一章 契約のはじまり①

 表の方から、人の声がする。

 琴をつまいていたすずは顔を上げ、初夏の風を受けてやわく波打つを見つめた。

ふみでも届いたのかしら? お客様が来るのも、久しぶりね)

 しん殿でんの方で、ぱたぱたと足音がする。どうやら叔父が応対に出ているようだ。おっとりしている叔父に接客が任せられるか少々不安だが、今は様子を見るべきだろう。

 鈴子は東の対で暮らしているが、しきは親のものではない。この屋敷の主人はしようごんたちばなのなりつぐで、鈴子は彼のめいだった。

 鈴子は、小国の国司だった父とだいごん家のひめだった母の間に生まれた。鈴子の生家である橘家はそれほどゆうふくではなかったものの、無口ながらやさしい父と琴の名手だった母に愛されて幸せに暮らしていたのだが、鈴子がむかえるよりも前に、二人ともくなった。まだけつこんできるねんれいでなかった鈴子は、父方の叔父である成継のやつかいになった。

 妻を亡くしていた叔父は鈴子が心配になるほどのおひとしで、しっかり者の従兄いとこと鈴子で叔父を支えてきた。だが今年のもくで従兄が国司になったため、鈴子は実質ここの女主人として屋敷を守っている。

(叔父様は、大喜びで私を迎えてくださった。なかなかしようかくできなくてお金にゆうがないときがあっても、私にはいつも十分なご飯やてきな衣装を準備してくださった)

 十二歳のときの裳着だって、鈴子の方が申し訳なくなるくらい立派にり行ってくれた。そして少納言の姪というみような立場の鈴子になかなかもらい手が現れず、十七歳という難しい年齢になってもなお、大切に育ててくれている。

(お屋敷を守るだけじゃなくて、もっと色々な形で叔父様に恩返しをしたいけど……)

 祖母のお下がりとしてもらった物語には、簀子縁で琴を弾けばらしい貴公子にめられると書かれていた。

 なるほどと思って真似まねをしたのだが、鈴子にふみをくれるような男性はなかなか現れない。何度か通りがかりの男性が立ち寄ってくれたりはしたが、ほとんどの者はここが少納言の家で鈴子がその姪だと知ると、さあっとどこかに消えてしまうのだ。

 おそらく貴公子たちにとって、鈴子は結婚相手としてはりよくに欠けるのだろう。叔父は殿上人だが、じゆ五位下という最下位の身分。うだつも上がらないし、有力ながあるわけでもない。わざわざ鈴子でなくても、よりよい結婚相手はあまた存在するのだ。

(年を取れば取るほど、結婚は難しくなってしまう。そうすれば、叔父様に恩返しするどころか、お荷物になってしまう……)

 ぎゅっと、ひとえすそにぎりしめる。

 別に、結婚にあこがれているわけではない。だが、鈴子が橘家の姫として結婚できれば叔父の助けにもなるし、ごくらくじようにいる父や母もきっと安心できるだろう。

(……それにしても、お客様はまだお帰りにならないのかしら)

 立ち上がり、少しだけ御簾を持ち上げて外をうかがう。まだ庭の方から話し声が聞こえていた。思ったよりも話が長引いているようだ。もうしばらく待ってから様子を見に行こうか、と思っていると、簀子縁を歩く足音が聞こえてきた。

「姫様、ですー。そちらにいらっしゃいますか」

「ええ。何かあったの?」

 聞き慣れた少女の声がしたので御簾を持ち上げると、姉妹きようだいであるきりが入ってきた。彼女は何事についても現実的な鈴子と違っていつもふわふわしている少女で、少しねむそうに半分まぶたが閉じた目と間延びした話し方がとくちよう的だ。

 母屋にすべり込んできたきりは、こくんとどうじよのようにうなずいた。

「そうなんです。おお殿とのさまが、姫様をお呼びなのですー」

「叔父様が? 今はお客様の対応中でしょう」

 鈴子が言うと、きりは庭の方を手で示した。

「そうなんですけどね、お客様は姫様にご用があるそうなのですー」

「私に?」

「はい。よく分からないんですけど、姫様をおよめさんにほしがっている貴公子がいらっしゃるそうなんですー」

「そうなの。……えっ?」

 いつしゆん、聞きちがいかと思った。きりをぎようするが、彼女は「なんかすごい人が姫様と結婚したいそうですよー」とのほほんと話している。聞き間違いではないようだ。

(私をお嫁さんに……? つまり、えんだん……!?)

 急に立ち上がったためにひざきようそくにぶつかったが、それを気にしている場合ではない。

「ちょっと、それって一大事じゃないの! すぐに行くわ!」

「あ、だめですよ。ぐしが乱れてますし、ひとえ姿じゃないですか。お客もいらっしゃってるんですし、せめてうちきくらい着ていきましょうよー」

 室内だから身軽な単しか着ていなかったので、きりが止めてきた。そして彼女はふせの上に引っかけていた袿を取って鈴子に着せ、くしかみも整えてくれた。のんびりしているきりだが、いざというときにはすさまじい行動力を発揮するたのもしい家人である。

 小袿は表が白、裏が青の、の花がさねだ。鈴子は同年代の女性の中ではやや背が高いので、初夏にふさわしい色合いの小袿が、鈴子の真っびた背筋を美しくえさせすがすがしい印象をあたえてくれる。少し前に叔父おじが夏の仕立てだと言って用意してくれた、見事な品である。

 きりをともない、鈴子はひさしに出た。ちらっと寝殿の方を見やると、文を届けに来た相手方の使用人らしき者たちが南庭に集まっていたので、ためしに人数を数えてみる。

(ひい、ふう、みい……つかいの方だけでも、うちの屋敷で働く全員より多そう……)

「なんかすごい人」ときりは言っていたが、これだけの遣いをせるのなら、相手は相当身分の高い人なのではないか。

(もしかすると……これって、すごい機会よね!?)

「おお、よく来てくれた、鈴子!」

 寝殿の母屋をおとずれた鈴子を、叔父の成継が迎えてくれた。すのえんに座って決してうまいとは言えない和歌をむことを人生の楽しみとするおんな叔父は、めずらしくもあせった様子で鈴子を座らせると、文をわたしてきた。

「きりから話は聞いたか?」

「はい、私にきゆうこんしてくださる殿とのがたがいらっしゃるとか、いらっしゃらないとか」

 受け取った文には、はなたちばなが添えられている。せんさいうすようの料紙を見ると確かに、「橘家の姫を妻に迎えたい」というむねと歌が記されていた。

「……これは、どちら様からですか」

 冷静に問うたつもりだが、少しだけ声がはずんでしまった。やっと、自分にも縁談がい込んできた。しかも、きりが「なんかすごい人」と言うくらいなら、身分の高い貴公子が鈴子を見初めてくれたということになる。

(もし相手の方が独身でいらっしゃるなら、正妻に迎えていただけるかもしれない……!)

 期待で胸をふくらませてそわそわする鈴子だが、叔父の反応はかんばしくない。それどころか、青い顔で首を横にり、かなり躊躇ためらった様子で口を開いた。

「それがな……鈴子よ、落ち着いて聞いてくれ。おまえを妻にと望むのは、とうのちゆうじよう殿どのなのだ」

 叔父の言葉に、鈴子は目をまたたかせ──がん、と頭をなぐられたかのようなしようげきを受けた。

(頭中将ってまさか……あの、「おにの中将」!?)

 世間にうとい鈴子も、頭中将のうわさはきりから聞いたことがあった。

 頭中将──ふじわらのさねあきは左大臣の息子むすこで、きんじようていとうぐう時代からの幼なじみ。背が高く、りんとしたぼうを持つ青年で、こんえのしようしようだったころからゆうもうさで名をせたといわれている。本人は武官一筋でありたがったが、みかどたっての希望で頭中将の座にえられたということだ。

 身分も見目も素晴らしい貴公子で、しかも独身。世の姫君たちにとって素晴らしい婿むこ候補だろうが、彼には大きな欠点があった。

 というのも──

「……頭中将は、類を見ないほどのかいりきの持ち主。たった一人で武装した兵たちをなぎたおして、片手で石製のすずりかいして、太刀たちさえこぶしいちげきたたき折る──と言われていますよね……?」

【画像】

「ああ。……職務には忠実で非常に有能だが、無表情で敵をほうむるそのれいてつな姿から、彼は『鬼の中将』と呼ばれており、特に女性からはひどくおそれられている」

 叔父の言葉に、鈴子はくちびるを引き結んで頷いた。

 きりの話では、「貴族のひめなら、『鬼の中将』にれられただけで骨折する」「表情一つ変えず人をあやめる不気味な男」「中将にとつげば不幸になる」と、ちまたでも様々な噂が飛びっているそうだ。

 帝の側近なのだから実際はそんな悪人ではなく、勝手な噂が一人歩きしている状態なのだろうが、恐るべき怪力を持つ男だというのは確かだ。

(そんな人が、私に求婚!?)

 恐ろしいやら混乱するやらで、手がふるえる。もし話を受ければ、鈴子はどうなるのか。骨も残らないほどつぶされてしまうのだろうか。そもそも、「鬼の中将」は何を思って鈴子のような取るに足らないむすめに求婚したのだろうか。だれからの求婚だろうか、とわくわくしていた少し前の自分がむなしい。

 鈴子を見てどう思ったのか、叔父はたたみに手をいて低くうなった。

「鈴子の気持ちもよく分かる。……私の力では頭中将──そして左大臣に異議を申し立てることは難しい。だが、可愛かわいめいに望まぬけつこんはさせたくない」

「叔父様……」

「案ずるな、鈴子。私に任せなさい。なに、いくらみような噂が立っていようと、中将殿は主上おかみからもしんらいされるお方だ。全く話を聞いてくださらないということもあるまいし、私の方からお断りの返事をさせてもらおう」

 叔父は明るく言うが、無理をしているのが丸わかりだ。け引きに向いていない彼は、感情をかくすのも下手なのだ。

 鈴子を心配させまいと明るく振る舞う叔父の姿に、鈴子は胃の辺りがずんと重くなった。

(叔父様はこうおっしゃってくださるけれど……相手は左大臣家。下手をすれば、叔父様がしつきやくするかもしれない……)

 叔父は人がいいので、これといった政敵がいない反面、強力な味方もいない。だから左大臣家のげんそこねた際に、叔父を守ってくれる人はいないのだ。

 左大臣からの結婚のしんを断って、叔父は無事でいられるのか。今後、政界でやっていけるのか。しようごん家は、従兄いとこは、きりは、鈴子は、どうなるのか。

 ──真っ暗な未来を想像し、鈴子はかたを震わせた。

(ううん、そんなことにはさせない。私が、叔父様を守らなきゃ。私がまんすれば、少なくとも叔父様にとって不利なじようきようにはならないはず……)

 みなのお荷物だけには、なりたくない。

 うつむいてしばし考えた後、顔を上げた鈴子は首を横に振った。

「……いえ、中将殿にお会いします」

「鈴子……」

だいじようです。ほら、このふみにも『まずは話だけでも』とあります。もしかしたら中将殿が私に会ったら、『思っていたのとちがった』ということで、引き下がってくださるかもしれないでしょう? こちらからお断りするより、あちらからてつかいしてくださった方が角も立たないはずです」

 つう、男性から送られてきた最初のそう文に返事をするのは、母親や乳母めのとの仕事だ。そこから相手をじらしてこいごころつのらせるのだが、中将相手にそんなまどろっこしいことをするのは逆効果だろう。

 鈴子の言い分ももっともだと思ったのか、叔父はだまってしまった。

 鈴子は微笑ほほえみ、中将からの文をふところに入れた。

「すぐに、お返事をしたためます。叔父様はその間、文使いの方をもてなしていてくださいませんか」

 叔父はようやっとうなずいたものの、その表情はいまだ晴れない。

「……このような決意をさせてしまって、すまない、鈴子」

 鈴子はうちひしがれた様子の叔父を見ると、ややこわったみをかべて立ち上がった。

「大丈夫ですよ。私、橘家の娘として、きちんと中将殿とお話をしますから」

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