第42話 デメテルの受難

 窓の隙間から差し込んできた陽の光の眩しさが、ゼウスを覚醒させた。

 昨夜、自室に引きずり込んだ女神とは、驚くほど肉体の相性がよく、ゼウスは、その女神と一晩中まぐわい続けたのだった。

 また抱きたい。

 一夫一妻という法がある以上、正妻にすることはできないが、この女神を愛妾にしよう。

 そう思いながら、ゼウスは、陽光が照らし出した女神の顔を、今更ながら確認した。

 うっ、まじかよ。

 そこにあった女神の顔は、姉デメテルのそれだったのだ。

 昨晩の情事の相手がデメテルとあっては、オリュンポスの主神として、責任を取らないわけにはいかない。

 何とか、エウリュノメーと円満に離縁できないものだろうか?

 考え悩むゼウスの許に、親衛隊の一柱が、ゼウスへの離縁状を遺して、妻のエウリュノメーが娘たちを連れて、オリュンポスから出て行った、と報告してきたのだ。

 この知らせを聞いたゼウスの顔には、自然と笑みが浮かび上がった。

 その日のうちに、ゼウスは、エウリュノメーとの離縁と、デメテルとの再婚をオリュンポス中に知らせたのだった。


 ゼ、ゼウスと関係を持ってしまった。

 自分が、弟のゼウスに惹かれていたのは確かなのだが、その気持ちには、これまでずっと蓋をしてきた。妹であるヘラが、ゼウスへの気持ちを、自分に打ち明けていたからだ。オリュンポスに、ヘラが、一夫一妻制を敷いたのも、いつの日か、ヘラ自身がゼウスの正妻の座につくための布石であった。しかし、ティタノ・マキアの折に、ヘラがオケアノスの許に疎開している間に、ゼウスは、メティスを妻に迎えてしまっていた。オケアノスの浮島から戻ってきた際に、ゼウスの結婚を知った時のヘラの憎悪に満ちた表情が、デメテルには忘れられない。その後、ゼウスは、次々と離縁と婚姻を繰り返していったのだが、折り悪く、ヘラが割り込む隙がなかった。それ故に、激情家のヘラは鬱屈を募らせ、そのありのままの気持ちを、姉のデメテルに対して当たり散らしていたのだった。それに、大人しい性格のデメテルは、ただただ耐えてきたのであった。

 しかしついに昨晩、デメテルは、その身をゼウスに任せてしまった。拒絶しようという気持ちは、ゼウスに抱かれた瞬間に霧消してしまい、そのまま、一晩中、主神と肉体を交え続けてしまったのだ。

 朝となり、情欲の熱情が溶け、冷静さを取り戻した時、デメテルは恐怖した。

 少しの間、ゼウスと一緒にいただけでも、それだけで、嫉妬に駆られたヘラからの当たりは厳しいのだ。万が一、ゼウスとのことが、ヘラに露見したら、と思うと……、そう考えただけで、デメテルの全身が怖れで硬直してしまう。

 だから、しばらくオリュンポスから姿を消そうと、自室に戻ったデメテルは大急ぎで荷造りを始めたのだ。その最中に、ゼウスによって、エウリュノメーとの離縁と、デメテルとの再婚が一方的に告知されたのだった。

 ゼウスの正妻の座についたばかりのデメテルは、もはや猶予なし、とばかりにオリュンポス山から姿を消した。


 オリュンポスを出奔したデメテルは、テッサリア平原にいた。

 このテッサリア平原こそが、主神ゼウスが、穀物の女神である豊穣神、姉デメテルに贈った領地であった。この地こそが、オリュンポスへの食物供給の要であった。

 また、テッサリア平原では、海神ポセイドンから贈られた動物が家畜として放牧されていた。

 実は、ポセイドンは、姉であるデメテルに対しても求愛していた。

 デメテルは、弟ポセイドンの求婚を断るために、彼に無理難題を課した。

 女神デメテルは、ポセイドンに、地上で最も美しい陸上の生物を贈るように伝えたのだ。

 海神ポセイドンには、海の精霊たちを驚かすための悪戯として、イカやタコ、あるいは、イソギンチャクのような海洋生物を、三叉の矛から次々と生み出した経験はあった。

 しかし、奇怪な容姿の海の生物しか創ったことがなかった海神ポセイドンにとって、美しい陸の生物というのは難題であった。

 陸上で活動する生物という点から、四足獣にするという設計は早い段階に決まった。

 そうして最初に出来上がのが<ヒッポ・ポターモス>で、この四足獣は、河でも陸でも生息できる両生生物だったのだが、濃い灰色の皮膚、丸みを帯び、ずんぐりむっくりした身体に短い足、そして、水中からでも、周囲の様子を探りながら呼吸できるように、頭部を大型にし、顔の側面に、耳、目を一直線に配置した。そして鼻の穴は、水中でも自由に開閉し、鼻への浸水を防ぐことができるように、鼻の筋肉を強化し、口も大きく開くことができるように巨大なものにしたのだ。

 水陸両生として、かなり機能性が高い生物を創り上げることができた。これは、ポセイドン自慢の一品だったのだが、見た目という点から、デメテルは気に入らなかったようだ。そして、デメテルに拒絶された動物を、ポセイドンは、地中海の南に位置する大陸に捨ててしまった。その地で、河と陸の両方で生息できる、ヒップ・ポターモスは、<河馬>と呼ばれることになる。

 次に、ポセイドンは、陸上での移動に耐え得る生物にしようと、毛の色が薄い土色の生物を創り、<カミラ>と名付けた。その生物には、移動の時に寄り掛かることができるようにするために、その背に瘤をつくった。そして、その瘤に、長時間移動の際の非常用の飲食物を備蓄することもできるようにした。

「便利そうだけど、色が地味ね」

 デメテルは、このカミラも拒絶した。

 ポセイドンは、また、南の大陸の砂漠地帯に、カミラを捨ててしまった。その地で、背の瘤に非常食を備蓄し、長時間の移動用の乗り物として利便性の高いこの生物は、<ラクダ>と呼ばれるようになる。

 次にポセイドンは、実用面を括弧に入れて、見た目の格好良さに拘ることにした。そこで、この生物の体色を黄色にし、その地色に黒い斑紋を入れた。黄色に黒という色の対照が実に映えた。そして、四肢は長く、首も長くし、これを<キリン>と命名した。

「黒は良いけれど、黄色ってあんまり好きじゃないの。あと、全体的に長すぎ」

 デメテルがキリンも拒否すると、ポセイドンはこれもまた、南の大陸の中央部に捨てた。

 その次に、ポセイドンは、身体の地色を白にし、対照となる黒の形を斑点から縞模様に変え、首や足の長さを縮め、これを<ゼブラ>と名付けた。

「形はいいわね。でも、白と黒って目がチカチカするわ」

 またも、デメテルに拒否され、ポセイドンは、ゼブラを件の大陸の草原地帯に捨ててしまった。

 ヒッポ・ポターモス(カバ)、カミラ(ラクダ)、キリン、ゼブラと、丹精かけて創造した動物を、四度もデメテルに拒絶され、ポセイドンも少し意地になっていた。しかし同時に、拒絶を続けられて、嫌気もさし始めていたので、次の動物を最後にするつもりで、ポセイドンは事にあたった。 

 ポセイドンは、とある動物の背に乗って、悠然とデメテルの前に姿を現したのだ。

 頭と首、そして四肢は長く、かつ身体との均衡がとれていた。そして、全身の体毛は短かったのだが、それに対して、長い尾と、頭から首の上にかけての長い毛、鬣(たてがみ)が特に美しく、ポセイドンは、これを<ヒッポス>と名付けた。

 デメテルは、ポセイドンの求愛を拒絶するために、ポセイドンが創った動物には、何らかの難癖をつけるつもりだったのだが、今回献上された<ヒッポス>という動物の美しさに、思わず固唾を飲んだ。

「き、きれい……」

 デメテルは、思わず反応してしまった。

 しまった。 

 この呟きを、ポセイドンは求愛の受諾と捉えてしまうかもしれない。

 だが、番いの<ヒッポス>をデメテルの許に残すと、ポセイドンは、デメテルに結婚を強要するでもなく、満足そうな哄笑を上げながら、デメテルの許を立ち去っていったのだった。

 あれっ? 

 その後――

 デメテルは、ポセイドンに贈られた、ヒッポスを<馬>と呼ぶことにし、テッサリア平原の己が領地で放牧することにしたのだった。


 デメテルは、自分の領地運営をオンコスという人に委ねていた。しかし、テッサリアに到着したデメテルは、オンコスの領主館には赴かなかった。館にいたのでは、すぐに見つかってしまうのではないか、と懸念したからだ。そこで、デメテルは、オンコスに管理を委ねていた馬の放牧地に赴くと、自身を牝馬に変化させ、神々の目から自身の姿を隠すために、オンコスが管理する馬群に中に紛れることによって、しばらく、状況が沈静化するのを静観することにした。

 しかし、ある夜のことであった。

 牝馬に変化したデメテルに圧し掛かってきたきた一匹の牡馬がいたのだ。

「不敬」

 デメテルは、その失敬な雄を後脚で蹴り飛ばし、払いのけようとした。

 だが、その馬の体躯はビクとも動かない。

「デ、メ、テエエエェェェ~~~ル」

 その声はポセイドンのそれであった。

 そして――

 馬の姿のまま、デメテルは、ポセイドンに凌辱されてしまったのだった。

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