第47話 エリュシクトーンの飢餓とムネストラの孝行

 オリュンポスの初まりの六神の一柱、デメテルの聖森の侵犯への罰として、テッサリアの代官・エリュシクトーンは、<飢餓>という罰を与えられた。

 その<飢餓>のせいで、エリュシクトーンは、激しい飢えに苛まれた。やがて、その飢餓感に耐え切れなくなったエリュシクトーンは、屋敷に蓄えていた食料を全て、独りで食べ尽くしてしまった。

 空っぽになった食物庫を前に、エリュシクトーンは、地面でのたうち回りながら、土を無造作に握り取ると、それを口の中に放り込んで、飲み下し、なんとか、飢餓感の埋め合わせをしようとした。それでも、耐えられなくなったエリュシクトーンは、館の柱を齧り出していた。

 そんな父の様子を見かねた、エリュシクトーンの娘のムネストラは、解決策の神託を受けるべく、テッサリアの神殿に赴いた。そこで跪いて、両手を組み合わせて祈りを捧げていたムネストラの脳に、直接語り掛けてくる神の声があった。

「やがて、そなたを求める者が現れよう。その者に、汝の身を捧げよ」

 数日後――

 かの神託通りに、テッサリアのエリュシクトーンの屋敷を、とある神の使者が来訪した。

 それは、ポセイドンの臣下の者であった。

 ポセイドンは、ムネストラを、彼の側室として求めている、とのことであった。

 実は、ポセイドンは、エリュシクトーンに対して激しい恨みを抱いていた。というのも、ポセイドンとアテナが、アッティカ地方の領有を巡って争った<オリュンポスの審判>の折に、エリュシクトーンが、ポセイドンに票を置かなかったからだ。そして、このエリュシクトーンの一票が、ポセイドンの負けを決定付けたのだった。だから、ポセイドンは、いつの日か、エリュシクトーンに復讐しよう、と考えていたのだ(第二部第四十話)。

 そして、ついに復讐の機会が巡ってきた。

 まず、ポセイドンのエリュシクトーンへの怨恨は、エリュシクトーンの愛娘であるムネストラを、彼から奪う事として実現した。

 そして、自分の後宮に入ったらムネストラを凌辱することにして、昔年の恨みを晴らそうとしたのだ。

 だが、ひとたび、ムネストラと対面し、彼女と床を一緒にするや、海神ポセイドンは、ムネストラに耽溺してしまった。

 以降、ポセイドンは、毎夜、ムネストラの肉体を求め続けた。そして、ポセイドンは、自分の側室となった証として、ムネストラに一つの<能力>を授けた。それから、ムネストラの閨房を訪れる度に、山のような贈り物を持参してきたのだ。

 ムネストラは、ポセイドンからの贈り物全てを、エリュシクトーンが住むテッサリアに送った。エリュシクトーンは、それで、食料を贖った。エリュシクトーンは、血の涙を流しながら、娘の犠牲を代償に、飢えを凌ぐ日々を送っていた。

 だが、ある晩――

 男女の行為の後、ポセイドンは、頭を掻きながら、首を左右に何度も振ると、その肩にしなだれかかっていたムネストラを、いきなり突き飛ばしたのだ。

「なんか、もう飽きたわ」

 以後、ポセイドンはムネストラの部屋に通うことはなくなった。当然、ムネストラはエリュシクトーンに仕送りできなくなり、再び、エリュシクトーンは<飢餓>で苦しむことになってしまった。

「このままでは、お父さまのお役には全くたてない」

 ムネストラは、ポセイドンの許に嫁いだ際に、海神から異能力を付与されていた。ムネストラに現れた異能は<変身能力>であった。ムネストラは、その異能を使って、本来の姿から別の者に姿を変えると、ムネストラとしては、ポセイドンの後宮から姿を消し去ったのだった。


 ちょうど、ムネストラがポセイドンの後宮から姿を消した頃、ポセイドンがエリュシクトーンの許に忍び込ませていた間諜から一つの報告が入った。

 ムネストラからの仕送りが滞って、<飢餓>に苦しむエリュシクトーンは、ついに耐え切れなくなって、領地・テッサリアの食料を全て食べ尽くしてしまったのだ。エリュシクトーンは、「許せ、民よ、許せ、民よ」と繰り返しながら、誰にも行き先を告げることなく、テッサリアから、独り姿を消した、とのことであった。 


 ポセイドンは、配下の間諜に、エリュシクトーンを追跡させた。その一方で、抱き飽きてしまった側室ムネストラの消息に関しては、まったく興味を示さず、その行方を捜索させようとさえしなかった。それより何より、偶々、後宮で見掛けた側女に完全に興味・関心が移ってしまったのだ。

 そして、目に留まったその日のうちに、側女を自室に引き込むと、彼女の肉体を存分に味わい尽くした。だがしかし、ポセイドンは、性に強欲な神ではあっても、吝嗇な神ではない。ポセイドンは、その側女に、自分と寝た見返りとして、夥しき量の金品を贈ったのだった。

 肉体の相性が抜群で、ポセイドンは、毎夜のように、その側女を自分の部屋に呼んだのだが、やがて、彼女にも飽きてしまった。ポセイドンがその側女を捨てると、彼女の姿もまた、ポセイドンの後宮から消えた。

 しばらくすると、ポセイドンは、再び自分の女性の好み、ど真ん中の側女を目撃した。ムネストラや、件の側女の時と同じように、彼女に耽溺し、毎夜のようにその女の肉体を貪り、その代価として金品を贈り続けていたのだが、ポセイドンは、その側女にも飽きてしまった。その彼女も、直後にポセイドンの後宮から姿を消した。

 それから、ポセイドンは、好みの側女を見つけては、その女性と深い関係になって、彼女に贈り物をするが、飽きると、一方的に捨て、その直後にポセイドンの元・妾が後宮から姿を消す、という循環が続いていた。


 そんな、ある日のことであった。

 テッサリアに忍び込ませていた間諜と、エリュシクトーンを追跡させていた間諜から、ポセイドンの許に報告が入った。

 まず、テッサリアの忍びからの報告は、ポセイドンの後宮から姿を消し、行方知れずであるはずの娘のムネストラからの仕送りが、今なお続いており、エリュシクトーンの暴食によって失われたテッサリアの食料事情は改善に向かっている、という話であった。

 そして、エリュシクトーンは、テッサリアから流れ流れて、最終的に空に漂う浮島である<デロス島>に身を落ち着け、そして、エリュシクトーンは、その空島デロス島から地上への移動手段を自ら破壊した事を、エリュシクトーンの追跡者は<遠見>の能力で確認し、ポセイドンに報告を入れたのであった。

 その時点のポセイドンの愛妾は、寝物語で、ポセイドンから、エリュシクトーンの話を聞いた。そしてその翌日、その女は、ポセイドンの後宮から姿を消した。


 ポセイドンの愛妾は、魚の姿に<変身>すると、ポセイドンの海底宮殿から抜け出し、空島であるデロス島の真下にまで移動すると、今度は鳥に<変化>し、空島にまで飛んで行った。そして島に至るや、鳥への<変態>を解除し、本来のムネストラの姿に戻ると、島の大地に足を降ろした。

 ムネストラが周囲を見回すと、島には人、そして動物も一匹すらおらず、草木は一本さえ生えていなかった。

 だが、ムネストラは、その視線の先に、地面の上で蠢く何かを認めたのだ。

 瞬時にして、ムネストラは馬に変化し、その何かの所まで疾駆した。

 そこにあったのは、もだえ苦しみながら、地面の上を転がり回っているエリュシクトーンの一部であった。

 エリュシクトーンは、デロス島の動植物を食べ尽くしてしまうと、次は、自らの手の指、手、腕を食べ、それから、足の指、足、脚を食べ、さらに胴体も食べてしまい、結果、エリュシクトーンは、首から下の骨と皮、そして頭だけの存在になっていたのだ。

「お、お父さま……」

 涙を流しながら、両手を口元に当て、立ち尽くすムネストラの姿を視界に入れるや、骨と皮と頭だけのエリュシクトーンは、その骨と皮を引き摺らせながら、ムネストラの足元にまで、蛇のように地面を這って近寄ってきた。そして、エリュシクトーンは顔を上げた。

「く、喰わせろおおおぉぉぉ~~~」

 理性を完全に失ったエリュシクトーンの頭が、咆哮を上げながら、ムネストラの頭目掛けて襲い掛かってきたのだ。

 ムネストラは、<箱>から食料を取り出すと、跳び掛かってきた父の口に食べ物を押し込み、父の頭をその胸で抱き包んだ。

「ム、ムネストラ……」

 飢餓を一時的に満たしたエリュシクトーンは、理性を取り戻したようだった。 

  

 頭部以外の肉体を失っているエリュシクトーンは、自らの死期を悟っていた。そのため、実母アテナと養父ケクロプスがいる故郷・アテナイに戻ることを望んだ。

 ムネストラは、鳥の半獣神の姿に変化すると、<箱>から取り出した、長飴のような棒状の食べ物を父の口に入れ、海上にまで移動し、そこから、海路、船でアッティカ地方に向かうことにした。

 その航海の途上、ムネストラは、父の頭の傍に、当面、必要となるであろう食料を置いて、一時、甲板に出た。

 しかし、ムネストラが父の頭部がある船室に戻ってみると、食料は全て消えており、部屋の真ん中にあったエリュシクトーンの頭は、自らの髪、目、耳、頬、鼻を、その口で吸い込んでいたのだ。そして、入口で立ち尽くすムネストラの耳には、自らの頭部各所の肉を、唇と歯だけとなった父の口が咀嚼している音が届いてきた。

 そして――

 そのエリュシクトーンの口は、その唇までも口内に取り込み、何かを飲み込むような激しく大きい嚥下音が立ったその直後に、エリュシクトーンの頭は空間から完全に消失し、その場に残されているのは、エリュシクトーンの残骸のみとなっていた。


 アッティカ半島東岸のプラシアイに、ムネストラは、骨と皮だけとなった父を埋葬し、そこに墓を築いた。

 それから、ムネストラは、独り、陸路でアテナイに向かった。

 ムネストラは、アテナイの神殿に、樫の木材で彫られた女神アテナの神像を奉納した。

 それは、デロス島からアテナイへの途上で、頭部だけになったエリュシクトーンが、その歯で彫ったと思しき木像で、自らの肉体さえも、全てを食い尽くした暴食のエリュシクトーンの残骸のすぐ傍に落ちていた。

 ムネストラには、そのアテナの神像が、父エリュシクトーンが残した唯一つの形見のように思えるのであった。

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