第46話 エリュシクトーンの罪とデメテルの罰

 娘コレーの誘拐の報を聞くや否や、デ・メーテルは、テッサリアで執り行っていた豊穣の儀を途中で放り出すと、牝馬に変化し、駆け出して行ってしまった。

 大地母神としての責務を投げ出した<デ・メーテル>は、もはや、大地母神ではなく、ただの母親、<メーテル>以外の何者でもなかった。

 そうして、メーテルが娘捜索の旅を始めてから数年の月日が流れ去った。

 大地母神が豊穣の儀式を行わなくなってしまったため、世界中の大地からは、その恵みの力が徐々に失われていった。それがいち早く、顕著にあらわれ始めたのは、デ・メーテルが、豊穣の儀を中途にしてしまった<テッサリア>であった。

 備蓄をほとんど食べ尽くしてしまったテッサリアでは、住民を満たすに足るだけの食糧が不足し、その領民が飢え苦しむことになるのは、もはや時間の問題となっていた。


 テッサリアは、オリュンポス山の、まさにお膝元の地である。そして、主神ゼウスから、この地の代官として、テッサリアの統治を委ねられていたのが、<エリュシクトーン>であった。

 エリュシクトーンは、アテナイの初代王ケクロプスの息子である。

 実は、このエリュシクトーンは、海神ポセイドンが、ゼウスの娘アテナを襲って、その結果、アテナが密かに身籠った子、<エリクトニオス>に他ならなかった。アテナの後見であるヘパイストスは、エリクトニオスを自分の子とし、そのエリクトニオスの乳母として創造したアグラウロスに、エリクトニオスを預けた。そして後に、そのアグラウロスを妻にしたのが、蛇と人との半獣神ケクロプスなのである。ケクロプスは、アグラウロスと結婚した際に、アテナの実子であるエリクトニオスを、自分たち夫婦の養子とし、<エリュシクトーン>という名を与えたのだった。そして、ポセイドンとアテナのいずれかが、アッティカを領有するのかを争った<アテナイ・マキア>の折、その判定が、オリュンポス神族による決選投票である<オリュンポスの審判>に委ねられた際に、この天秤に、最終的にアテナの勝利を決定付けた一票を置いたのが、他ならぬエリュシクトーンだったのだ(第二部第三十五話;第三十八~四十話)。

 その後、ゼウスに気に入られたエリュシクトーンは、主神によって、テッサリアの代理統治を委ねられたのである。


 そのテッサリア地方には、デメテルが所有する聖なる森が存在していた。そして、デメテルは、娘コレーが誕生した際に、その記念樹として樫の木を森の中心に植えた。大地の恵みの力を受けた樫の木は、瞬く間に育ち、デメテルは、その巨木を、娘の如く大切にしていた。新たに大地母神の任に就き、テッサリアに長くいることができない<デ・メーテル>は、この聖なる森の守りを、森のニュムパイ(単数形ニュムペー)に委ね、森の中央に聳え立つ樫の木を森の神木とした。そうして、樫の巨木の根元で、ニュムパイは舞い踊りながら、この樫の神木を守り続けていたのだった。

 そういった次第で、大地母神の不在によってテッサリアの大地の大部分は枯渇していたのだが、このデメテルの聖なる森だけは、デメテルの直轄地として、肥沃さを保ち続けているテッサリア唯一の地だったのだ。

 このデメテルの森は、テッサリアの代官であるエリュシクトーンでさえ不可侵の聖地だったのだが、ある日、エリュシクトーンは、供も連れずに唯独りで、禁忌を破って森に侵入した。そして森の中央まで赴くと、森の守り人である精霊の制止を振り切って、デメテルの樫の巨木を切り倒してしまったのだ。

「やはり、ここが最も大地の恵みの力が強いな」

 エリュシクトーンは、そう独り言ちると、穀物の種子を樫の巨木があった空き地に蒔いた。種は、デメテルの森の大地の力によって、瞬く間に育った。エリュシクトーンは、たわわに実った穀物を刈り取ると、それら全てを<箱>に入れ持ち帰り、飢えに苦しんでいたテッサリアの領民に分け与えたのだった。

 かくして、テッサリアの住民は、餓死を免れることができたのである。


 デメテルは、コレー捜索の旅の途中で、自らの聖森の異変を直感し、一時、テッサリアに舞い戻った。

 そこで、デメテルが目にしたのは、大切な樫の巨木が切り倒され、更地となった森の姿であった。

 呆然として立ち尽くす女神の前に、森の守り人であるニュムパイが姿を見せたものの、デメテルの前で跪いたまま震え続けており、言葉を発しても、その説明は全く要領を得なかった。

「埒が明きませんね。テッサリアの代官を、ここに呼んでください」

 テッサリアの代官、エリュシクトーンは、デメテルの前に姿を現すや、格上の女神からの発言の許しを待たずに、いきなり口を開いた。

「デメテルさま、御願いしたき儀がございます。このテッサリアから豊穣の力が失われて久しく、土地はやせ細り、民は飢えで苦しんでおります。どうか、どうか、この地の恵みの力を回復させていただきたく存じます」

 デメテルは、デ・メーテルとして、大地母神の力を振るった。 

「安心なさい。エリュシクトーンよ。これで、テッサリアは再び活力を取り戻すことでしょう。ところで、わたくしの森のこの惨状、いったい、どういったことか御存知でして?」

 常に温厚なデメテルは、穏やかな口調で、テッサリアの代官に優し気に問いかけた。

「………………」

 エリュシクトーンは、しばし熟考した後、言葉を選びながら語った。

「女神よ、じ、自分が、樫の巨木を切り倒しました」

 上位の神の前では嘘は吐けない。だが、エリュシクトーンは、飢えた住民の食糧を確保するため、という理由までは語らなかった。テッサリアの民にまで責が及ぶことを避けんとしたのだ。

「な、何のために、わたくしの大切な樫の木をっ! 大方、屋敷の資材にでもしたのでしょう。この樫は、いわば、わたくしの娘コレーと同じ。ゆ、許しません、ゆ、許せないわっ!」

 デメテルの顔が、みるみる憤怒で真っ赤になった。これは、デメテルが初めて覚えた怒りの感情だった。 

 コレーが行方知れず、ということも相まって、己の聖森の樫の巨木を倒されたデメテルの感情の歯止めが、一気に崩壊してしまったのだ。

 だが、デメテルの顔から、すぐに怒りの感情は消え、顔の色は、赤から蒼白へと変じた。そしてデメテルは、口元に乾いた微笑を浮かべながら、ゆったりした歩調でエリュシクトーンに近づくと、左手をエリュシクトーンの肩に置き、右手の四本の指で、エリュシクトンの喉に軽く触れた。そして突然、指に力を籠めると、エリュシクトーンの喉を貫いたのだ。

 デメテルの四本指は、エリュシクトーンの首の後から突き出ており、彼は、声を出すことすらできなくなっていた。

 デメテルが、エリュシクトーンの喉から、ゆっくりと指を引き抜くと、首にも喉にも全く傷は残っておらず、さらに、普通に声も出せた。

「デメテルさま、いったい何を?」

 数瞬後、エリュシクトーンは、喉に焼けるような熱さを覚えた。彼は、苦しさのあまり立っていられなくなり、女神の前だと言うのに地面で転がり出してしまった。

「や、焼ける。か、渇く。う、飢える。の、飲みたい。た、食べたい。な、何か食べ物をおおおぉぉぉ~~~」

 デメテルは、己の足元で、苦し気に言葉を漏らしながら、転がり回り続けるエリュシクトーンを、冷ややかな表情で見下ろしていた。

「これが、わたくしの聖森を侵した、あなたへの罰です。どんなに食べても食べても、決して満たされることのない、永遠の<飢餓>を与えます」

 エリュシクトーンが土を手に掴んで口にいれると、一瞬だけ飢餓感が和らいだ。そして彼は、両肘を支えにして、顔を僅かに動かして、デメテルを睨め上げるのだった。

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