属…?」

「はい、まことに情けないことながら。むろん、あれとわたしどもとは、同じ米から生まれても酒と餅ほどに違います」

 また男の声が口を出した。「あっちはつまり、飲むと狂う毒酒。ひどい酒だよ」

「酒蔵でも営んでいるのか、その者は」

「いえ、ただの例えにございます。それはともかく、悪党が越後守さまにけしからぬはかりごとを巡らしているのを知り、急ぎお耳にいれようと、江戸からこの国にやって参りました。ところが、守りが堅く城に近づくこと適わず困り果てていたところ、今日の旅について耳にし、そのまま後を追って無事ここへと着きました」

「ちったあはわかってくれよな、この心づかい。けっこう大変だったんだぜ、すきをみて飛び乗るのは」

「これっ」

「だって、嘘偽りを言ってるわけじゃないし。それに、若さまは下々の気持ちのよくわかる人だと聞いてるよ」

「ほほう」虎之介は興味を覚えた。「それは誰からだ」

「へへへ」久太は嬉しそうに笑った。「内緒話だから、教えらんない」


 考えるとおかしな話だが、変な言葉使いの二人組と話すのが、なぜか楽しくなってきた。

「城には、人を入れぬのが役目の者がたくさんいるからな。しかしそのせいで、はるばるこんな所まで追いかけてくれたとは苦労をかけた」

「いえ、勝手ながらお荷物のうちの長持をお借りいたしました。それゆえ、いったん乗ってしまえば道中はいっこう苦にはならず」

「長持ちをどうやって使う…?」

「大丈夫、齧ってないし、しょんべんだって漏らしたりしねえ」

「これっ。それより、御身に危機が差し迫っております。ただ、正直申しまして、越後守さまを狙う者は蛇よりも執念深い一方、考えがころころと変わるため容易に企みが読めません。また、きゃつには手下もいて、それもまた勝手に動いているらしく、わたくしどもも少々とまどっております。しかしながら、この道中を利用して悪さを仕掛けようと企んでいるのは間違い無いかと」

「つまりさ、おいらたちがお城に近づけないのと同じに、悪党たちも近づけないんだ。だから若さまがでかけるのをこれ幸いと利用しようとしている。下準備もしてるみたいだよ。この近くに取っ憑かれらしいのもいたそうだし。だけどさ、このあたりに住んでるおいらの仲間はそろって田舎者で困っちまうよ。いろいろ聞いてはみたんだが、さっぱり要領を得ねえ。悪いな」

「取っ憑かれとは、なんだ」

「とにかく」女の声が慌てたように介入した。「怪しい仕草の者にはお身内でも油断なさらず、あす日が昇ればすぐにでもお城にお戻りください。そして、道中は決してお一人だけになられぬよう」

「いったい、なにが起ころうとしているのだ。それを教えてくれぬか」

「だから、こっちも調べてんだけどわからねえんだよ。もうちっと待ってくんな」

「しかし殿さま、それに抗する手だては分かっております。先日、江戸よりお持ちあそばされた御腰物と、守り刀」

「それは、三池典太と吉備津丸のことか」

 二つの声はそろって鋭い悲鳴をあげた。


「どうした?」

 答えた声が震えていた。「恥ずかしながら、あれはわたしどもにとっても苦手にございます。その力は凄まじく、これまで城を取り巻いていた邪気を見事に吹き払いました」

「そういえば、峠から見た城には霧か靄がかかったようだった。あれは気のせいではなかったのか」

「そうだよ。邪気はまだ残ってるけど、どんよりした雨雲から晴れた日に浮かぶ雲ってぐらいになった。ついでに言うと、この前に若さまが野次馬の前で川に落っこちずにすんだのもあのおかげ。落ちてりゃ河童に尻小玉を抜かれちゃったかもしれねえよ」

「ほおー、霊験ありとは聞いておったが」

「これからは、決して今宵のように二刀をお手元から離してはなりませぬ。この旅にお持ちの刀は、斬れ味は存じませぬが通力はございませぬ」

「ありがたく覚えておこう。しかし、どうしておぬしらまでが苦手なのだ」

 声は慌てて、話を逸らそうとした。

「にわかに信じ難いこととは、重々承知しております。今宵は無作法な話にようおつきあいくだされました。また日をあらため、敵の動静をお知らせにあがりたいと存じます」

 ふたたび男の声が口を挟んだ。「しかしさ、いまみたいに刀が天守に鎮座ましましてるとさ、会いになんていけねえ。吹雪に飛び込んだみたいに凍えちまう」

 すると女の声が、

「知恵をお使いなさい。お庭にあるお部屋であればまだましかもしれぬ。それに、御太刀の力は相手が強く大きいほど高まる。小物には目もくれぬ」

「それは、こじんまりとしたあっしに行けということかな」


「殿、ご不便をおかけしました」息の弾んだ小平太の声がした。「手拭いを、これに」

 二人の声がささやきに変わった。

「ご近習が戻られました、失礼いたします。しかししつこいようですが、このあともくれぐれもご油断なさいませぬように」

「気をつけてくれよな、次はもっと敵のことを調べてからくるよ」

「まて、その方らの名を教えてくれ」

「たま、とでもお呼びを」「あっしは久太。じゃ、またな」

「それで、おれを狙う敵の名は」

「…あけ」

 声は途絶えた。

「殿、いかがなされましたか」忠次郎が尋ねた。

「いや、なんでもない。ひとりごとだ」


 朝食を済ませ、明信院にふたたび挨拶をして雑談ののち、隠居所がある寺の住持につかまってありがたい説話を聞かされてから、ようやく一行は出立した。

 行列の奉行を務める谷口がひどくいらだっていた。長話にではなく、供の侍たちの間に寝過ごしたり、ぼんやりしたままの者がいるようだった。

 忠次郎は顔色もよく、最初の休憩を待ち構えたかのように、虎之介に具合をたずねた。

「昨晩よりお顔の色が優れませぬ。もしや湯あたり、それともお風邪をめされたのでは…」

「気のせいだ、何ともない」

 何者かに狙われていると聞かされて、さすがの虎之介も楽天的ではいられなかった。

 怪しい者はいないか、そんな目でつい人を見てしまう。

 一方、普段から忠次郎ほど機嫌のよくない小平太は、さっきからまわりの様子に首を捻っている。

「どうした」

「供回りのうちに少し顔色のおかしいのがいるように思えましたので。いえ、拙者の気のせいかと」

 小平太はあんがい神経が細かく、黙ったまま周囲を観察しているところがある。

「そうか。実はな……」

「なにか」

「いや、なんでもない」

 昨日の二人組による警告を知らせようとしたが、やめた。

 なんとなく仲良くなってしまったが、正体不明の相手が口にしただけの言葉を、家臣に伝えて振り回すのは、あまり程度の高い主君のやることとは思えない。

 前後に連なる百に近い供たちに虎之介は目をやった。

(これほどの警護がいるのだ。まさか、な)

 

 帰りは往路とは道が違った。

 見事に紅葉した渓谷を越えて、小さな集落を目指す。例の墨田の願いを聞き、彼の元部下の横江主膳を見舞うため、わずかに遠回りをすることになった。

 墨田によると、彼は汚職の疑いをかけられて職を辞したが、その後の調べでは罪とされるほどではなかったのに、名誉回復はなされていなかったということだった。

「返り咲こうとは少しも思わず、しかし、殿が国をお継ぎになったのを、心から喜んでおりました。あれは在府のおり、天秀院さまにお言葉を賜ったこともございます」

 天秀院とは母の諡名である。うかうかと頼みを聞き入れてしまったのは、この一言のためであった。

 だが、横江の息子によると、むしろ父親は誰よりも墨田に対して憤っていたという。かつて墨田自身に対して広まった黒い噂を、そっくり部下たちに押し付けようとしたのに憤慨し、長い間手紙も言葉も交わしていないはずとのことだった。

 また、明信院にも横江について尋ねたところ、取次にいたかもしれないが、昔のことで詳しく覚えていないとの返事だった。

「この近くにおるのですか。それすら存じませんでした」

 思いついて、墨田の持ち込んだ刀について聞いた。

「刀でしたら、児手柏といいましたか、表と裏の刃文の違うものなら探すのを手助けしたおぼえがあります。それだけですね」

 だいたい、「あの役者くずれのような面構えがいけません」と、院は墨田について露骨にけなした。以前から彼については気に入っておらず、失脚してからはなおのこと興味も関わりもないと言明した。

 この、首を傾げるような話と、昨夜のたま及び久太との会話を信用し重ね合わせるなら、目下一番疑わしいのは墨田である。戻ったら調べさせようと虎之介は思った。

 

「おおやけではないとはいえ、先触れがあったはず。こんな出迎えとは、失礼にもほどがある」

 小休止の際、忠次郎がぶつぶつ独り言をいうのが耳に入った。これから向かう横江の家について、憤慨しているのだった。しかし、重臣が主君を自邸に迎えるわけではない。

「わたしが無理強いしてしまったのだ。許してやってくれ」

「はっ」虎之介が謝ると、忠次郎は固まってしまった。「いや、そのような、まこと、差し出がましいことを申しまして」

 忠次郎の不満はほかにもあった。

 先だっての国入り行列とは異なり、今回の供備えは各方面との意見調整の結果、国元の各組から少しずつ選出された、いわば寄せ集めである。とりわけ、細かな情報を早めに欲しがる小小姓組とはどうにも連携が悪い。

 一方、愚痴のこぼし先となるべき相棒の小平太は、朝から駕籠から前を行ったり来たりしている。引っかかることがあるのだという。

 紅葉が途切れると、目に入ったのは寂しい光景だった。

 田畑が茶色いのは無理からぬこととはいえ、樹木もなにか寂しげに見える。丘の向こうに人影が三人ばかりいて、駕籠に向かって頭を垂れた。先回りしていた横江の息子が近づいてきた。

 目的地に無事到着したようだ。

 非公式の対面であり、あらかじめ出迎えは無用と伝えてあるので、行列を離れた虎之介は、自ら横江の寝ている縁側に回り、そこで寝具から上体を起こした彼に話しかけた。床机役ふたりが見舞いの品を持ってついてきた。


 病人はひどく恐縮しているようなのだが、はじめは言葉がなかなかききとれなかった。中年の女がいろいろ口添えしているうちに、ようやく落ち着いてきた。女は同居しているという長女だった。

 横江は主君を寝巻き姿で迎えたのを謝っていた。

「謝るのはこちらの方だ。よく会ってくれた」

 髪はすっかり白く、体もやせている。ただ、顔の色は決して悪くはないように見えた。 

「難儀していることはないか。このあたりはじきに寒くなると聞くが、もっと暖かいところに移るというのはどうだ」

 横江は、空咳をしながらかぶりをふり、

「いえ、自ら選んでこの地にまいりました。それより、直々のお出ましをいただき、まるで夢のようにございます。この横江、これでいつ彼岸にわたってもかまいませぬ」

「それは困る。昔の話、母上の話などこれからも聞かせてくれ」

 横江は繰り返しうなずいた。

「そのお姿、そのおやさしいおこころ。殿はまこと、母君に似ていらっしゃいます」

「そうか」

「はい。在りし日の母君は実に思いやり深いお方にございました」と横江は言った。まわりに仕える者たちすべてを思いやり、強面の無骨者で女性とのやりとりを苦手とした彼に対しても、常にやさしい心遣いを見せてくれた。

 ある日、彼の喉が枯れていたのを風邪ではないかと気遣い、「薬をいただいたこともございました」と、大事そうに語った。


「実を申せば、母の顔はぼんやりとしか覚えておらぬ。耳に残った声だけが頼りだ」

(愚かなおれは、母上の最後の願い、一目会いたいという願いを断った)

「いいえ、殿の中に母君は生きておられる、それに」

 横江は虎之介の手を押し頂くと、目を大きく見開いて彼の目をのぞき込んだ。

「ああ、間違いなく」

 病人は力を抜いて、笑みを浮かべた。その大胆な振る舞いに、床机役たちや横井の息子が慌てるのを虎之介は制し、

「よい。言いたいことがあれば話せ」とそのまま続けさせた。

 横井は、「殿のお越しを知らされてから、不思議なことばかり起こります」と言った。

 まず、繰り返し変な夢を見るようになった。

 赤い水の底のような場所にいる彼に知らない声が、「昔の恨みを思い出せ。国がお前になにをしたかを思い出せ」と繰り返した。そのうち声は、「お前の恨みとこの国の『間違い』を新しい城主に伝え、罪を贖わせろ」と言い出した。

 しかし彼は戸惑った。元上役の墨田に対する怒りはあっても国にはない。まして、あの優しい奥方様がこの世に唯一残されたお方に、恨む気持ちなどあろうはずもない。こんな悪夢ばかり見るとは、自分の身にあまり先がないのだろうと考えていた。

 

 ところが昨晩遅く、「もし、もし」と枕元から若い女の呼ぶ声がした。悪夢を恐れた横江はまだ眠っておらず、「誰だ」と、耳を済ませた。

 すると声は非礼を詫びつつ、この家に暮らすものより聞いたと前置きしたうえで、

「悪夢にお困りではございませぬか」と尋ねた。横江が驚くと、「やはり」と言って、横にいる誰かと話しているようだった。

 相談が終わると声はふたたび、「この世には人の夢に立つことのできる邪な者がいる」と語り、「そやつの望みは、ただ人の心を惑わせるのみ。操って楽しむことこそが生きがい。相手にしてはなりませぬ」と警告した。そして、悪夢の真のねらいは、明日この家を訪れる高貴な客人だと断言し、

「そのお方は、いずれ邪な悪夢を吹き払う立派な風となられましょう。ただ、惜しむらくはまだ歳がお若い。惑わされることもおありでしょう」

 だから、おかしな恨み言を伝えたりはせず、道中くれぐれもご油断なさるなと伝えてほしいと頼んだ。

「声のみで、お前たちの言葉を信じるのも難しい」そう横江が言うと、「なるほど、おっしゃる通り」と声は認め、「わたくしのことはさておき、もしお疑いなら明日、お客人の両の目をしかとごらん下さい。必ずや、あなたとこの国の民が長く待ち望んでいたお方と知れましょう」と明言した。そして、「あなたがたご家来衆の役目は、そのお方に天下一の殿様になっていただくこと。くれぐれもお頼みしますよ」

 それだけ伝えると、声はしなくなった。

 しかしそのあと、横江はすっと体が楽になった気がしたのだという。

 そして、朝になって家の者に聞くと、彼の悪夢の話など、いまの今まで知らなかったと言うばかりだった。

「どこの誰かは分かりませぬ。しかし、母君にも似た賢げな声に思えました。そしていま、この目でしかと確かめることを得ました。この横江、声を信じることに決めました。しかし殿」

「なんだ」

「決してお身体を粗末にしてはなりませぬ。いまや貴方さまだけが、この国の希望」

 病人とは思えぬ力で手を握りしめる横江を、慌てた忠次郎が引き離した。

「この命をかけて、お守り申す」横江は横を向いたまま、つぶやくように言い続けた。

 


 




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