「かわいそう」という言葉
僕は、「かわいそう」という言葉があまり好きではありません。だから、僕が人に「かわいそう」だと言うことは滅多にないんです。それでも少しは使ってしまっていて、そんな自分が嫌になります。
この言葉は、相手のことを見下しているから出るものだと思うんです。自分の中にある幸不幸の基準に相手を勝手に当てはめ、不幸だと断定し、かわいそうだと思う。だけど実際には、その人は幸せかもしれません。それを僕らは勝手な基準で相手を不幸だと思い、哀れみ、かわいそうだと言ってしまうんです。
僕も、たまに言われます。
姉が死に、幼馴染が死に、妹が死んだ。借金だけが残った。仕事がうまくいかない。そんな状況を見て「かわいそうに」と言われるんです。だけど僕は自分のままならない状況を理解しながらも、どこか幸福を感じています。自分の心を預けられる友人がいる。彼らのためなら、自分の命すら惜しくないと思える。楽しませてくれる、癒やしてくれる推しもいる。金も地位も名誉も無く、未来もないかもしれない。それでも僕は幸福であることに変わりないんです。
見方を変えれば不幸なのかもしれません。
それは自覚しています。
全員生きていて、借金もなく、仕事もうまくいっている状況が一番良いのは理解しているんです。
だけど、そうなってしまったものは今更変えようがありません。仕事の状況は変えられる。借金も返済すれば無くなる。それでも命だけは取り戻せません。
「かわいそう」と言われると、そんな状況下に幸せを感じることを否定されているような気持ちになるんですよ。
それは人を見下しているから出る言葉だし、他人の幸福を否定する言葉でもあるんです。
だから、僕は「かわいそう」という言葉が嫌い。
その言葉を稀にではあるけど使ってしまう自分も、嫌になる。
皆さんは、どう思うでしょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます