第43話 デ・メーテル、出産と大地母神の承継

 牡馬に変化したポセイドンに襲われた後、完全に混乱状態に陥ってしまったデメテルは、右だけが人の脚に戻った半獣の姿のまま、テッサリア平原から駆け出してしまった。遮二無二走り続けたデメテルが、アルカディア地方のピガリアに至った時に、突然、脚が重くなり、そのままパタっと倒れ、意識を失ってしまった。

 その時、デメテルの変化は中途半端に解けてしまっていた。身体部分と下半身は元の人型に戻ったのだが、頭だけが馬のままだったのだ。

 馬頭人身のデメテルが意識を取り戻した時、女神は、自分が、ある洞窟の中にいるのが分かった。

 デメテルのすぐ傍には、一人の男がいて、馬頭の姿のデメテルを看病していた。

 男の献身的な看護のおかげで、ほどなくしてデメテルは回復し、男は元気になったデメテルを洞窟から送り出した。

「それにしても、本当に美しかったな。あんな美しい生き物を見たのは生まれて初めてだ。この感動をなんとか形にしたい」

 そう独り言ちた男は、見送ったばかりの生物の石像を掘り始めた。

 数日後、男は、石像を彫り終えた。出来上がったのは、人の女の裸体に馬頭の半獣神の石像で、男は、この像に衣類を纏わせることにした。さまざまな色の布を試着させてみたのだが、最も合っているように思えたのが黒で、男は、石像に黒衣を身に着けさせると、それを手に取って、様々な角度から自分が作り上げた小像の出来栄えを、恍惚とした表情で眺めやるのであった。


 アルカディアを後にしたデメテルは、その足で、祖母ガイアと母のレイアが住むクレタ島に向かった。

 ガイアとレイアは、突然のデメテルの来島に、何事かが起こったことを察していたようなのだが、何も尋ねず、時が解決するのを待つことにしたようだ。ガイアは、デメテルに、クレタ島での住処として、アイガイオン山の中腹にあるディクテオン洞窟を与えた。その内部で、デメテルは、世話係として宛がわれた三柱のセイレーン以外とは、誰とも殆ど接触せずに、一日の大半を過ごすようになった。

 セイレーンとは、人と鳥の半獣神の三姉妹で、鳥の翼と美しい声を有し、その歌声でデメテルを慰めていた。

 そして、デメテルがクレタ島に来て四カ月が経過した頃には、デメテルの下腹部がふっくらとし始めていた。そして五カ月が経った頃には、腹部のふくらみはさらに増し、女神は、体内で何かが蠢くのを感じるようになっていた。初めての胎動を覚えた時、デメテルは、自分が「母親になる」ことを、改めて強く実感したのであった。

 そんなデメテルの外観の変化に気付いたセイレーンたちは、すぐにでも、ガイアとレイアに妊娠を打ち明けるべきだ、とデメテルに進言した。しかし、デメテルからきつく口止めされてしまっていた。

 そうこうしているうちに、十カ月が経過し、ある日、豊穣の女神デメテルは、突如、下腹部に激しい痛み覚えたのだ。

 デメテルの状態異常に気付いたセイレーンたちは、ディクテオン洞窟の奥深くにデメテルを連れて行った。その洞窟の奥には隠し扉があり、セイレーンたちはその扉を開けた。そこには、さらに隠し通路が続いていた。

 ディクテオン洞窟とは、デメテルの母レイアが、夫クロノスの目から逃れて、密かに末子のゼウスを産んだ洞窟であった。

 デメテルが、セイレーンたちに導かれ進んでいった隠し通路の先には、産所が設置されていた。そここそが、まさにレイアがゼウスを産んだ地であり、そこには、当時の名残として、大地母神レイアの神木である樫の樹で作られた円柱が備え付けられたままであった。

「お祖母さまは、もしかして、わたくしの妊娠に最初から気付いて、この洞窟をお貸しくださったのかしら?」

 そんなことを思い立ったデメテルは、セイレーンたちの手を借りながら円柱にしがみついた。

 こうして身構え終えたところで、突然、陣痛がおこって、股から脳天までを激痛が貫いていった。あまりの痛さのため、デメテルは、一瞬、気を失ってしまった。意識を取り戻したものの、痛みに耐えられなくなってきたデメテルは、持参した<箱>に己が神気を注入し、その蓋を開けた。

 <箱>の中には、デメテルを象徴する、彼女の守護植物の一つである<芥子(けし)>が入っていた。そこから、未成熟な果実を、セイレーンに取り出させ、それを口に運んでもらうと、歯で表面に傷をつけた。すると、そこから乳液が溢れ出てきた。デメテルは、その乳液を唾液と交え、芥子の状態を変化させると、ゆっくりと飲み込んだ。芥子の果実を材料に、デメテルが口内で精製した薬には、鎮痛効果があり、デメテルは、それで陣痛の激痛を鎮めたのであった。 

 痛みが和らいだデメテルは、ひ・ひ・ふうううぅぅぅ~~~、ひ・ひ・ふうううぅぅぅ~~~、ひ・ひ・ふうううぅぅぅ~~~、と<出産の呼吸>で精神を整え、下半身に力を入れると、樫の円柱を力いっぱい締め付けた。すると、デメテルの股から、一柱の赤子が生まれ落ちた。

 ゼウスを種とするデメテルの最初の子は女児であった。デメテルは、自分のようにはすまい、と強く念じ、娘を永遠の処女にしようと、この赤子を<乙女>を意味する<コレー>と名付けることにした。

 そして、デメテルが、セイレーンによってコレーを手渡されて、その産んだばかりの我が子を抱きしめようとしたまさにその時、女神の身体を、二度目の陣痛が襲ったのだ。今度の激痛は、芥子の鎮静が効かない程の猛痛であった。

 デメテルが宿していたのは、コレーだけではなかったのだ。

 そのデメテルの神体から飛び出てきたのは、人の右足であった。

 逆子だった。

 デメテルの出産を手伝っていたセイレーン三姉妹は、協力して、慎重に赤子の右足をデメテルの身体から引き摺りだした。

 その赤子の右足は人のそれだったのだが、残りの足と身体、そして頭部は――

 馬のものであった。

 デメテルが二番目に産み落としたのは、右足だけが人の馬の半獣神だったのだ。

 デメテルは察した。

 この子は、自分が牝馬に変化した時に身ごもった子だ。ということは、この子の種は、ゼウスではなく、ポセイドンの方なのだ。そしてデメテルは、この馬の半獣神の赤子を、<アリオン>と名付けた。

 どちらの、誰の子であろうとかまわない。この子たち、コレーとアリオンは、わたくしが生んだ愛しい子たち……。

 母の眼差しで、産み落としたばかりの子を、デメテルは、円柱に凭れ掛かりながら眺めやっていた。

 今後、自分は、コレーとアリオン、この二柱の子の母として生きよう。そうデメテルは誓い、その決意の表明として、名を<母>を意味する<メーテル>に改めようか、と考えながら、コレーとアリオンに母乳をあげている、まさに、その時のことであった。

 ディクテオン洞窟のデメテルの許に、祖母のガイアと母のレイアが連れ立ってやって来たのだ。

 ガイアとレイアは、自分の曾孫と孫を、しばらくの間、あやしていた。

「デメテル、あなたに、お話したいことがあります」

 唐突に、そう切り出したのは母のレイアの方であった。

「わたくしが、原初の大地母神、我が母ガイアから、このクレタ島で<大地母神>の地位を引き継いだのは、未だクロノスの御代、ティタノ・マキアが始まる前、あなたたちオリュンポス神族が、ティターン神族に宣戦布告をする前のことでした。それから、はや、幾星霜、ここ数年、そろそろ、<大地母神>の地位を我が子に譲りたい、と考えていたのです。だがしかし、わが娘たる長女のヘスティアは処女神として、オリュンポス山頂の神殿を守り、三女のヘラは未だに独り身です。この大地母神の地位を託すためには、その女神が母でなければならないのです。そして、デメテル、次女であるあなたは、ついに、この子たち、コレーとアリオンの母となりました。わたくしは、今、母となったあなたにこそ、<ゲー>の地位と力を譲りたい、と考えているのです」

 <ゲー>とは、大地の女神ガイアを由来とし、レイアが自らに冠した大地母神の称号である。

「お母さま、もったいなきお言葉です。この豊穣の女神デメテル、そこに、大地の力が加われば、どれほどの恵みを世界にもたらすことが可能となることでしょう。謹んで、そのお役目、わたくしが引き継ぎたく存じます」

 先代のガイア、現代のゲ・レイアは、満足そうに頷き合った。

 そして、デメテルは、<ゲー>の音を変化させ、大地母神の位を<デ>と称することにした。

「ガイアお祖母さま、レイアお母さま、わたくし、つい先だって、コレーとアリオン、この子たちの母として生きる決意をし、名を<メーテル>に改名しよう、と考えていたところなのです」

「それならば、デメテルよ、あなたは、今後、<デ・メーテル>と名乗ることにいたしなさい」

 かくして、原始の四神の一柱である、初代の大地母神ガイアの宣言によって、ゲ・レイアから、デ・メーテルへの大地母神の承継が、ここに成立したのであった。

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