一章 契約のはじまり②

 それから数日間、鈴子は半分たましいけたように過ごした。

「まー、よくびてらっしゃいますね。姫様、今日も東の対から一歩も出ずですかー?」

「……引きこもりたくもなるわよ」

 きようそくにもたれかかってぐったりする鈴子とは対照的に、きりはあっけらかんとしている。自分がうつうつとしているのに他人が明るいとつういらつものだが、きりの場合はのほほんとしているのを見ても特に腹が立ってこないのが不思議である。

 今夜、中将がしきおとずれる。「まずは話だけでも」ということなので、いきなりしんじよに押し入られるということはないだろうが、相手は「鬼の中将」だ。その気になればちようっ飛ばせるだろうし、鈴子を押さえつけることもかたくないはずだ。

 叔父おじはずっと申し訳なさそうで、そのことも鈴子の胸を痛めた。今朝もおいおいと泣いている叔父の背中をさすり、仕事に送り出したのだ。

 本当は鈴子も不安で仕方がないし、できることならぬりごめの奥にでも閉じこもっていたい。だが、そんなことをすればいっそう叔父を心配させるのは目に見えている。

(叔父様を助けたいと思っているのに悲しませるなんて、ほんまつてんとうだわ。叔父様のためにも、ちゆうじよう殿ときちんとお話をしないと)

 そうおのれを奮い立たせ、家人たちにも笑顔で接する。皆は鈴子のことを心配してきたが、彼らだって今夜訪れる中将をもてなしたり屋敷をそうしたりといった役目があるのだから、少しでも気を楽にさせてやりたい。

 ただ、きりだけはいい意味でずけずけとものを言い、いい意味で鈴子の気持ちをかき乱す。きりがいなかったら、鈴子はせみの抜けがらのようにくうきよな気持ちのまま今夜をむかえることになっていただろう。

「でも、もうこうなっちゃったら腹をくくるしかないですよ。別に、取って食われると決まったわけじゃないんですし、どんと構えてばんと迎えちましょうよー」

「……きりがうらやましいわ。私もきりくらい強かったらよかった」

 鈴子が力なく言うと、きりはからりと笑った。

「いえいえ、私は強いんじゃなくて、やわらかいんですよー。柔らかいから、へこんでもすぐにもどれるんですよ。強いだけだと、ぽっきり折れちゃいますからねー」

「……そっか。柔らかさね……」

 鈴子はしばしうつぶせ状態でちんもくした後、えいっと体を起こした。

「おお、姫様の復活ですね。おことですかー?」

「よく分かったわね。……こういうときだからこそ、じゆうなんでなければならないわよね」

 少し肩からずれかけていたうちきを引き上げ、鈴子はしとねに座り直す。

(そう、叔父様やきりたちを守りたいのなら、泣き言を言っている場合じゃないわ。中将殿がなぜ私との結婚を望まれているのかをきちんとたずね、断るにしても相手方がなつとくする形にしなければならない)

 きりが目の前に置いた琴に、指を走らせる。一番高音のげんをぴんとはじくと、それだけで心の奥にしずんでいたおりのようなものが少しだけうすらいだ気がした。




 夜、しようごんていの南庭にぎつしやとうちやくし、れる松明たいまつの明かりに照らされて一人の男性が降りてきた。

 彼はまずしん殿でんで叔父にあいさつをした後、わた殿どのを通って東の対にやってくる。彼にはひさしに座ってもらい、しに鈴子と話すことになっていた。

「いやー、きんちようしますね、姫様」

「きりは楽しそうね」

「それはもちろんです。『おにの中将』は相当の美男子らしいので、そんな人をご案内できるなんて、家人みようきますよー」

 きりには中将を東の対まで案内してもらうのだが、本人はじゆんすいに楽しそうだ。彼女は特に美男子好きではなかったと思うので聞いてみたところ、「んー、ちんじゆうを見に行くようなものですかねー?」と答えていた。

 やがてきりがいつたんを出て、中将を迎えに行った。いざきりがいなくなって独りぼっちになると一気に不安になり、鈴子は古びたばちをぎゅっとにぎりしめた。

 この撥は母の遺品で、心細いときや物のおびえているときなどはこれを握っていた。そうすると、き母から勇気をもらえるような気がするのだ。

(お母様、お父様。鈴子はがんります。どうか、見守ってください……)

 そうしていると、みしり、と庇のゆかいたきしむ音がした。その重量感ある音からして、きりではない。

 御簾の向こうで、ゆらりと大きなかげおどる。はっきりとは見えないが、かぶった男性であることは確かだ。

「……失礼する、たちばなひめぎみ

 どこかで聞いたことがあるような気のする、男性の声。だが、どこで聞いたのか考えるひまは鈴子にはなくて、彼女はびくっと身をふるわせ、撥を握りしめたままくちびるを開く。

「……ようこそおいでくださいました。どうぞお座りください」

「ああ」

 低い声に続き影が動いて、庇に置いた円座わろうだに相手がこしを下ろしたことが分かる。ほぼ同時にすすっと几帳のかげからきりがすべり込んできたので、鈴子は一気に肩の力を抜いた。きりは何も言わずにそばひかえたが、視線だけで「大丈夫ですよー」と教えてくれる。

「いきなり俺のような者がけつこんを申し出て、たいそうおどろかせたことだろう。今夜こうしてあなたと話をする場を設けてくれただけで、非常にありがたい」

「い、いえ。中将殿どののご要望とあっては、断るわけがありません」

 舌がもつれそうになりながら鈴子が言うと、御簾の向こうでふっと柔らかく笑う気配がした。

(……思ったよりも、おだやかな方なのかしら?)

 話し方はゆったりしているし、左大臣家の者でありながらおごった様子もない。

 鈴子は撥を握りしめる指をおもむろにはなしてきりにわたし、蝙蝠かわほりおおぎを広げて口元をかくした。

「ではさつそくだが……俺は、あなたを妻に迎えたいと思っている」

「……」

「だが、これはただの結婚ではない。……橘の姫君。俺はあなたに、けいやく結婚を申し出たい」

「……契約、結婚?」

 初めて聞く言葉に、思わずけな声を上げてしまう。ちらっときりを見ると、めずらしいことに彼女も困ったような顔で鈴子を見てきた。

(契約……それって、どういうことなの?)

 そもそも結婚は、家と家のつながりを重視するために──いわば契約の上に成り立つものだ。それなのにわざわざ「契約結婚」と強調させるということは、何かいつぱん的な結婚のわくから外れたものがあるのだろうか。

 鈴子は前を向き、つばを飲んで口を開いた。

「それは、どういうことでしょうか」

「……少し込み入った話になるが、どうか聞いてほしい」

 中将はそう断った上で、男らしく低くゆったりした声で話し始めた。

 ──左大臣家には、中将のまいがいる。今年で十二歳になりを済ませたばかりのひめだが、近日中にみかどじゆだいする予定だという。

「兄鹿と言われても仕方ないのだが、妹のみどりは非常に美しくて歌や手習いも得意なのだが、琴だけはそうもいかなくてな」

 中将の言葉に、鈴子は首をひねる。

「琴に苦手意識を持ってらっしゃるということでしょうか?」

「いや……本人は自分がうまくけていると思っているらしいのだが──その、少々個性的なのだ」

 中将は言葉をにごすが、大体のことは分かった。

(……なるほど。妹君がそう思われているのなら、きようせいは難しそうね……)

 中将や左大臣ならもっとよいにようぼうを見つけられそうなのに、と思ったが、妹本人に下手の意識がないのなら教える方も大変だろう。なかなか適任者が見つからず、鈴子におはちが回ってきたというところだろうか。

「それに、主上おかみは音楽にぞうけいが深くていらっしゃる。すでに入内しているきさきたちにもうたげの席でよく琴や琵琶を弾かせているのだ」

 それは鈴子も聞いたことがある。

(妹君が主上のちようあいを得ようと思ったら、音楽の才能は必要──でもそうなると、琴が苦手だということが足を引っ張ってしまうのね)

 そこで左大臣は、しようごんめいというみような立場ではあるが琴のうでまえが達者だという鈴子のうわさを聞き、むすめの女房にするべく手の内に引き入れる作戦を立てたという。

「左大臣家の女房となれば、それなりの身分が必要だ。しかも父は、絶対に碧子を裏切らない立場にするために、あなたを藤原家に引き入れたがっている。そうなると、独身の俺がちょうどいいということになったのだ」

「……だから契約結婚なのですか」

「いや、実は理由はもう一つある」

 そこでいつしゆん中将はなにやら躊躇ためらった様子を見せたが、居住まいを正した。

「……橘の姫君はご存じだろうか。俺の、異名について」

 緊張を隠せない様子のかたい声に、鈴子ときりは同時に息をんだ。どう考えてもそれは、「鬼のちゆうじよう」のことだ。

「俺は生まれ持ったこの力でしようかくもできたが、めんどうな目にもってきた。……少し前に、結婚を考えている女性と話をしていたらしきぞくが入り込んできたので、その場で成敗したことがあった」

「まあ……そのお方はきっと、さぞ安心されたことでしょう」

「いや、そうではないんだ。……目の前で賊をなぐってほうり投げたのがまずかったようで、その女性にはひどくこわがられ、追い出されてしまった」

 御簾越しに見える影が、しょぼんとかたを落としているようだ。そういえば、「中将にとつげば不幸になる」のような噂もあるそうだが、もしかするとそれは、結婚を考える女性の前で賊を殴り飛ばしたことがほつたんなのかもしれない。

「……確かに私でも驚くと思いますが、中将殿はその女性を守ろうとして戦われたのでしょう? 追い出すなんてあんまりです」

「そう言ってくれる者のほうが、おそらくまれなのだ。……それ以降、みような噂を立てられてな。あっという間に俺は『鬼の中将』などと呼ばれ、女性に怖がられ、赤子にさえ泣かれるようになった」

 赤子が泣くのは関係がないだろうが、そうした小さなことの積み重ねによって勝手な噂が広まり、みなが中将を遠ざけ、彼自身も思いめてしまっているのかもしれない。

 鈴子が目を細めていると、中将が言葉を続けた。

「父は俺に、俺はれた女性の骨をふんさいさせ、妻になった女性を不幸にするやくびようがみなんかではないと証明しろ、と命じたのだ。俺とあなたはふうになるが、期間限定の仮夫婦だ」

「仮の、夫婦……」

「ああ。期間中、あなたが碧子にことを教えるかたわら、俺たちは仲のよい夫婦を演じ、あのとんでもない噂をふつしよくさせる。噂が消えたころには関係を解消──平たく言ってえんし、俺は父の決めた正妻とさいこんする」

 たんたんと語られる内容に、一瞬だけ鈴子は息が止まり、すぐに大きく深呼吸した。なんとなく心の内はくうきよだが、頭は冷静に中将の言葉をぎんしている。

(つまり……これが中将殿のおっしゃる、「契約結婚」なのね)

 鈴子がするべきなのは、中将の妹に琴を教えること。そして、中将の噂が消えるまで彼の愛妻のふりをすること。

 そこに、愛情は生まれないし、生まれてはならない。

 となりできりが立ち上がろうとしたのを扇で制したのと同時に、中将が顔を上げる気配がした。

「だが、ここまでは父の命令だ。俺は仮とはいえ、一度妻となった女性のめいけがすことは絶対にしない。あなたが快適に過ごせるように手配するし、関係解消後もあなたの再婚に全力で取り組む」

 ぴくり、と鈴子の指先が動いた。てっきり、中将と離縁した後は「はい、さようなら」だと思っていたのだが、彼はその後も鈴子の面倒を見てくれるようだ。

 契約結婚とはいえこんれきのある女性をめとってくれる男は少なそうだが、頭中将のしようかいとなれば立候補する者がいるかもしれない。むしろ、今をときめく左大臣藤原家の力をもってすれば、非常にいい相手をつくろってくれるのではないか。

「それと……あなたの叔父おじぎみしようごん殿だが。俺は頭中将として、主上にもくくちえができる。だから、少納言のしようしんを願い出ることができるし、個人的に橘家のえんだってしよう」

「ま、まことですか!?」

 思わずはずんだ声を上げてしまったからか、「姫様ー……」ときりが少し困ったようにうなっている。きりが注意をうながす気持ちは分からなくもないが、鈴子は今の中将の発言にすっかり意識を持っていかれていた。

(叔父様の昇格の口添えに、橘家への支援……! もしそれがかなったら、やっと叔父様に楽をさせてあげられるし、きりたちにもたくさんお給金をあげられる。ぜんの国にいらっしゃるお兄様も、昇格できるかもしれない……!)

 叔父の財力では鈴子を養うのもせいいつぱいだったはずなのに、いつも叔父はがおで鈴子を育ててくれた。

 鈴子に母ゆずりの琴の才能があると知ったら、立派な琴を買ってくれた。

 季節に応じた着物を、教養を付けるための書物を、手習い用の紙を、いやな顔一つせずにあたえてくれた。

 ずっとずっと、恩返しをしたいと思っていた。

 でも、自分に何ができるのかとずっとあせり、いたずらに年を取ってしまった。

(中将殿どののご提案を受ければ、皆が助かる。中将殿も、妹君も、左大臣殿も、そして──私たちも)

 それが分かったとたん、「けいやくけつこん」と聞いてどこかむなしくなっていた心に暖かい春風がいたかのように感じられ、視界もすっと開けた。

 中将は鈴子の弾んだ声を耳にしたからか少しおどろいた様子だったが、すぐにうなずいた。

「ああ、約束する。父も、先に告げた二点について守ってくれるのならば後は俺に任せると言ってくださった。俺は、女性のあつかいがうまいとは言えない。だが、あなたが一時とはいえ俺に嫁いだことを決してこうかいさせないと、約束する」

「中将殿……」

 しなので、中将の表情は読み取れない。だが鈴子は、彼が真っぐな目で自分を見つめていることを感じ取っていた。

 この人を信じてもいいのだろうか、と自分に問いかける。

(「おにの中将」と呼ばれる人だけど……考えてみれば、冷静ですさまじいかいりきの持ち主ではあるけれど、おひとがらそのものをし様に言う噂は聞いたことがないわ。あのとんでもない噂はご本人も否定しているし、さるひめぎみの屋敷でろうぜき者を成敗したのだって、その姫を守るためだった)

 何より中将は、鈴子ごときの弱小貴族に対しても非常にしんに対応してくれるし、契約結婚についても彼にできる形で鈴子を守ると宣言してくれた。

(……信じる価値は、あるはず。私がきちんと約束を守り、中将殿もそれにこたえてくだされば、叔父様を助けることができる)

 すう、と胸の奥をやわらかな風が吹いたような心地ここちがした。

 中将を信じたい。そして、叔父を助けたい。

 その思いが、鈴子に決意を促す。

 鈴子は一つ深呼吸をした後、ざしたおうぎを胸にいて軽くこうべを垂れた。

「……かしこまりました。お話、お受けいたします」

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