平安仮そめ恋契り 鬼の中将と琴音の姫

藤咲実佳/角川ビーンズ文庫

序章 誘うしらべ

 今日は本当に、最悪の一日だった。

 日のしずみかけた大路を、男は重い足取りで歩いていた。彼ほどの身分の者ならぎつしやで移動するものなのだが、今はそういう気分になれなかったので断ったのが、半刻ほど前のこと。

 今日のためにあつらえたふたあい直衣のうしが、ひどく重く感じられる。帰宅して、父に何と報告すればいいのだろうか。妹には、どのように話をすればいいのだろうか。

 うつうつとした気持ちで歩いていた男は、はたと足を止めた。周囲の景色に見覚えがない。ていもどっているつもりだったが、いつの間にか道をれ、今まで来たことのないこうに入ってしまっていたようだ。

 考えながら歩くと、ろくなことにならない。かたを落としてきびすを返しかけたが、ふと、かすかな音を耳にして動きを止めた。

 それは、いちけんそうまぎれるようにか細く聞こえることの音色だった。決して派手な音色ではないし、いている曲も京に住む者ならしよみんだろうと知っているぞくみんようだ。

 だが、みようこころかれる。男の、ずうたいのわりにせんさいな心はきりきりと痛んでいたが、その音色を聞いているとふっと体が軽くなるような心地ここちに包まれた。

 いざなわれるように、琴の音の聞こえる方へと足を進める。そうして向かった先にあったのは、ちんまりとしたていたくだった。しき面積からして五位以上の殿てんじようびとの邸宅なのだろうが、庭木などはあっさりしていて、少々ものさびしいふんがある。

 門は、開いている。足をみ入れた先、東の対のすのえんに座って琴を弾く少女の姿を認め、男は目を細めた。

 少女は、男の気配を感じたようで琴を弾くのをやめ、顔を上げた。夕暮れ時の風を受けてつやのあるくろかみがさっとれ、きりりとした目元があらわになる。

 おそらく、世の人間の大半はこの少女を美人とは呼ばないだろう。だが男にとって、たおやかなだけではなさそうな意志の強いまなしを持つ少女は、大変興味深く感じられた。

「どちら様ですか。叔父おじ様にご用ですか」

 少女は近くに置いていたおうぎを広げつつ、たずねた。若い女性のたしなみとして顔をかくしつつも、はっきりとした物言いで、見知らぬ男を前にしてもおびえたりせずに応対しようとする姿が好ましい。

「いきなり押しかけて申し訳ない。落ち込んだ心を解きほぐすような優美な琴の音色を耳にし、つい立ち寄ってしまった。じやをした」

「まあ……おめくださり光栄です。私の琴でよかったら、いていかれませんか?」

 少女はそう言い、扇をずらしたすきから微笑ほほえんだ。

「私の母もよく、仕事でつかれた父に琴をかせておりましたの。音楽は心をいやすと言われております。つたないものではございますが……」

「そんなことはない。では、もう少し近くで聴いてもいいだろうか」

「は、はい。どうぞ、こちらへ」

 男の申し出に、少女は少しおどろいた様子だがすぐに円座わろうだすすめてくれた。

 男は一言断ってそこに座り、少女は再び琴を弾き始めた。男のためなのか今度は民謡ではなく、宮中で愛されているようきよくを流れるような手つきでかなで始めた。

 ……その温かい音色を聴いていると心が落ち着き、いつの間にか男は、ぽつぽつと心の内をき出していた。

「……俺は少々めんどうな事情持ちで。みな、俺のかたきなどを知ると目をかがやかせて寄ってくる。だが、本当の俺を見せるとけんの眼差しで遠ざかってしまう。自分にうそをつきたくないが、そうしないとたくさんのものを失ってしまうのだと……今日、気づいたんだ」

「難しいことをおっしゃるのですね。でも、本当のあなたを知ってげる人のことをずるずる引きずらなくてもいいんじゃないでしょうか。むしろ、早いうちにご自分の味方ではないと分かって、かえってよかったのだと思えば気も楽になるでしょう?」

 琴を弾きながら、少女は言う。男がはじかれたように顔を上げると、話をしながらもしんけんな横顔で琴を弾く少女の横顔が見え──とくん、と心の臓がきようこつたたいた。

「あなたは、自信を持てばよろしいと思います。いつかきっと、本当のあなたを見てくれる人が現れるでしょう。その人はきっと、ずっとあなたに寄りってくれるはずです」

「……そうなのか?」

「多分」

「……そうか。多分、か」

 男がくくっと笑うと、少女は微笑んだ。その微笑みに、またしても男は胸の奥がうずくのを感じたのだった。


 男は、今出てきた邸宅をり返り見た。少女はすでに引っ込んだので、もう琴の音は聞こえない。

「……本当の俺を見てくれる人、か」

 つぶやいた男は目を細め、きびすを返す。

 その足取りは少し前とちがい、非常にかろやかだった。

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