一章 契約のはじまり②
それから数日間、鈴子は半分
「まー、よく
「……引きこもりたくもなるわよ」
今夜、中将が
本当は鈴子も不安で仕方がないし、できることなら
(叔父様を助けたいと思っているのに悲しませるなんて、
そう
ただ、きりだけはいい意味でずけずけとものを言い、いい意味で鈴子の気持ちをかき乱す。きりがいなかったら、鈴子は
「でも、もうこうなっちゃったら腹を
「……きりが
鈴子が力なく言うと、きりはからりと笑った。
「いえいえ、私は強いんじゃなくて、
「……そっか。柔らかさね……」
鈴子はしばしうつぶせ状態で
「おお、姫様の復活ですね。お
「よく分かったわね。……こういうときだからこそ、
少し肩からずれかけていた
(そう、叔父様やきりたちを守りたいのなら、泣き言を言っている場合じゃないわ。中将殿がなぜ私との結婚を望まれているのかをきちんと
きりが目の前に置いた琴に、指を走らせる。一番高音の
夜、
彼はまず
「いやー、
「きりは楽しそうね」
「それはもちろんです。『
きりには中将を東の対まで案内してもらうのだが、本人は
やがてきりが
この撥は母の遺品で、心細いときや物の
(お母様、お父様。鈴子は
そうしていると、みしり、と庇の
御簾の向こうで、ゆらりと大きな
「……失礼する、
どこかで聞いたことがあるような気のする、男性の声。だが、どこで聞いたのか考える
「……ようこそおいでくださいました。どうぞお座りください」
「ああ」
低い声に続き影が動いて、庇に置いた
「いきなり俺のような者が
「い、いえ。中将
舌がもつれそうになりながら鈴子が言うと、御簾の向こうでふっと柔らかく笑う気配がした。
(……思ったよりも、
話し方はゆったりしているし、左大臣家の者でありながら
鈴子は撥を握りしめる指をおもむろに
「では
「……」
「だが、これはただの結婚ではない。……橘の姫君。俺はあなたに、
「……契約、結婚?」
初めて聞く言葉に、思わず
(契約……それって、どういうことなの?)
そもそも結婚は、家と家の
鈴子は前を向き、
「それは、どういうことでしょうか」
「……少し込み入った話になるが、どうか聞いてほしい」
中将はそう断った上で、男らしく低くゆったりした声で話し始めた。
──左大臣家には、中将の
「兄
中将の言葉に、鈴子は首を
「琴に苦手意識を持ってらっしゃるということでしょうか?」
「いや……本人は自分がうまく
中将は言葉を
(……なるほど。妹君がそう思われているのなら、
中将や左大臣ならもっとよい
「それに、
それは鈴子も聞いたことがある。
(妹君が主上の
そこで左大臣は、
「左大臣家の女房となれば、それなりの身分が必要だ。しかも父は、絶対に碧子を裏切らない立場にするために、あなたを藤原家に引き入れたがっている。そうなると、独身の俺がちょうどいいということになったのだ」
「……だから契約結婚なのですか」
「いや、実は理由はもう一つある」
そこで
「……橘の姫君はご存じだろうか。俺の、異名について」
緊張を隠せない様子の
「俺は生まれ持ったこの力で
「まあ……そのお方はきっと、さぞ安心されたことでしょう」
「いや、そうではないんだ。……目の前で賊を
御簾越しに見える影が、しょぼんと
「……確かに私でも驚くと思いますが、中将殿はその女性を守ろうとして戦われたのでしょう? 追い出すなんてあんまりです」
「そう言ってくれる者のほうが、おそらく
赤子が泣くのは関係がないだろうが、そうした小さなことの積み重ねによって勝手な噂が広まり、
鈴子が目を細めていると、中将が言葉を続けた。
「父は俺に、俺は
「仮の、夫婦……」
「ああ。期間中、あなたが碧子に
(つまり……これが中将殿のおっしゃる、「契約結婚」なのね)
鈴子がするべきなのは、中将の妹に琴を教えること。そして、中将の噂が消えるまで彼の愛妻のふりをすること。
そこに、愛情は生まれないし、生まれてはならない。
「だが、ここまでは父の命令だ。俺は仮とはいえ、一度妻となった女性の
ぴくり、と鈴子の指先が動いた。てっきり、中将と離縁した後は「はい、さようなら」だと思っていたのだが、彼はその後も鈴子の面倒を見てくれるようだ。
契約結婚とはいえ
「それと……あなたの
「ま、まことですか!?」
思わず
(叔父様の昇格の口添えに、橘家への支援……! もしそれが
叔父の財力では鈴子を養うのも
鈴子に母
季節に応じた着物を、教養を付けるための書物を、手習い用の紙を、
ずっとずっと、恩返しをしたいと思っていた。
でも、自分に何ができるのかとずっと
(中将
それが分かったとたん、「
中将は鈴子の弾んだ声を耳にしたからか少し
「ああ、約束する。父も、先に告げた二点について守ってくれるのならば後は俺に任せると言ってくださった。俺は、女性の
「中将殿……」
この人を信じてもいいのだろうか、と自分に問いかける。
(「
何より中将は、鈴子ごときの弱小貴族に対しても非常に
(……信じる価値は、あるはず。私がきちんと約束を守り、中将殿もそれに
すう、と胸の奥を
中将を信じたい。そして、叔父を助けたい。
その思いが、鈴子に決意を促す。
鈴子は一つ深呼吸をした後、
「……かしこまりました。お話、お受けいたします」
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