live someone's time 07

 熱をはらんだ吐息が湯気と混じり合う。


 わずかに身体を揺らすたびに熱湯が溢れ出て、派手な水音を響かせる。

 タイルに落下した洗面器がけたたましい音を立て、それは幾重にも周囲に反響して耳をつらぬく。


 壁一面には剥げかけた富士。

 誰もが銭湯と聞いて思い浮かべるであろう光景。

 一度も訪れたことがなかった私ですら漠然と抱いていた印象、その通りの空間。


 どうして私がそんなとこにいるのかといえば。

 

 ぼやける視線の先、水蒸気のカーテンの向こうにいる一夜限りの同居人が、ほんの一時間ほど前に誘ってきたわけだ。


「……希実花、お風呂行かない?」


 ソファにだらしなく沈み込んで、とりとめのない空想を弄んでいた私は一瞬思考を停止した。

 それから数秒の間、彼女の言葉を推し量った上で。


「えっ、ここってお風呂もあるの? まさか使えるの?」


「――っ、ふふっ、あはははっ……、そんなわけないよ、水も出ないのに」


「じゃあ、どういうこと、ネカフェでも行くの?」


「ううん、この近くに銭湯があるんだよ、私はいつもそこ使ってるんだけど」


「へぇ……銭湯、なんてあるんだ。えっと、そこって私も使えるの?」


「うん? 会員制だって話は聞いたことないけど……希実花はタトゥーでも入れてるの?」


「へっ、それは入れてないけど……あの、私、行ったことなくて」


「そうなんじゃないかとは思った。大丈夫だよ、閑古鳥が鳴いてるから」


「それ、どういう意味で大丈夫なの?」


 あはは、でも不思議と続いてるんだよね。おかしそうな口調で返しながら、早速、彼女は衣類やらタオルを確認している。


「希実花、その手じゃお風呂入るとき大変そうだし」


「……ああ、そういうこと。気にしなくていいのに、なんか迷惑かけてるね」


「あれ、もっと嫌がられると思ったけど。だって……ただ自己満足に無理やり付き合わされてるだけだよ?」


「わかってる、けどそれも私の態度のせいでしょ? それに宿貸してもらってる立場だから多少の迷惑はかまわない……あと、まあ実際に助かってるわけだし……」


「そっか……、希実花は思ったより素直な性格してるんだ」


「……っ、それより私、着替えとか持ってないんだけど」


「サイズ合わないかもだけど私のTシャツとか貸すから、下も希実花が別にいいなら」


「あ、うん、そういうのは気にしないけど……」


 何か他にもっと気にするべきことがあるような判然としない気持ちのまま、気付けば用意を済ませた彼女に連れられて暖簾をくぐっていた。


 銭湯は建設現場から5分くらいの住宅街の一画にあった。

 外壁の塗装剥げからも、内装のひび割れからも、番台に座るおばあさんからも、すべて昭和の雰囲気が漂っていて、ついでに彼女がいうように閑古鳥が鳴いていた。


 彼女は主人のおばあさんとも知り合いらしくて、私のことを紹介されたおばあさんが新規客に驚くような一幕もあって。


「――はい、ちょっと右手上げて」


「……いや、身体くらい自分で洗えるんだけど」


「左手使えないのにどうやって右手洗うの? まあ、私も前とか全部洗う気はないから」


「ん、なんか、すごく恥ずかしいんだけど」


「なんでいうのさ、そういうこと。……そういえば希実花って髪の手入れとかきっちりするタイプ?」


「いや、そういうふうに見える?」


「ううん、もしそうならストレスだろうなー、って」


「ぅ、はぁ……うん、そうかもね」


「……ん、ほら、終わったよ、前とかは自分で洗ってね」


 手渡されたスポンジが、今まで他人に身体を洗われていたという非日常を突き付けてくる。

 思わず取り落としそうになる、その泡まみれの温度は、はたして私と彼女と熱湯の平均値なんだろうか。


 それから私は不明瞭な胸中をどうにか整理しようと、洗い場に彼女を残して、こうして慣れない感覚に身を沈めている。


 けれど、この場所にいると何もかもどうでもよくなってしまいそう感覚がある。


 心地よくて、疑問も、不安も、湯気の中に溶けていくような。


 そんなわけあるはずもないのに。


 熱湯に浸かっていない頭と左手だけが現実に取り残された、そんな妄想が膨らむ。


 トプン、と隣で音がして、女子高生一人分の体積に押しのけられた熱湯が私の唇をなぞった。


「気持ちいい? ……って聞くまでもないか」


「……うん、なんか温かい、あたりまえなんだけどさ、……普段はシャワーばっかりだから」


「そうなんだ」


「……前は、ちゃんとお湯に浸かってた気もするんだけど、……わかんない」


「……いいんだよ、めんどいことは考えずにお湯に溶けちゃって、大丈夫だから」


「そう、なんだ……」


「……でも、私も誰かとこんな話するとは思わなかった」


 あれ、彼女は誰のことをいってるんだろう。


 視界の先、口元に笑みを湛えて揺らめいているのは彼女か、それとも水面に映った私か。


「……希実花、いいお湯だね」


「……そうだね、詩乃」


 やけにはっきり感じ取れる呼吸音、身体の枠を脱してしまえそうな眠気。


 目を閉じるとお湯の匂いが頭の中をいっぱいにして。


 のぼせたの? そういって後ろ髪を弄ってくる手に反応するのは、もう少し後にしよう。


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