第32話 黒き怪物


 体育館の裏口を出ると、すぐに森へとでる。一歩体育館から踏み出せば、道を照らすのは月明かりのみであった。そのため、森は全体的に曖曖として陰鬱である。

 たまに、大木の傘がはげた所に、月光が降り注ぎ、舞台のような明るい広場ができている。対比で、そこがとてつもなく輝いて見えた。


 体育館を出てから、2kmほど走ったあたりで、魚沼は、来た道を振り返ると、はぐれたクラスメイトがいないか確認する。森の地面は、木々の根が波のようにうねり、起伏があった。根が地面を覆うため、低木が少なく視界がきいた。魚沼の【視覚強化】の能力も相まって、かなり遠くまで見渡せる。

 根に足を取られながらも生徒たちが、懸命に走ってきている。次々と、生徒たちが魚沼の前を駆け抜けていく。


「もっと、走れって」

 魚沼は、煽るように手を振り動かした。まだ、校舎からそう離れておらず、悠長にしていては、すぐに追いつかれてしまう。


 しかし、思ったより東側に逃げて来る生徒の数が多い。ざっと見ただけで、50人以上はいるだろう。


 森へ入ってすぐ、生徒は、散り散りになった。森の中を真っすぐに、駆け抜けていく者もいれば、近くの林に身を潜める者と、その行動は様々だ。一方、2年2組の生徒達は、朝弘の指示通り東へと駆け走っていた。――東といっても、それは確かな方角ではない。森の中を探索するうえで不便なので、月の形を見て、月とは反対方向を東と呼んでいるに過ぎなかった。


 だが、それを見て、後から逃げ出した生徒が、追従してきたのだ。集団心理という奴だろう、無意識に人が多い方へと、行きたくなる。

 そのせいで、逃げにくくなった。3方向に生徒たちが分散して逃げているのなら、追う側も3択となる。しかし、1つの道に、たくさん逃げ込んだとなれば、当然そちらを追って来るだろう。


 しばらく待って、ようやく駆け走って来る生徒の波が途絶えた。

 魚沼は、一通り逃げ終えたものと思い、自分も逃げようと振り向こうとした。その時だ、遠くの木の陰から、走って来る女子生徒の姿が見えた。明るいブロンズの髪を見るに、おそらく、今井咲だ。彼女は、手を振り、何かを訴えているようである。すぐさま魚沼は、彼女のもとへ駆け寄った。


「何やってんだよ、もうすぐ追ってが来る」

 魚沼は、彼女のそばまで来ると、そう言った。彼女は、膝に手をついて息を整えている。


「そうなんだけど。怪我しちゃった子がいて。歩けないみたいで」

 今井咲の、息は絶え絶えである。


「まじか、どこだよ?」

 魚沼はあたりを見渡す。


「来た道真っすぐ。矢田さんたちが、肩かしてあげてるけど」

 今井咲は、前傾姿勢のまま、来た道を指さした。


「わかった。見て来る」

 魚沼は、駆けだした。すると、後ろから今井咲がついてくる。


「おい、お前は先行ってろ」

 魚沼は振り返った。


「でも……」


「息切れしてんだろ。先に逃げとけ、すぐに追いつくから」


「うん。わかった」

 彼女が頷いたのを見ると、魚沼はまた駆けだした。



 来た道を5分ほど引き返したあたりだ。遠くに3人の女子生徒を見つけた。全員2年2組の生徒だ。矢田舞と、松山さやかと、たしか佐藤だったか。どうやら負傷している生徒は佐藤のようだ。矢田舞たちに肩を借りて、ふらふらした足どりで木の根をまたいでいる。今にも3人そろって転倒しそうだった。


 魚沼は彼女たちのもとへ駆け走った。が、その時彼女たちの後方に、走って来る男子生徒たちが見えた。彼はとっさに木の陰に隠れる。おそらく追いかけてきた見張りの生徒だろう。というのも体育館にいた生徒には配布されていない、麻のローブを身にまとっていたからだ。ざっとみて生徒の数は4人、全員男子生徒だった。

 魚沼は大木の幹を背にして息を押し殺す。女子生徒たちとの距離は、大木を隔ててすぐである。


 すこしして声が聞こえた。


「ちょっ、痛い、やめて」

 声音から、おそらく松山さやかの声だ。


「うるさい、おとなしくしろよ。逃げやがって。手間かけさせんなよ」

 男子生徒の荒々しい声が続く。


 魚沼は、木の陰からそっと彼らを盗み見る。男子生徒が、松山さやかの手首をつかみ引っ張っている。4人の男子生徒たちは、完全に彼女たちを包囲していた。と、男子生徒の一人と目があいそうになって、魚沼はとっさに木の裏に身を隠した。


「やめて。私たち、何も悪いことしてないんだよ」

 おそらく、矢田舞の声だ。その声音は力強い。


「でも、逃げただろ」

 追っての男子生徒は、その勢いに押されてか、心なしか声が小さい。


「死にたくないんだから。逃げるよ!」


 少しの間、沈黙が続いた後、追っての生徒たちは談義を始めた。

「どうするよ。殺すのか?」

「当たり前だろ。何人かの死体持って帰らないと、俺らが会長に殺されるだろ」

「まあそうだよな」


 彼らは、彼女たちを殺す気であるようだ。魚沼は、耳を澄まし、飛び出すタイミングを計っていた。


「一緒に逃げようよ」

 そんな雰囲気の中、矢田舞が言った。こんな状況であるのに、彼女の声からは、一切の動揺を感じなかった。


「馬鹿なこと言うなよ! 逃げれるわけねえ。これから、会長たちや、探索部隊の人たちが、追っかけて来る」


「大丈夫。大丈夫だって、朝弘君が言ってたから。絶対に大丈夫なんだよ」


「誰だよ、それ。わけわかんないこと言うなよ。くそっ、ほんとに逃げれるのか。いや無理だろ」

 追っての男子生徒は、なにやらぶつぶつと独りごちている。


「空弥、正気かよ? 会長裏切るつもりか」

 別の男子生徒が言った。


「けど逃げるんだったら今しかチャンスないだろ。そもそも、これだけの、生徒逃がして、会長が俺ら見逃すか?」


「でもよ……」


「大体、殺すって、どうやるんだよ。俺はやらねえからな。お前が殺せよ!」

 くうや、と呼ばれた男子生徒は、矢継ぎ早に、まくし立てた。どうやら、彼らも生徒を殺すのに抵抗があるようだ。


 しばらく、黙り込み、逡巡しているようだった。魚沼としても、彼らが矢田舞の提案に乗ってくれるのが一番手っ取り早い。相手の能力もわからなければ、武器もない。さらには4人相手。さすがに分が悪い。


 そして、相手の返答を、しばらくと、待っていた時だ。突如、大地が割れんばかりの咆哮が鳴り響いた。それはおおよそ、天災をも思わせるほどの強大なものである。音は、足元から魚沼の体を這い上がり、天地が逆になったかのような錯覚を覚えた。


 魚沼は、腰が抜けてしまった。木の幹に背中を滑らせて、その場にへたり込んだ。そして、ようやくと、震える体を動かし、木の裏から音の方を伺う。


 怪物だった。自分と男子生徒たちを隔てた先に、黒々と筋肉質な体を持った、生物が、前傾を起こし佇んでいたのだ。その頭の位置は、巨木の枝にまで達するほどに大きい。まるで恐竜である。いや、それをさらに人間に近づけたような、おぞましい風体であった。もちろん、現実世界にあんな生き物は存在しない。


 そして、その生き物の足元には、小柄な少女が立ちすさんでいる。その少女は、髪をツインテールに結んでいた。髪は銀髪で、明りがなくとも輝いている。汚れ一つない白いワンピースが、まばゆい。その存在は、とても希薄で、錯覚なような気すら覚える。


「やっと、出て来たのね」

 彼女の声は、とても澄んだ。


「誰だお前?」

 男子生徒は、震える声で、彼女に問いかけた。


「私は、ラスピリカ。そうね、この子は、サイエンテ」

 彼女は、そう名乗ると、怪物に視線を移し、その足を優しくなでる。


 すると、サイエンテと呼ばれた生き物は、苦しそうなうめき声をあげた。口元からよだれを垂らし、体にしては、小さな腕を持ち上げ、顔を覆う。


「痛いのね。可愛そうに、この子の目、傷ついて……」


 彼女の話を聞いて、魚沼は、怪物の頭部を見上げた。確かに、目元は、切り傷のような跡があり、目が開けれぬようであった。そして、開かぬ瞼の間から、不気味な光が漏れ出しているのがわかる。


 彼女は、怪物から視線を戻すと、こちらを伺う。

「逃げないの? 私は今からあなたたちを殺すわ?」


 誰も、言葉を発する間もなかった。その言葉を聞き終えたときには、すでに2人の男子生徒が、怪物の両手にすくいあげられていた。彼らが叫び声をあげると、同時。握りつぶされた。まるで、濡れた布巾を絞るように、滴る血がこぶしから地面に落ちる。


 その光景を見た松山さやかと、佐藤の、甲高い絶叫が響く。恐怖で我を忘れたように叫び続けている。


 魚沼も腰が抜けてしまって、助けに飛び出すことは勿論、逃げることすらできない。


 サイエンテと呼ばれた怪物は、血が滴る拳を、頭上へと上げ、その滴を舌へと垂らす。

 次いで、サイエンテは、品定めをするように、こちらに顔を近づけた。その顔は、硬い外角でおおわれているようで、岩のようにごつごつとしている。


 生徒たちが、誰も動けない中。矢田舞だけが、動じることなく、むしろサイエンテの前に歩み寄った。


「何のつもり? あなた、武器もなしに戦うの?」

 ラスピリカは、ゆったりとした、調子で言うと、首を傾げた。


 矢田舞は、手を大きく平げると、振り返らず叫んだ。

「みんな逃げて」


 彼女に言われ、後ろで棒を飲んだようにたたずんでいた、男子生徒二人は、我に返ったように動き出した。くうやと呼ばれていた生徒は、絶叫して泣いている佐藤を背負うと、東側へと駆け出した。


「おい立てよ。逃げるぞ」

 もう一人の男子生徒も、腰が抜けたようにへたり込んでいた松山さやかの手を引き、立たせるとそれに続いた。


 魚沼も、一瞬逃げ出そうかと思案した。だが、矢田舞一人を置いて逃げるのに抵抗があり、寸前でとどまった。といっても、自分が残ったところで、あの怪物に勝てるはずもない。ただ、今逃げてしまえば、自らの良心の呵責に耐えられそうにもなかった。


「無駄だわ。この子が追えば、誰も逃げられないわ」


「だったら追わないで。私としゃべろ。私あなたと会話したい」

 会話をするたびラスピリカの、右手の人差し指につけられた赤い指輪が光る。指輪が翻訳機の代わりを担っていた。


 ラスピリカは一瞬驚いたように目を丸くすると、今度は不愉快そうに口元をゆがめる。

 

「本当に……。私は時々あなたたちを、殺すのが嫌になる」


「だったらなんで殺すの?」


 ラスピリカは、黙り込んで答えない。


 すこしして、サイエンテは、矢田舞を食らおうと、手を伸ばした。その時、驚くべきことが起きた。


「やめて」

 どういうわけかラスピリカが、怪物を制止したのだ。次いで、彼女は矢田舞に視線を移す。


「私は。あなたとしゃべりたくない!」

 そう言い放つと、踵を返し、校舎のほうへと歩いて行った。それに追従するようにサイエンテも姿をくらます。黒煙のような、もやがあたりに漂い。すこししてそれが晴れると、そこには誰もいなくなっていた。


 矢田舞はその場に座り込んだ。


「大丈夫か?」

 すかさず、魚沼は彼女のもとへ駆け寄る。今まで隠れていたくせに、と、自分のことをかっこ悪く思う。


「魚沼君。なんで?」

 彼女は、きょとんとした表情でこちらに顔を向けた。いつもの矢田舞である。あんなことがあったのに、なんとも肝が据わっていると驚かされる。




――魔獣サイエンテ


 魔に従属する、獣の一つ。その双眸からは、呪いが放たれるが、クルテチによる最後の反撃により、目を負傷する。


 その獰猛な性格と強大な力で、準魔時代のカジレオの腕をかみ砕いた。また、大国の一部地域では、魔王の一人として考えられ、畏怖されている。


 ※カジレオは現在の魔王の一人。


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