第5章 イポギオス・マキア:ハーデスとデメテル

第41話 エウリュノメーの離縁

 エウリュノメーは、ティターン第一世代に属する大洋神オケアノスとテテュスの娘で、その本来の姿は、上半身が人、下半身が魚で、魚の尾が金の鎖で縛られているため、<金の足のエウリュノメー>と呼ばれている。

 最初、エウリュノメーは、オリュンポスの原初の支配者であった蛇神オピオネウスの許に嫁ぎ、蛇神との間に、幾柱もの<オピオニダイ(オピオネウスの子供たち)>を儲け、その中にケクロプスもいた。

 オピオネウス一家は、ティターン神族の王クロノスにオリュンポスから追放されてしまった。後に、オピオネウスとエウリュノメーは離縁することになるのだが、その際に、息子の親権は父であるオピオネウスが持つことになり、蛇神は息子を連れて、深海の奥底へと去って行ったのだった。

 独り取り残されたエウリュノメーは、姪であるテティスと共に、エーゲ海で暮らすようになるのだが、ある日、この二柱の女神は、ヘラによって遺棄されたヘパイストスを保護し、彼女たちこそが、ヘパイストスの育ての母となったのだ。

 ティタノ・マキアの後、エウリュノメーとテティスは、養い子である<炎と鍛冶>の神ヘパイストスを訪ねて、オリュンポスにやってきた。

 そこで、エウリュノメーは、ゼウスに見初められ、主神の三番目の妻となり、ゼウスとの間に、タリア(花盛し創造力)、エウプロシュネ(喜びをもたらす美貌)、アグライアー(輝く魅力)、という、<優美>の三女神カリテス(単数形カリス)を儲けた。カリテスは、その美しさゆえに、<三美神>と呼ばれることもある。

 カリスたちは、母である美しき水の女神エウリュノメーに似た、美しき若い姫神で、外見という肉体面だけではなく、心根、精神面もまた美しかった。その精神性の優美さは、彼女たちが作り出す物として具現化されることもある。たとえば、彼女たちが描く絵画や、彫り刻む彫刻は、それを見る者の心を豊かにする。さらに、<三美神>たちが、本来、美しさを不要とする実用品に装飾を施すと、機能性に美が付与されるのだった。

 そして、カリテスが最も得意としていたのが、舞踏であった。

 ある時、<三美神>は、神々の宴の際に、父ゼウスやオリュンポスの神々の前で、その優美な肉体を存分に駆使して、演舞を披露したことがあった。

 その場にいた神々は皆、三美神の肉体的な美しさに陶酔してしまった。

 主神ゼウスですら、その顔に喜色を浮かべ上げていた。

 宴の後、カリテスは、父ゼウスの私室に呼び出された。

 実の娘とは言えども、神々の王であるゼウスに会える機会はそう多くない。そのため、<三美神>は皆、父に会える稀な機会に精神を高揚させ、顔を紅潮させていた。

 私室の扉を背にして立つゼウスは、無言で、身に着けていた衣類を脱ぎだし、一糸纏わぬ姿になった。

 カリテスは、全裸の父を前にして、理解が全く追いつかず、身体を硬直させてしまった。

「美しき我が娘たちよ、余と、四人で、楽しくまぐわろうではないかっ!」

 ようやくアグライアーの意識がはっきりしてきた時には、ゼウスは、<三美神>に手が届くところにまで肉迫してきていた。

「タリアっ! エウプロシュネっ!」

 アグライアーの鋭い呼び掛けが、姉たちの意識を呼び戻した。

 伸ばされたゼウスの掌が、胸の膨らみに触れようとした際に、エウプロシュネは、身体を浮かせて、鋭く舞った。

 彼女が肉体を素早く回転させると、その身体は一瞬で温まり、皮膚は熱を帯びた。そのため、ゼウスの人差し指の先が、回転を止めた女神の乳首に触れた瞬間、あまりの熱さで、主神は、反射的に手を引っ込めてしまった。

「今よっ!」

 <三美神>は、突如、激しく踊り狂い始めた。

 ゼウスは、美しき娘たちの気が触れたかと思った。

 今、この場で、踊ったところで、何がどうとなるものでもあるまいに……。部屋の出入口は余の背にあるし、逃げ場などないのだから、黙って、この父に抱かれればよいのだ。まあ、余が愛撫してやれば、すぐに、快楽で大人しくなるだろう。ん、なんだ?

 <三美神>が舞ってゆくにつれ、その身体の周りで、風が立ち、空気が渦巻き始めた。その旋風が、先ずは部屋に明かりをもたらしていた<ランパ>の火を消し去った。

 それから、女神の乱舞は大風を引き起こし、風の衝動が、ゼウスの身体に向かってゆき、主神の神体を扉の前にまで押し戻した。 

 暗闇の中、タリアが、左右の手で、両脇にいた二柱の妹たち、エウプロシュネとアグライアーの肩に触れると、そのタリアの<創造力>が、三姉妹を鳩の姿に変えた。

 そして、鳩に変化した<三美神>は、私室の窓のわずかな隙間から差し込んでいた月の光を頼りに、外へと飛び出していったのだ。

「ちっ、逃げられたか。まあ、惜しいことをしたな。くっ、だが、この滾り、おさまらん」

 そう独り言ちたゼウスは、扉を荒々しく開いた。そして、ちょうどゼウスの私室の前を通りかかった、とある女神の手首を荒っぽく掴むと、顔も見ないまま、部屋の中に強引に引きずり込み、そのまま寝台の上に押し倒した。

 ちょうど、月には濃い叢雲がかかって、唯一の光源であった月光さえも届かなくなっており、ゼウスの部屋内の暗さは、よりいっそう深まっていた。

 その全き暗闇の中、ゼウスは、部屋に引き込んだ女神の身体を、一晩中、貪り続けたのであった。


 ギリシア世界では、オリュンポスの始まりの六神である<家庭>の女神、長女ヘスティアと、<結婚>の女神、三女ヘラにより、<一夫一妻>制が敷かれていた。それゆえに、主神と言えども、姉たちが取り決めた<法>に従わざるを得ず、ゼウスが同時期に婚姻関係を結んだ女神は、常に一柱であった。だから、ゼウスは、最初の妻メティスと別れてから、テミスを第二の妻にし、テミスと別れた後に、エウリュノメーを第三の妻としたのだ。だがしかし、ゼウスは、妻にしなければ構うまい、という暴論をもってして、幾柱もの女神や精霊たちと、男と女の関係をもっていた。

 この夫ゼウスの開き直ったその態度に、現在の正妻であるエウリュノメーも、実は、ほとほと嫌気がさしていたのだ。

 このゼウスの浮気性に加え、ゼウスの姉である小姑のヘラからの、嫉妬交じりの嫌がらせも日に日に惨くなっていた。 

 だが、エウリュノメーは耐えてきた。

 この夜も、神友のテティスから、もうあんな男と別れた方がよい、と説得されていた所に、鳩になった<三美神>カリテスが、母エウリュノメーの庇護を求めて、半狂乱で泣きながら、飛んで逃げ込んできたのだ。

 エウリュノメーは、テティスと共に、娘たちから、ゼウスとの経緯を全て聞かされた。

 信じられないことに、ゼウスは娘であるカリテスにさえ、その欲望の触手を伸ばしてきたのだ。

 なんとしても、娘たちの身は、このわたくしが守らなければならない。

 エウリュノメーの忍耐の糸は断ち切れ、彼女は、ゼウスと離縁する決断をした。

 その夜のうちに、前夫である蛇神オピオネウスとの間に儲けた息子ケクロプスが初代国王として、女神アテナによって任命され、そのアテナの後見として養い子であるヘパイストスが居る地、アテナイに向かって、エウリュノメーは、愛娘たちを連れて、テティスと共に、オリュンポスを出奔したのだった。


<資料>

「ゼウスの妻たち」

 メティス:ゼウスの最初の妻で<思慮と助言>の女神、アテナイの守護女神アテナの母である。

 テミス:ゼウスの二番目の妻で<掟>の女神、季節の三女神ホライと、運命の三女神モイライの母である。

 エウリュノメー:ゼウスの三番目の妻。優美の三女神カリテスの母である。ケクロプスは前夫との間に儲けた実子で、ヘパイストスは彼女の養い子である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る