第2話 なんか魔法だって

「はぅ~……」


 文月はトイレの一件を思い出し、頭を抱え込んで可愛くうなる。

 あんなに飛び散るんだ……。

 音もけっこうするし……。

 拭く面積もお尻の後ろから膝下まで……。

 女の人はあんなに格好悪い姿勢で後始末するのか……。

 これから毎回ああなると……。

 あうあうあうあう!忘れろ忘れろ!

 ふるふると頭を振って深みに嵌りそうになる思考を引っ張りあげる。


「あの……えっと、すみません、もう一度お名前を教えてもらっていいですか……?」

「リグロルでございます」

「はうぅ……リグロルさん、あの、あ、ありがとうございました」

「お礼などもったいない、私はフミツキ様つきのメイドです。どうぞご自由に指図してくださいませ」

「あの、じゃあ、ちょっと聞きたいんですけど」

「私に答えられることなら何でもお答えします」

「ここはいったいどこなんでしょう?」

「ラスクニア王国の王城です」


 うーん、そこから分からない。文月は質問を考える。とりあえず……。


「あの、リグロルさん、後ろだと話しづらいので座ってもらえませんか?」

「お心遣いありがとうございます」


 リグロルはそう言ってテーブルを挟んだ反対側に立ってにっこりする。

 けど座らない。


「フミツキ様と同じ席につける程の身分ではございませんので」

「いやいやいや、僕もそんな偉い人じゃないですよ」

「とんでもございません。フミツキ様はタルドレム王子のご婚約者。いずれは王族の血筋をその身に宿されるお方です。そのご身分は私などとは文字通り天と地ほどの差があります」

「いや身分はともかく、宿しませんからねっ?!」

「大丈夫ですよ」

「何が?!」


 まてまてまて、とりあえず婚約だの宿すだのは一旦忘れよう。

 文月は今度こそ落ち着いて質問を考える。


「えーっと、リグロルさん、日本って知ってますか?もしくはジャパン」

「ニッポン、じゃぱん……ですか、申し訳ありません。存じません」


 驚いた文月は知っている限りの国名を列挙するがそのことごとくにリグロルは知らないと答えた。

 まさかと思いながら文月は決定的な質問をする。


「……地球って知ってます?」

「やはり存じません」


 先ほどからの質問に全て「知らない」しか回答できずリグロルは大変申し訳なさそうに首を振った。

 文月はテーブルに突っ伏した。

 リグロルの話が本当ならここは地球ではない。魔法だの魔物だのも考慮すると別の物理法則が支配している別宇宙かもしれないとも思う。

 元の世界が遠のくのが感じられた。

 いや、まだだ。この質問がまだだった。

 これに応えてくれなければもしかしてまだ望みはあるかもしれない。


「……リグロルさん、……魔法を見せてください」

「かしこまりました」


 そう言ってリグロルはお茶を淹れ始めた。

 え?これが魔法?

 そう思ったが、とりあえずおとなしくリグロルのやることを見てみた。

 特別に変わったことをしているようには見えない。

 そしてお茶が文月の前に置かれた。


「お待たせいたしました。ちょっとだけお口をつけていただけますか?」


 クエスチョンマークを盛大に浮かべながら文月は目の前のお茶で唇を湿らす。

 おいしい、が温度も香りも見た目も重さも文月の常識からはみ出すものは一切ない。

 さらにクエスチョンマークを増やしカップを置いた。


「では」


 その一言の後、リグロルは不思議な韻律を唱えた。


「もう一度、お口をつけてみてください」


 言われたとおりに文月はカップを持ちお茶を唇につけた。

 思わずカップごと放り投げそうになった。

 ビクッと震えた自分の身体を何とかギリギリで押さえ込む。


「つめ、たい……」


 一瞬でお茶が冷えていた。まるで冷蔵庫に何時間も入れられた様な良く冷えた温度だった。

 再びリグロルが先ほどとは違う韻律を口にする。

 見れば分かった。お茶から再び湯気が立ち上ったのだ。

 恐る恐る口をつければそれは予想通り温かい。


「これは苦手な系統ではあるのですが」


 リグロルは三度目の不思議な韻律を口にする。

 するとカップのお茶が盛り上がり、そのてっぺんがぷるんとちぎれビー玉くらいの大きさで空中に浮いた。

 文月が驚いて目を丸くしているとお茶の玉はゆっくりとカップに戻り小さな波紋を作った。


「いかがでしょうか?」


 リグロルがにこやかにたずねる。

 もはやお茶を飲む気は全く無くなったが、色々なものを無理やり飲み込んだような気がする。

 元の世界がとてつもなく遥か彼方へ急速に遠ざかっていく映像が文月の頭に浮かぶ。

 そういえば言葉が分かるようになったり女に変身させられてるんだから魔法はもう体験済みだったなぁとぼんやり思った。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 お食事はどうなさいますか、というリグロルの問いに文月はやっぱり横になりますと答え再びベットにもぐりこんだ。

 正確にはもぐりこむのを手伝ってもらった。

 元の世界の思い出が走馬灯のように次から次へと思い浮かぶ。

 目を閉じ暗闇に逃げれば、それはいっそう鮮やかに目の前に現れる。

 かといって目を開ければ否が応でも現状を目の当たりにすることになる。

 結局文月は盛大なため息を時折つきながらベットの中でごろごろと転がった。


 寝心地の良いベットの上で肌触りの良いシーツにくるまれてごろごろしたら知らないうちに睡眠欲が刺激されたらしい。

 いつの間にか文月は眠っていた。

 ふと目が覚める。

 目に入ってきたのは眠る前まで見ていた室内だ。

 あー、夢じゃなかったぁ……。

 見えるもの全てにがっかりしながら文月はため息をついた。

 窓から入ってくる光の具合はあまり変わっていないから眠っていた時間はそんなに長くないだろう。

 だが眠っている間に、リグロルがいなくなっていた。

 室内に一人になった文月はゆっくりと上半身だけ起き上がり、身体に巻きついたシーツをはがした。

 足でえいえいとシーツを押しやりまたため息。

 すらりとした脚が綺麗に伸びている。

 つま先まで伸ばしてちょっと片足を上げてみた。脱力。

 ぱふ。ベットに脚が落ちる。

 反対の足を同じようにつま先まで伸ばしてちょっと浮かす。そして脱力。

 ぱふ。ベットは心地よく受け止める。

 バタ足をするように今度はパタパタと両足を動かしてみた。

 ネグリジェが腿の上までめくれあがった。

 綺麗な女性の生足。

 はわわわ。と慌ててネグリジェを戻す。

 そして自分の足だということに気がつきまたため息をついた。

 両手を前に伸ばしてみた。

 爪の形も指の長さも整っている。何よりバランスが綺麗だと思った。

 ぐっぱ、ぐっぱと手を握ったり開いたりしてみる。

 右手で左手をなでてみた。そのまま肘、肩までなでてみる。

 今度は左手で右手の指先から肩までなでてみた。

 両手で自分を抱きしめる。

 ふにゅん、と腕の中で胸が形を変えた。

 未体験の感触にうわっと腕を放す。

 確かに自分の身体の感覚なのに今まで経験したことのない刺激に心拍数が上がった。

 おそるおそる自分のふくらみに両手をかぶせてみる。

 や、やわらかい。

 ちょっとつぶしてみる。ふにゅん。

 ちょっと持ち上げてみる。ぷるん。

 ちょっと寄せてみる。むにゅん。

 ネグリジェの胸元をそっとひっぱって覗いてみた。

 そんなに大きいとは思わない、けど明らかに女性の胸のふくらみがあった。先端は薄いピンク。

 ひゃー!見ちゃった!見えちゃった!

 頭から湯気を出しながら慌ててネグリジェの胸元を押さえる。

 自分の身体を見て照れるのもどうかと思うが、ぶっちゃけ免疫ゼロなのでしょうがない。

 ぱたぱたと手で自分の顔を扇ぐ。はふー。

 女の子だ。女の子のおっぱいだ。は、初めて生で、至近距離で見た!柔らかかった!

 もう一度、ゆっくり触ってみた。そして触っている感覚に興奮しそうになり、触られている感覚も自分のものだと気が付いて急に萎えた。

 僕のじゃん。

 ちょっと落ち着くと思考は次に移った。

 下はドウなってるんダロウ。

 ネグリジェの裾をつまんでゆっくりと引き上げる。

 一度も転んだことのなさそうな膝があらわれた。

 さらに引き上げる。

 艶やかな腿。産毛すら生えていないのではなかろうかと思われるほどの滑らかさだ。

 そして下着が現れた。

 なんの装飾もないただの白だった。

 小さなリボンもレースも何もなし。

 トイレでリグロルに拭かれたときには余裕なんて全く無く、どんなものを身につけているかなんて全然気が回らなかった。

 とりあえず今は白い布よりもその中身だ。

 いきなり脱いでしまうのは流石に抵抗がある。

 なのでちょっと指を引っ掛けて恐る恐る横にずらしてみた。

 薄いが黒い茂みが少しはみ出した。

 意外と良く見えないので片膝を上げて覗き込もうと前かがみになった。

 心拍数最大。頬を染め上げ呼吸も大きく早くなる。

 コンコン。


「失礼します」


 リグロルが部屋に入ってきた。

 ノックの音がした時点で文月は下着から指を離し、ネグリジェを伸ばし、足元のシーツを手繰り寄せ、身体に巻きつけ横になろうとした。

 慣れない体で一度にそんな多くの動作が瞬時にできるわけも無く、リグロルが部屋に一歩踏み入れたと同時に文月はベットから転がり落ちた。

 幸い絨毯が柔らかかったので痛みは大したことが無かった。

 だがリグロルの反応は過敏だった。

 息をのみながらも文月に向かって猛ダッシュ。絨毯に落ちた直後には既に文月を軽々と抱え上げていた。


「お怪我は?!」


 にこやかな雰囲気を纏っていたリグロルとは思えないほどの真剣さで文月の目を覗いてくる。


「大丈夫です大丈夫です!平気平気です!」

「横になられてください」


 笑顔を消し有無を言わさぬ口調でリグロルが丁寧に文月をベットに横たえた。


「お体を拝見させていただきます」


 そう言ってリグロルは手を文月の頭、顔、頬、耳、あご、首、肩、というように上から順番にあてていった。

 左肘に触れたときリグロルはたずねた。


「ここが少し痛みませんか?」

「痛みは少しありますけど、とくに怪我というほどのものでは……」


 運動部所属の人間としたらこの程度の痛みは怪我の内には入らない。

 しかしリグロルはそう考えなかったようだ。

 不思議な韻律を口にしながら文月の左肘に手をあてた。

 温かいような冷たいような不思議な感覚が左肘にしみこんできた。

 そしてしみこんで来たものは痛みを溶かし消え去った。


「うわぁ……」


 文月が左肘をあげて曲げ伸ばししてみる。

 全く痛みがなくなっていた。動かすのに全然問題ない。

 文月が感動している間にもリグロルは身体に手をあててゆく。

 腰周りに手をあてていたリグロルの動きが一瞬止まった。

 止まりはしたがそれは一瞬でその後は変わらず手をあててゆく。

 腿の付け根辺りに手をあてていたリグロルはネグリジェを整え、ずれていた下着を直す。少しはみ出していた毛もきちんと仕舞われた。

 文月の顔がボォンと真っ赤になった。

 リグロルは何も言わず腿から膝へと手をあててゆく。

 むきゅぅー!むきゅぅー!

 気づかれたぁ!勘違いされたかもぉ!そんなことしてないのにぃ!そんな事ってどんな事ぉ!!

 言い訳をしようかしまいか盛大に迷う。しかしどう切り出そうとも羞恥の極みである。

 結局文月が恥ずかしがっている間にリグロルは足のつま先まで手をあて終わっていた。


「一応痛みのあるところは無いとは思いますが、フミツキ様ご自身の感覚はどうですか?」

「モンダイアリマセン」


 ぷしゅー……

 頭から湯気を出しながら文月はぎこちなく答えた。

 穴があったら飛び込みたい。


「フミツキ様……」

「はい……」


 初めてリグロルが言いよどんだが、それも一瞬。


「お食事をご用意いたしました」


 明らかに違うことを言おうとしたと文月は感じるがここは何も言わないリグロルの優しさに甘えさせてもらおう。


「いただきます……」


 文月の返事をリグロルは嬉しそうに聞き、まずは開いたままの扉の外に置いてあったカートを室内に押してきた。

 テーブルの上に食器を並べ始めるリグロル。

 文月はとりあえずベットのふちに腰掛けた。

 準備中のリグロルを眺め、いつまでも手を煩わすのは悪いなと思い自分で立ち上がろうとした。

 文月のやろうとしていることに気が付いたリグロルは途端に準備をやめ慌てて駆け寄ろうとして、止まった。

 文月が自分で立とうとしているのだ、リグロルの意義はあくまで文月のサポート。過保護では文月のためにならないと判断したのだ。

 ただし転びそうになったら瞬時に動けるように足は前後に開き膝を軽く曲げておき、両手は身体の横に置く。

 メイドの待機姿とは程遠い、ある種の構えの様である。

 文月はリグロルが準備をやめたのには気が付いていたが支えに来てくれないことはありがたく思った。

 自分で歩く。

 そんな文月の決心を瞬時に理解してくれたリグロルに感謝する。

 ゆっくり立ち上がりリグロルの方を見てみた。

 文月の体がふわりと傾くたびにリグロルの両手が握られたり開かれたりする。

 見ようによってはリグロルが文月に襲い掛かろうとしてるかのようだが、リグロルの保護心が手に表れるのだ。多分リグロルは自分の手の動きに気が付いてない。

 そんなリグロルを見て文月はリグロルまで歩こうと思った。

 きっと受け止めてくれるはず。

 自分に向かって一直線に歩き出そうとした文月を見てリグロルは思わず駆け出しそうになる。

 鋼の意思で自分の行動を自制した。

 転ばないようにとか、自分のところまでたどり着けるようにとか、上手に歩けますようにとか、私を目指してくれて凄く嬉しいとか、様々な思いがリグロルの心に入道雲のごとく湧き上がる。

 どうか、どうか!

 心中で絶叫にも近い思いで何かに何かを祈る。

 その想いは表情に出さず、文月の一挙一動に集中する。

 歩き始めて丁度中間くらいで文月はふらふらとしながら立ち止まった。

 もう我慢できずリグロルは駆け出そうとした。


「あと半分」


 文月がにっこりとリグロルに笑いかけた。

 その愛くるしい笑顔に心を打たれ、次に意味を理解しリグロルは飛び出しかけた身体をガクンと揺らしその場にとどまった。

 そう、あと半分である。文月の歩いた距離は半分、あと歩かなければいけない距離も半分である。

 それは文月の決心の距離だ。リグロルが塗りつぶすわけにはいかない。

 リグロルは文月を信じ、頑として動かない覚悟を決めた。

 この方はたとえ転んでもご自分で起き上がり必ず私のところにいらっしゃる。

 文月はよろよろと一歩を踏み出した。

 リグロルは両の拳を硬く握りこみ今度はそのまま開かない。

 文月はふらふらとしながらもリグロル目指してゆっくりとだが一歩一歩近づく。

 リグロルの拳がさらに握りこまれる。

 あと三歩……二歩……。

 最後の一歩を文月はリグロルに向かって飛び込んだ。

 リグロルは歓喜におされて文月を抱きとめた。

 ぎゅっと抱きしめて


「ご立派でした」


 文月にささやいた。


「えへへ、できました」


 はにかみながら文月は答えた。

 受け止めたにしては少しばかり長い時間、リグロルは文月を抱きしめていた。


「さあ、お食事にしましょう」


 嬉しそうに笑いリグロルは文月をようやく開放する。

 今度こそリグロルは文月の手を握り椅子まで誘導した。

 文月もおとなしくリグロルに支えられた。

 文月を椅子に座らせるとリグロルは鼻歌でも歌いそうな様子でお皿を並べ始める。

 少し深めの皿を文月の前に置き、小さな鍋からスープを注いだ。


「まずはスープです。お口に合うといいのですが」


 穀物をすりつぶしたスープなのだろう。黄色というよりも少し茶色のスープに小さく刻まれた野菜類が見える。

 リグロルはエプロンのポケットから白いリボンを取り出し文月の髪を後ろでまとめ軽く縛る。

 文月はじっとリグロルが髪をまとめるのを待った。リグロルの手が離れる。


「いただきます」


 文月は両手を合わせて少し頭を下げた。


「お美しい所作ですね」


 初めて合掌を見たリグロルはそう感想を漏らす。そしてリグロルも真似をして胸の前で合掌し、少し目を伏せる。

 メイド服ではあったが、リグロルの持つ雰囲気と合わさってその立ち姿は菩薩を連想させた。


「リグロルさん綺麗……」


 ぽーっとした文月がつい正直な感想を口にした。

 その言葉がお世辞ではない言葉通りのものだと分かりリグロルはにっこりする。


「ありがとうございます。フミツキ様からお褒めの言葉を頂戴できるとは感激です」

「あ……本当に綺麗だったから」

「うふふ。冷めないうちにどうぞ」

「はい」


 文月はスプーンを取りゆっくりと口に運ぶ。

 こくん、と飲み込むと温かい温度が喉を通りお腹に到達し広がった。

 こちらの世界に呼び出されてから碌なものを入れられなかった胃が思い出したように抗議の声を上げた。

 ぐぅ。

 なんで食べてから鳴るの?!き、聞こえちゃった?

 トイレでも思い知らされたが自分の生理現象を他人に見聞きされるのはかなり恥ずかしい。

 男だったら、腹へったぁ!わはは!で済まされるのに。

 もぅ、もう、もおっ!

 照れをごまかそうと文月はスープをぱくぱくと口に運ぶ。

 そんな文月の様子をリグロルは楽しそうに見ていた。


 男だった頃の感覚ではこれくらいは普通に食べられる量だと思っていたのだがどうやら胃も縮んだらしい。

 3品目で満腹になり4品目を頑張って食べた。お代わりはどうですか?というリグロルの問いに文月は「けぷっ」というげっぷの後に頬を染めながらギブアップ宣言をした。

 ご馳走様でしたと文月が手を合わせるとリグロルが食後のお茶を入れてくれた。文月の前に湯気が揺らめくカップが置いてある。


「フミツキ様、私からひとつお願いがございます」


 お茶を前にして動けなくなっている文月にリグロルが声をかけた。


「はい?なんでしょう?はふぅ……」

「私の事はどうぞリグロルとお呼び下さい」

「ん?呼んでますよ?」

「敬称をどうぞ省かれてください」

「え?けど、年上の方を呼び捨てにはし辛いですよ。あぷっ」

「年齢よりも御身分をお気になさって下さい。私ごときをご丁寧に扱ってくださる心遣いは大変嬉しいのですが、私はあくまでフミツキ様の従者です」

「従者……ですか」

「はい」

「いや、その、僕は従者……さん、なんてつけてもらったことが無いからどうしていいやら……」

「フミツキ様のお気の向くままに振舞ってください。私はフミツキ様に付き従います」


 はっきり言ってリグロルの忠義心は文月には重く感じられる。当たり前だがお姫様扱いされた経験などないし、経験するなんて夢にも思わなかった。だがリグロルが文月に対して示してくれた言動に嘘は無いと思う。リグロルの気持ちはありがたいし嬉しいが手放しでは喜べない。


「えーっと、リグロル……さん?」


 にっこりとリグロルが微笑む。


「うにゅ……リグ、ロル……」

「はい」


 にこやかなリグロルの圧力に降参した。ぱぁっとリグロルの笑顔が華やぐ。

 自分の恥ずかしい姿をまともに見られたリグロルにはなんとなく逆らうのは難しい気がした。何よりお姉さん気質とでもいうのだろうか。年下の文月の扱いに元々慣れている感もある。


「それと」

「あ、はい」

「今まではフミツキ様はまだご自身でお歩きになることができない、という事を愚考いたしましてお返事を待たずに入室しておりましたが、これからはフミツキ様のご許可が無ければお部屋の扉は開けません」

「はい、分かりました」

「なのでご安心してお励みになってください」

「はい?え……?」


 リグロルが何を言わんとしてるのか理解するのを頭が回避する。

 が、3秒後に


「励みませんっ!」


 そりゃ興味があったのは認めるけど励むって……。

 再び下着をずらした事の言い訳をしようかどうか悩む文月であったが結局赤い顔のまま小さくなった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 リグロルは食器を下げるために退室した。

 室内は再び薪が時折はぜる音だけが小さく響く静かな時間が過ぎる。

 文月は部屋に一人。何もすることが無く手持ち無沙汰。意味無く、あー、と声を出してみるが2秒で飽きる。

 あーあーあー。

 やっぱり飽きる。

 ふとそのまま歌ってみた。文月が歌詞をちゃんと覚えている歌なんて童謡くらいである。それでもゆっくりと歌詞と旋律を思い出しながら歌を紡いでみた。『ふるさと』や『さくら』などを口ずさんでみる。女になったからか高い音が楽々と出せる。それがちょっと楽しくて『赤とんぼ』を歌ってみたが三番の途中で歌詞が分からなくなり止めた。

 えーっとどういう歌詞だったかな、と思いながら歌っては止め、歌っては止める。そして結局やめた。

 タイミングよく扉がノックされた。


「フミツキ様、ニムテク様がお見えです」


 扉の外からリグロルが呼びかける。はてな?なんでニムテクさんが?と思いながらも文月はどうぞと返事をした。

 リグロルが扉を開けるとニムテクが杖を突きながら少し早足にテーブルに近づきそのまま文月の対面に座った。

 表情がちょっと硬い。


「あんた今何をしたんだい?」

「……?え?何もしてませんけど?」

「かなりの魔力がこの部屋から、いや、あんたから放出されたんだ。いったい何をしたんだい?」

「いえ、することがなくて退屈だったから、ちょっと歌いましたけど、何もしてませんよ」

「ちょっと歌った……?ちょいとフミツキ。今の魔力は方向性が無かったからよかったものの定まった意思が乗っていたらこの城が半壊してもおかしくなかったよ」

「え?歌を歌っただけですよ?半壊って、そんな……」

「フミツキ、いいかい。今の歌をあんたが誰かに対して歌ったとする。その時あんたが殺したいという意思を乗せて歌ったとしたら聞いた人間は確実に死ぬよ。人間だけじゃない、あれだけの魔力なら耳の無い植物ですら塵になるだろうよ」

「いや僕は魔力なんて……」

「自覚無しかい」


 ニムテクのきつい口調が文月の返事に被る。


「この花」


 そう言ってニムテクはテーブルの中央、花瓶にささった白いゆりのような花を指した。

 文月が眠っている間にリグロルがさした花である。


「これに対して何か意図を持って歌ってみな」

「意図ですか……」


 意図を持って歌ったことなんてないから難しいな、と思った文月はとりあえず『花が枯れる』というイメージで小声を出してみる。


「……ぁー」


 花がゆらりと揺れると見る見るうちに萎れていった。花は萎れただけでは終わらず砂になり、テーブルの上に散らばる。

 その花を追いかけるように花瓶も砂になりさらに砂が増えた。

 終わったと思ったらテーブルも中心から砂になり支えを失い床に砕け散る。

 文月は椅子に座ったまま顔面蒼白になり後ろに下がろうとするが、うまく立てず転げ落ちそうになった。

 すばやくリグロルが駆け寄り文月を支えて迅速にテーブルから離れさせる。

 テーブルはさらに砂化が進むに見えたがニムテクが杖を振り早口で呪文を唱えた。

 杖から淡い光がテーブルに向かって広がる。

 テーブルの砂化は進行速度が遅くなり、やがて止まった。

 絨毯の上にはかなりの砂とぼろぼろの木片が円形状に散らばっていた。

 静けさが戻った室内に暖炉の薪がパチンとなった。


「まだ歌うかい?」

「……!、あぅ……!う、ぅ歌いません!二度と歌いません!」

「ああ、ごめんよ、脅かしすぎたね」


 文月のあまりの狼狽振りにニムテクは魔法に関して否定的な感情をもたれては困ると思いフォローする。


「そうだねぇ、元気になれと病人の前で歌ったら全員踊りだすだろう。半分腐った死人すら墓から出てきてあんたに感謝するかもね」

「やっぱり歌いません!」

「まぁ、しばらくはそうがいいだろう」


 ニムテクは椅子の背もたれにぐったりと背中をあずけ文月を見る。

 明け透けなニムテクの視線に文月はもじっとする。


「ふむ……王族の花嫁修業は必要……その前に一般常識か……さて」


 なにやら不穏な言葉が聞こえた気がしたが、気がしただけと文月はあさってを向く。

 しばらく文月を見てうなっていたニムテクだが、まいいか、とつぶやいた。

 リグロルが文月をゆっくりと椅子に座らせる。


「歩けるようにはなったかい?」

「えっと、まだちょっと難しいです……すみません」

「あぁ気にしなさんな。責めているわけじゃないんだ。とりあえずは一人で歩けるようになるのが当面の目標だね」

「……はい」


 とは言ったもののその次の目標に何を設定されるか考えるとあまりはいはいと返事をするのもためらわれる。しかし一人で歩けるようになるという目標は言われるまでも無く文月自身も考えていた目標なので今のところ否はない。

 とりあえずよろしく頼んだよとリグロルに一声かけてニムテクは退室した。

 リグロルは散らばった砂と元テーブルだったものを片付け始めた。

 箒とちりとりと思われるもので木片を集めるのは文月の常識の範疇内だ。だが、ハタキのようなものでパタパタと絨毯を叩くと砂が集まるのはどういうことだ。見る見るうちに砂が集められて一粒残さず袋に入れられた。綺麗さっぱりである。

 リグロルは集めた砂と木片を入れた袋を室外に持ち出して戻ってきた。

 文月を見るとしゅんとしている。


「あの、ごめんなさい……テーブル壊しちゃって……」


 文月はリグロルに謝った。


「お気になさらないでください。何せ初めてのことですもの。驚きになられたでしょう」


 文月が上目遣いにこっくりと頷く。


「びっくりしました」


 リグロルの胸中のどこかを何かが打ち抜いた。はきゅ~ん。

 内心の動揺を頬を少し染めただけで見事に隠したリグロルである。


「私も驚きました。初めてであそこまで魔力を顕在化できる方がおられるなんて、流石はフミツキ様ですね」


 リグロルは少し高潮した頬で誇らしげに笑うが文月の頬は少し引きつっただけだった。


「リグロルさ……リグロル、は、初めて魔法を使ったときはどうだった?」

「そうですね、私はニムテク様が使われているのを何度もおそばで拝見していていつの間にか使えるようになっていました。初めて使った魔法は治癒で、同僚が指先を切ったときに試しに使ってみたら成功したのが初めてです」

「最初が治癒ってなんだか、いいですね。人のためになるって言うか、健全で」

「……そう、ですね」


 リグロルが少しだけ、本当に少しだけ寂しげな表情をみせた。その表情は一瞬で消え去ったが文月はしっかりと見てしまった。

 (聞いちゃいけなかったのかな?)

 文月はリグロルを傷つけたかもしれないと心配になるが根掘り葉掘り聞き出すのも躊躇われる。

 そしてリグロルは既に何事も無かったかのような態度に戻っていた。

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