第9話 行列、崩壊

 横江の家を離れたのちも、虎之介は考え続けた。

(あの家にきたのは、湯殿にきた二人と同じだろうか。となると、悪夢を見せたのは、あけ……)

 やがて乗物がとまった。いつのまにか外は薄暗くなっていた。

 のぞき窓からあたりを透かし見ると、両脇を木々がみっしり取り囲んでいる。

(まだ、森から離れていないようだ)

 外で忠次郎の怒鳴る声がした。

「忠次、どうした」

「申し訳ありませぬ、たわけどもが道を間違えたようにございます」

 小平太は行列の前方へ確認に行ったようだ。


 予定通りなら、日暮れには街道沿いの集落までたどり着いているはずである。しかし、どこを見回しても見慣れない風景であり、現在位置は虎之介にもさっぱり分からない。

「いったい、なにをしておるのでございましょう。あらかじめ下見にもきているはずなのに」

「そう怒るな。国境を越えたりしたのでなければ、不都合はなかろう。担ぎ手や馬子が疲れるようなら、無理せず休めばいい。今日は雨の気配もない」

「はあ…」

「谷口は、どうしている」虎之介は、行列の責任者の名を口にした。本当に道を間違えたのなら、報告と謝罪にくるはずだ。

「それが、道中奉行様はあちらで揉めておられます」


 虎之介は声をかけて戸を開けさせ、外に出た。

 周囲の供侍たちは、主君の姿を見ても特に気にするそぶりを見せず、妙にぼんやりしている。変だな、とは思う。

 ずっとむこうの先頭近くで、谷口が怒鳴っている。その周囲を何人かで取り囲んでいる。

 谷口は、虎之介が乗り物を降りたのに気づき、慌ててこちらにやってこようとした。反対側にいた小平太もまた、それを見て谷口へと近づいてゆく。

 突然甲高い声が聞こえた。悲鳴だった。誰かが谷口の背を抜き打ちに切りつけたのだった。

「あっ、そんな」

 忠次郎が駆け寄ろうとして、思い直し虎之介のそばにもどった。

 腰の刀に手をかけたまま、

「おい、見てきてくれ」

 と、すぐ脇にいた刀役に声を掛けたが、反応が鈍い。

「おい、見て来い。どうしたんだ、斬られたんだぞ」言いながら笠の中を見た忠次郎は、

「わっ」と言って後ろに下がった。「目が……」

 刀役の目は黒目がちになって、白目も充血している。

 そして、どこからか声が聞こえるかのように掌を片耳にあて、ひとりうなずくとぎくしゃくと歩き出したが、誰もいないあさっての方角だった。

 行列から同じように、徒をはじめ二刀を腰にたばさんだ男たちがふらふらと出ていった。一方、中元や陸尺(駕籠かき)といった武士以外にそこまでの胡乱な動きはない。おろおろと見守るもの、なんとなく異変に気づき逃げ支度をしているもの、といろいろ反応が分かれている。


「殿、ご免」忠次郎は虎之介の肩に手をかけ、道の端へ誘導した。

「いったいどうなっているか、小平太に確かめさせまする。ここでお待ちを」

「小平太はどこへ行ったのだ」

「はい、あちらにおります。おおいっ、小平太っ」と大声で叫んだとき、すでに行列は混乱に陥っていた。

「えっ」

 数人が獣のように仲間につかみかかったかと思えば、それを止めるもの、加勢するもの、ぼんやり佇むようにそれを見ているものがいる。つかみ合いが進むうちに、あちこちで組討ちが起こった。

 最初に列の先の方で起こった斬り合いはすぐ終った。一人が止めようとした数人を斬り倒してしまったからだ。

 重なり合った人の向こうに、小平太が突き倒されて道脇の藪の中へと転げ落ちていくのが見えた。

「小平太っ」

 忠次郎がまた叫んだが、まずいという顔になった。

 彼の声によって、特に目つきのおかしい二人が振り向き、こちらに殿様がいるのに気づいたためだ。


 虎之介を守り、身代わりになるはずの徒たちは、はじめ素手だけを使って野犬の喧嘩のように互いにもつれ合っていた。そのうち、体格の良い一人が前の男を蹴倒し、抜刀しようとした。しかし、後ろからのしかかるように押さえ込まれ、さらに腰に別の男がぶら下がり引き倒された。

 嫌な音がした。首を折られたのだろう。

「皆逃げろ」虎之介は周りにいた乗物の陸尺らに言った。

 国入り行列とは異なり、今日の担ぎ手たちは城下の陸送業者から派遣された、いわば民間の雇われ人だ。武器を持たず戦闘訓練も受けていない彼らが、武装した狂人に抵抗できるすべはない。

 男たちは戸惑っていたが、「かまわぬ。命令だ、無事に逃げてどこか近くの番小屋へ急を知らせろ。早馬もあるはずだ」虎之介はきつく命じた。

「ご無事を」それぞれ一礼してから、振り返って駆け出した。

 

「よし」虎之介は振り向くと太刀を探した。ない。

 彼の刀を持った係の者は、どこかでもみ合いに参加している。 

 しかたなく手挟んだままにしていた短刀を抜いた。儀礼用のごく短いものであり、せいぜい自害するぐらいしか役に立ちそうにない。

「殿」偵察から戻ってきた忠次郎から声がかかった。

「おそれながら、拙者の後ろに」声が震えていた。「なにがなにやらさっぱり」

 血達磨になった羽織姿が一人、もみ合う同輩を押しのけあるいは踏み越え、近寄ってくる。足取りがしっかりしているから血は返り血なのだろうな、と虎之介は思った。

「あれは、鴨居殿では」


 馬術の達人はまた、槍の遣い手としても名があった。その男が返り血を浴び、思い詰めた顔をして近づいてくる。

 さっき忠次郎に目をつけた二人の男も、人をかき分けかき分け、こちらへと向かっている。ひとりは股立を取った三十男、もうひとりは羽織姿の壮年の武士だった。羽織は派手に破れてしまっているが、歩く姿は腰が座っていて、目の前の男を片手だけで跳ね飛ばした。武術が身についているのが一目で知れた。

 三十男はこっちに移動しながら、ぼんやりとした顔で立っている武士のひとりに、手で指図したりしている。

「あの様子では、あやつらが渦の中心のようだな」虎之介はそう口にしたものの、自分の声が遠くから聞こえてくるように感じた。

「お逃げくだされ」

 そう声をかけてきた忠次郎が、震える細い両腕で刀を持つ姿は、いかにも頼りなかった。

「忠次郎、落ち着け」

 不思議と虎之介に恐怖はなかった。

 逃げる気配を見せない主人を忠次郎は隠そうとしたが、背丈の違いで徒労に終わった。

 

 いったん早足になった鴨居は、あと少しまでの距離に近づくと動きがゆっくりになった。慎重に獲物を見定めている。

 そして血刀を槍のようにまっすぐ前方へと突き出すと、無言のまま主従二人を目指して踏み込んできた。

 体当たりしようと呼吸を計っていた忠次郎を制し、虎之介は前に出た。

「お待ちをっ」

 からみつく忠次郎を片手で横に払いのけ、虎之介はまっすぐに鴨居に向かい合った。虎之介の方がたっぷり一回り以上、身体が大きい。しかし相撲ならともかく、相手は刀を持った武芸の達者である。

(あるじに刀を向けるのかと罵るのも、どうもいまひとつだな)

 変なことを考えている自分に気がつき、可笑しくなった。相手の目をみつめながら、虎之介は言った。

「わたしの命が欲しいか」


 やけに黒目がちになった鴨居の目が、せわしなく瞬いた。

 口から小さな泡を吹き、なにかつぶやいている。刀身がかたかた震えた。

「違う、違う」

 鴨居は刀を持った右手を自分の左手で押さえた。あらわになった二の腕に血管が盛り上がり、ものすごい力が入っているのが分かった。

 言葉にならないうめき声が聞こえる。彼は真っ赤な顔をして、泣いていた。

 近くまでやってきたさっきのやぶれ羽織の壮漢が、口から変な呼吸をもらした。はやくやれと鴨居を罵っているようだった。

 しかし鴨居は、押さえ合った両腕を頭上に持ち上げる姿勢になった。

 鈍い音がした。

 左手が右手を折ったのだ。それでも手と手は争い合っていたが、ついに刀が地面に落ちた。折れた手はなお、脇差を抜こうとしたが、果たせなかった

 鴨居は悲鳴のような声をあげた。

 「との」

 そして膝をつき、地面に落ちた刀を左手で拾うと、「に、げて」と言いながら刀を首に突き当て、自ら倒れ込んだ。

 みるみる地面に血だまりが広がり、鴨居は動かなくなった。


 それを見たさっきの破れ羽織が、腰を落とし刀の柄に手をあてた姿勢のまま、虎之介にじりじりと接近を始めた。こっちは居合い抜きを使うらしい。

 鴨居の脇差を取るか、落ちている槍に飛びつこうか迷いながら虎之介が距離を測っていると、

「ぎやあっ」悲鳴が上がった。壮漢は足をもつれさせ、地面に倒れ込んだ。黒いなにかがぶらさがったままの顔を押さえ、のたうちまわる。

 ネズミだ。

 野ネズミと思われる小動物が何匹も鼻や手、腹などいたる所に噛み付いている。さっきの三十男も同じ目にあっている。こちらは転げ回ってネズミを落とそうとするが果たせず、ますます噛み付く数が増えた。

「わわわわわ」悲鳴をあげながら、ごろごろと地面を転がり回る。


 ますます羽織を破れさせた壮漢がようやく、大きな黒ネズミを毟り取って姿勢を立て直そうとした。するとすかさず、黒い稲妻のような影が走った。

(あれは、鎌鼬か)

 ひと抱えある四足獣とわかったが、残像しか残らないほど動きが素早い。

 一瞬、破れ羽織の首筋と交差したかと思うと、すぐ跳び去った。

 残された男は首を手で押さえたが、指の隙間から勢いよく赤い血が吹き出している。完全に地面に伏すと痙攣を繰り返し、次第に動かなくなった。

 獣はいつの間にかいなくなっている。


 状況の理解できない虎之介が棒立ちになっていると、突然腕を引っ張られた。

「こちらへ」忠次郎だった。虎之介が転倒させてしまったようで、額に大きなこぶができていた。

 悪いことをしたな、と思いながらもとぼけて尋ねた。

「おまえは、変になっておらんだろうな」

「あたりまえです」憤然とした忠次郎が叫び、それをきっかけに二人はすべてを置いて、そろって駆け出した。

 忙しく足を前に送りながら忠次郎は、

「鴨居には驚きました、自害とは。それにさっき殿を襲おうとしたのは、膳方にいた多聞でございますな。自慢の抜刀術も鼠には勝てなかった、あははは」

 助かったと思ったのか、興奮した口調でしゃべり続けた。

「あの者を知っておるのか」

「私より、粥川又八がひどい目にあいました。かなり前、酔ったあの者に殴られたのに、泣き寝入りです。又八め、聞けばなんて言うだろう」

 振り返ってみると、八十人を超えた行列のうち、まだ立って動いているのは五、六人ほどだった。残ったその男たちも、ただぼんやりとするばかり。意思を持っているかどうかは、わからない。

「とにかく、いったん退こう。あとはそれからだ」

「はっ」


 二人は駆けに駆けた。次第に暗く、道がわかりにくくなってきたが、人の踏み締めた跡を探し、それに沿って進んだ。

「あっ、そうだった」唐突に忠次郎が言った。

「どうした」

「これをお履きください」

 彼は立ち止まり、背中に担いでいた包みを開いた。さらしや縄、火打道具などが混じった中から草鞋を取り出し、虎之介の華奢な履物と取り替えた。

「用意がいいな」

「はっ」と答えてから忠次郎は首をすくめ、

「実は立つ前に、必ず肌身離さず持てとご用人さまに」

「兵部か。なるほど」

 襷をかけながら、一番頼りになる兵部を城に残らせたのは、結果的に良かったと虎之介は思った。彼なら主人を庇って殺されたかもしれない。

 空はすっかり暗く、月は出たが雲に隠れがちだ。

「いまさらではございますが、皆がそろって気の触れた原因はいったい」

「わからぬ。谷口は死んだし、鴨居もな。小平太が無事だと良いが」

「はい」忠次郎は肩を落とし、くりかえし息を吸ったり吐いたりしてから言った。

「まあ、しぶとい奴でございますから。それより、もしや食べ合わせが悪かったのではないかという気もいたします。あるいは毒きのことか」

 供の多くは昨晩、近くの寺と農家に分宿していたことを彼は口にした。

「なかなかの馳走が出たと、喜ぶ声を聞いておりました。鳥や猪まであったそうです。その時はほんの少し、羨ましく思ったりもしたのですが」

「こっちはがんもどきだからな」

 虎之介と床机役、そして谷口は明信院のいる寺の中に泊まった。そこでは精進料理しか出なかった。

「原因は毒かも知れんが、よくわからん。まだ追手が迫っている恐れはある。まずは切りぬけて城に戻り、生き残った者を探させよう。中間どもや荷を扱う者らは、うまく逃げてくれたと思うが」

「はい。あのような者どもは、素早いですから」

 二人はまた夜道に戻った。踏み固められた道を選んで進むうちに、山を登っているのに気がついた。

「殿、お疲れではありませぬか、なにも口にしておられませんし」

「いや、まだなんとかなる」

「それがわたしは、だんだん足が動かなくなってきました。ひもじくて」

「忠次郎、情けないことを言うな」

 

 風が冷たい。足元に道はあっても、これから向かう先に見当がつかなかった。

「ああ、ここはいったい、どこなのでしょうか」頼りない声を忠次郎は出してから、「いえ、申し訳ありません。拙者が口にすべき言葉ではありませんでした」

 生まれながらの町っ子を自認する忠次郎にとって、見知らぬ山道を追手におびえつつ歩くのは、たまらなく心細いのだろう。

 彼が感情を隠さずにいるため、かえって虎之介は腹のすわった気になれた。

「かまわぬ。この山も我が国の中だ。山賊でも出てくれば、名を告げて城に連れて帰ってもらおうではないか」

「はあ。山賊ですか」

「もののけが出たなら、真喜への土産話になる」


 いつの間にか、広く開けた場所に出ていた。

 雲が切れ、頭上にのぼった月の光がわずかな間、彼らを照らし出した。かろうじて小高い丘にいるのがわかった。

 周囲には樹々の黒々と茂った山が迫っていて、足元から一本、傾斜した道が走っているのが見えた。獣道ではなく、人の足幅ぐらいに踏みならしてある。おそらく、昼間は少なくない人が通るのだろう。

「澤田とはぐれたのは、失敗でござった」澤田とは郡方にいて山道に慣れているはずの男だった。駕籠の近くにいたのが混乱の中、姿が見えなくなった。

 よほど自信がないのかくせなのか、歩きながらも忠次郎はくよくよと各種の後悔をし続けた。

「澤田なら乾飯ぐらい持っておりましたかも」忠次郎の背負った包みに水筒はあったが、食料まではなかった。

「あの者がいても、どうせ迷っていたであろう」虎之介は苦笑した。「そう気に病むな。一日ぐらい食べずとも人は死なぬ」


「あっ、そうだ」忠次郎は、夜空にかかった丸い月を指差した。「月に向かって進めば、城に着くのではありませんか」

「いや」虎之介は否定した。「おそらく、逆だ。迷ったとはいえ、駕籠は城に向かって近づきつつあったはず。これまで歩いてきたのも、側道だろう。藪をこいだわけではないからな。おそらく、あれに見えるのは鼓岳」彼は前方にある黒い塊を指した。頂近くに、いびつな形の大岩が居座っている。

 真喜に教わって、領内にある伝説を持った場所については覚えていた。

 鼓岳というのは、昔むかしの領主の息子が月夜に大石の上に座って鼓を打つうち美しい女と親しんだものの、女の正体は狐だったという話で知られている。

「どんな女のひとだったか、一度会ってみたい。せっかくきつねが化けたのですから、さぞかし美しかったに違いありません」真喜が夢見るように言ったのを思い出した。そのあとつい、

「きつねが化けたなら、鼻や口がとんがっているのではないのか」と、言ってしまったのは虎之介だ。妻はそれを聞き、無神経さを咎めるような顔をしたが、やがて不承不承、「筋は通っていますね」と認めた。

 

 一方、鼓岳の左隣にある大小のお椀を伏せたような塊は、俄山と呼ばれる岩山のはずだ。そこから考えると、いま歩いている道をそのまま進めば、いずれ間道のひとつと合流すると思われた。そして、さらにそのまま行けば、遠からず街道筋へと出られるのではないか。

「あれが鼓岳。あちらが俄山。それを考え合わせると、ここから月を目指せば、隣国へと向かうことになる」

「はあ」

「国境には番がいるだろうが、ずっと先の森の中だ。あえて深い森林へと迷い込むこともない。よし、これで行こう」

「はあ」

「月を背にして、さあ忠次郎、歩くぞ。自信を持て」


 ちょうどその時、月明かりに四つ足の動物の影が浮かび上がった。

「にぁ」一声啼いたあと影は二人の前を横切り、虎之介が指した方向にとつとつと進んだ。そして、いったん二人を振り返ったと思えば、ぷいと前に向きなおり、また歩きはじめた。月がその背を照らしている

「見ろ、忠次郎。まるでついて来いとでも言っているみたいだ。ならばその通りにしようではないか」

「殿、あれはただの野良猫、あてになりませぬ。やけに身体が大きく尾も長い。あっ、ふたまたに割れてはいませんか。怪しい。もしや、妖かも」

「気のせいだ。大きいがとても美しい猫ではないか。それに賢そうだ。妖であるなら、きっとたいそう格の高い妖だろう。国の土地神の使いかもしれないぞ」 

 猫は立ち止まり、耳をちりちりと何度も動かしつつ、ふたりの会話を聞いている体だったが、長い尻尾を来い、とでもいうように振りあげてから、案内を再開した。

「そら忠次郎、行こう。猫の手も借りようではないか」

 すっかり自信をなくし、半泣きになった忠次郎を励まし、虎之介は猫の後ろについて歩きはじめた。

 確信があったわけではないが、月を目指すのが、彼にはなぜだかとても危うく思えたのだ。「あけ」がそちらに誘導しているような。しかしこの猫は違う。

 尻尾の長い猫は、ときどき振り返ると、また先を進んだ。


「今日は衣冠束帯でなかったのだけは、よかったな」

「はあ。刀がこれほど重いとは」

 忠次郎は刀を腰から背中にかつぎ直した。そして二人は、足下にできた自分の影をふむように、歩き続けて行った。

 いまや雲は切れ、明るい月が中天にあった。

 大きな月を背に、猫の尾を目印に山道を歩いていると、うつし世ではなく夢の世界の中での出来事のような気がしてならない。

 ときおり感じる土や樹々のにおいと、自分の息づかいだけが現実に戻らせてくれる。

(ここも、おれの国なのだな) 

 虎之介は長い尻尾に先導されながら、月あかりの下をひたすらに歩き続けた。

 

 空がどことなく明るくなって、夜明けが近いとわかったころには、二人は川の縁を歩いていた。忠次郎はすっかり無言になっている。

 河川まで出ると、猫はいつの間にか姿を消していた。

 かわりに人影があった。

 襲撃者かと身構えた二人だったが、影は大人にしては小さかった。水を汲んでいるようだ。

「おい」と忠次郎が声をかけると、人影は立ち上がってから、身をすくませた。

 近寄ると、まだ十を大きく出ていないと思われる少女だった。怯えさせないようにできるだけ優しく、

「難儀しておる。近くに大人はおらぬか、家はないか」と聞くと、少女はうなずいて駆け出し、いったん立ち止まった。

「お水は、飲みませんか」

「いや、いらん」虎之介が笑いかけると、やっと少女も柔らかい表情になって、また駆け出した。彼女のかわりに水桶をつかんだ忠次郎と虎之介が、あとを追いかけた。

「猫の次は小娘ですか」

「仕方ない。どちらもわれらより道に詳しいのだからな」

 小さな街道に出ると、あたりが白々と開けてきて、村落の状況が視認できた。

「おおっ」忠次郎が喜びの声を上げた。「馬がおります」

 道の両脇に、旅籠なのだろうか二階建ての家があり、横に馬屋があった。


 気のせいか右に傾いて見える建物に少女が入っていくと、しばらくして痩せた中年の女がものうげに出てきた。

 二人を上から下までじろじろ見ると、

「ひどい格好だね。追いはぎにでもあったのかい」

「ここは、どこだ」虎之介が尋ねると、

「そりゃ、おおよしだよ。なーんもよいことなんて無い、この世の行き止まりみたいなところだけどさ」

 主従は互いに顔を見合わせた。大吉は領内の西部にある小さな宿場であり、目指していた郡奉行配下の番小屋を、行き過ぎたのだとわかった。

「ずいぶん歩いたと思ったはずだ」虎之介が言うと、

「ここで休み、人を呼ばせましょう」さっきまで死にそうな顔をしていた忠次郎が、急に元気を出して提案した。

「そりゃいうのは勝手だけどさ。あんたら、お足はあるのかい。なんとかの沙汰も、金次第だよ」

「なるほど」露骨な言い草に、虎之介は妙に納得してしまった。

「おまえは、宿の者か。頼まれてくれ」と忠次郎が低姿勢になって頼んだが、

「悪いけど、このごろとりっぱぐれが多くてね。用を言いつけたいなら金か、代わりの品を先に出しておくれ。いちおうはお武家みたいだし、肌付き銭ぐらいは持ってるんだろ」

「こ、この無礼者」ついに忠次郎が癇癪を起こした。

「その方、こちらをどなたと心得るか」

「まあ、そういうな」虎之介は怒る忠次郎をなだめ、胴巻きから金を出させた。

「これで足りるか」

 小判を目にすると、「馬鹿にしやがって」と、女が怒り出した。

「あたしゃ、いくら田舎者だからといって、偽金をつかまされたりはしないよ」

 女が大声で喚き散らすと、向かいの家の人間まで出てきて、騒ぎになった。

(また、とりかこまれた……)

 世渡りとはなんと難しいことかと、虎之介はため息をついた。

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