第40話 オリュンポスの審判とアテナイ王国の建国

 翼の折れた女神ニケの傷は、ポセイドンから直接受けたものであったため、その傷の治りは芳しくなかった。そこで、ニケの傷を癒すために、人の祈りの力を集約せんとして、アテナは、ニケのための神殿をアクロポリス山頂に建造させたのだった。そして、アテナ自身もまた、自らの為の神殿を、ニケ神殿の側に建立させた。

 それから程なくして、アクロポリスには、アテナの後見役であるパーンとヘパイストス、そしてディオニュシオスも合流し、アッティカの神々は、今後のポセイドンに対する方針を話し合った。

 ポセイドンの泉を石山によって塞ぎ、さらに、海水を真水に変えた。この事によって、ポセイドンがアッティカの領有主張の根拠としていた四角形の一角を崩すことにアテナ側は成功した。だが、これによって、ポセイドン側は、四隅の一つであるアクロポリスを、今度は武力によって再奪還せんとして、アッティカ地方へ侵攻してきたのだ。

 ポセイドン軍は、アッティカ地方のトリヤ平原に陣を構え、かくして、両軍は、平原の中央で対峙することになった。

 そして――

 開戦の合図となる笛の音が鳴り響くと、アテナ軍は、盾を構え、槍先を敵軍に向けると、足並みを揃えて、陣形を崩さないまま、ポセイドン軍に向かって行軍し始めた。そして、アテナ軍は、ポセイドン軍まで、あと数歩の所まで接近した。

「その戦い、待たれよっ!」

 槍先が交わらんとしたその寸前に、両軍の間に、天空から舞い降りて来た者たちがあり、戦端が開かれるのを妨げたのだ。

「あっ! あれは」

 アテナ軍の後方から、片翼のニケが驚きの叫びを上げた。

 空から舞い降りた二柱の神は、ゼウスの親衛隊の中核で、<栄光と勝利>のステュクス一族の次男クラトス(力)と次女ビアー(暴力)、つまり、ニケ(勝利)の弟と妹だったのだ。

「世界を統べる王神からの通達を申しあげる。両軍、即刻、兵を引き、このアッティカの領有は、<オリュンポスの審判>に委ねよ、とのゼウスさまからの仰せである」

 ティタノ・マキアの勝利によって、ティターン神族から世界を奪い、これから、オリュンポス神族による支配権を固めてゆこうという、この時期に、世界の王たるゼウスの兄ポセイドンと、長子アテナの間で争うような、親族間の内戦を、ゼウスは断じて認めることができなかったのだ。

 そこで、ゼウスは、当事者であるポセイドンとアテナをオリュンポス山に召集し、そこで、両者の言い分を聞いた上で、オリュンポスの全ての神々による投票によって、アッティカ地方の支配を、いずれの神に委ねるべきか決しようとしたのだ。

 これを、<オリュンポスの審判>という。

 その投票権は、オリュンポスの始まりの六神である姉妹兄弟神、ヘスティア、デメテル、ヘラ、ハーデス、ポセイドン、ゼウスと、その血を引きしあらゆる神々が有していた。 


 ニケの弟と妹が戦場に突如出現したその一方で、兄である長男のゼロス(栄光)は、妻と娘のアグラウロスを失い、アクロポリス山頂の塔に、独り籠っていたケクロプスの許を訪れていた。

 ゼウスは、今回の<アッティカ領有>に関する有権者の判断材料として、アッティカに住んでいた蛇の半獣神ケクロプスをオリュンポスに召集することにしたのだった。

 実は、ケクロプスは、ゼウスたちオリュンポス神族がオリュンポス山をその本拠地とする以前に、オリュンポスを支配していた蛇神オピオネウスと、オケアノスの娘エウリュノメーの実子であった。その金の足のエウリュノメーは、今は、ゼウスの三番目の妻となっており、エウリュノメーこそが、アッティカ在住のケクロプスを、今回のオリュンポスの審判の証人として推薦したのだった。


 オリュンポス山に辿り着いた時、アテナは、ケクロプスが証人喚問された事を伝え聞いて、天秤が自分の方に傾いたように思えた。

 ケクロプスは、ポセイドンの使者によって、義父を殺され、また妻と娘の死の原因になったのも、ポセイドンに他ならないからだ。そのケクロプスが、ポセイドンに有利な発言をするはずはない。

 そのことは、ポセイドンも承知しているはずなのに、正面に座しているポセイドンの表情には、自分の勝利をまるで確信しているかのような余裕が感じられた。

 アテナが訝しんでいる間に、ケクロプスが現れ、ゼウスから基本的な質問が、この蛇の半獣神に対して幾つかなされた。その後に始まったケクロプスの論調は、ポセイドンに対して有利なものだったのだ。

 無表情なケクロプスの視線は、まったく動かないまま傍聴席の方に向けられていた。その方向にアテナが目を向けると、女神は、そこに、ケクロプスの娘のヘルセーの姿を見止めたのだ。さらに、彼女の周りには、見覚えのあるポセイドンの配下の者の姿もあったのだ。

 アテナは察した。 

 ポセイドンは、ヘルセーを人質に、自分に有利な発言をするように、ケクロプスを脅迫しているのだ。

 アテナは、激しい怒りを覚えた。だが、その感情を表情に出さないように注意しながら、胸に装着してある<アイギスの盾>を指先で軽く二度叩いた。

 すると、一匹の蛇がアテナの胸から這い出てきた。アテナが、蛇の背を指先でなぞると、蛇は地面を這いながら何処かに消えて行ったのだった。

 アテナは、じっと待ったまま、ケクロプスの証言を聴き続けていた。

 すると――

 突如、アテナの背後に、若い男神が現れ、彼女の耳元で何やら囁いた。

「お母さま、任務完了です」

 アテナが振り向くと、そこには、ケクロプスの三女ヘルセーと、人に姿を変じた蛇の半獣神エリュシクトーン、アテナの隠し子の姿があった。


 ケクロプスは、傍聴席にいたはずのヘルセーの姿が見えなくなったことに気付き、感覚を拡張し、周囲を探った。

 そして、ヘルセーがアテナの脇にいるのを感知したのだ。

「証人ケクロプスよ。そなたの言は分かった。他に何か言い足す事はあるか?」

 ゼウスは、そうケクロプスに問うた。 

「はい。王神よ。わたくしが述べてきたことは、海神ポセイドンさまがアッティカを領有した場合にもたらされるであろう、海の恵みの利益に関する推測、いわば、未来予想図です。ここからは、現在進行形のアッティカの状況についてお話いたします。アッティカの地は、ポセイドンさまの三叉鉾から湧き出ていた海水のせいで、作物が実らず困窮していました。しかし今、アテナさまが植えた新たなる種子、オリーヴのおかげで、今のアッティカは実に潤っています。私の発言は以上です」

 こうして証言を終えたケクロプスは、オリュンポスの神々の前から退出していった。

 おのれえええぇぇぇ~~~、かくなる上は。

 ポセイドンは、ケクロプスの背中を、憎悪を込めた眼差しを短刀のように鋭くして貫かんとした。それから、傍聴席に視線を移し、配下の者に合図を送ろうとした。だが、いるはずの場所に手下はおらず、アッティカから連れて来させた娘の姿もなかった。

 周囲を見回すと、捕えていたはずの娘がアテナの傍にいたのだ。

 神の<直観>が告げた。

 わしの配下が倒され、娘が奪われたというのか……。それにしても、わしに不利な発言をしおって、ケクロプス、ゆ、許せん、許せんぞおおおぉぉぉ~~~。


 アッティカ在住者であるケクロプスの証言に続いた、当事者であるポセイドンとアテナの弁舌も終わり、投票が始まらんとしていた。

 オリュンポスの審判の際、オリュンポス神族の血族である有権者は、黄金製の巨大な天秤の皿の上に、自分の投票札を乗せてゆく。一枚一枚の札は同じ重さになっており、最終的に、その傾きが大きい方の勝利となるのだ。

 ゼウスによって投票の開始が告げられる前、<神々の誓い>をたてるために、ポセイドンとアテナは、それぞれ、<ステュクスの水>を飲み干した。その結果、敗者は、いかなる異論を唱えることもできなくなる。もし仮に、反意を口にした場合、強制的に一年間の仮死状態に陥り、冥界に閉じ込められ、その後、仮死状態から解けた後も、九年の間は、オリュンポスから追放される、という厳罰が下されるのだ。

 今回のオリュンポスの審判では、王神であるゼウスは、最高裁判官の役割を果たすため、この投票には参加しなかった。

 まず最初に、ポセイドンが左の皿に投票札を置くと、秤は左に傾き、その後、アテナが右の皿に投票札を置くと、天秤は前後に大きく揺れ、その後しばらくした後、左右の皿は平衡になり、天秤の揺れは止まった。そして、ゼウスの親衛隊が、皿の下に支え棒を入れ、これを揺れ止めとした後、投票が始まった。

 有権者全ての投票が終わった後で、揺れ止めが外されたのだが、天秤は微動だにしなかった。

 同票だったのだ。

 しかも、オリュンポスの男神は全て、札をポセイドンに置き、女神は全てアテナに票を投じたのだった。

 実は、これは、ゼウスの裏工作の結果であった。投票結果を同数にすることによって、アッティカを、ポセイドンのものにも、アテナのものにもせず、ゼウスの直轄地にせんと考えていたのだ。ゼウスが判決を口にした瞬間に、それは覆す事のできない、神の言霊となる。そして、ゼウスが判決を口にしようとした、その直前のことだった。

「ちょっと、待ってくださいっ!」

 突如、制止の声が上がったのだ。 

 声の主は、見たこともない若い神であった。

「自分にも投票させてください」

 しかし、オリュンポスの審判の投票権は、オリュンポス神族だけが有している特権なのだ。だが、その未知の若い神が執拗に食い下がってくるので、諦めさせるために、ゼウスは血液検査を行うことにした。

 ゼウスは、親衛隊に、血液の検査道具一式を持ってこさせた。

 検査の結果、その見知らぬ神が、紛れもなく、オリュンポスの血脈に連なることが判明したのだ。

「そなた、名は?」

「エリュシクトーンと申します」

 そして、その未知の若い神、エリュシクトーンが、右側の皿に投票札を置くと、秤は右に大きく傾いた。

 かくして、アッティカ地方は、アテナによって領有されることが決せされたのだった。


 <神々の誓い>によって、敗者のポセイドンは異論を唱えることが、もはやできなくなったのだが、海神は一言も発さないまま、荒々しく扉を蹴破って、裁判部屋から出て行った。

 おのれえええぇぇぇ~~~、あの蛇神ケクロプスと、そして、エリュシクトーンとかいう若神、許さん、許さんぞ、許せるものかあああぁぁぁっ!

 ポセイドンは、心の中で、かの二柱の神を、深く深く呪ったのだった。

 そして、海底神殿に戻ったポセイドンは、三叉矛<トライデント>を使って、腹立ちまぎれに、海底大地震を引き起こした。

 その結果、陸続きであったエウボイア地方の北部とアッティカ地方の境界に深い亀裂が入った。さらに、ポセイドンが矛をもう一突すると、二つの領地は完全に分断された。

 かくして、エウボイア地方とアッティカ地方にできた海峡は、<エウボイア湾>と呼ばれるようになったのである。


 自身の領地となったアッティカに戻った女神アテナは、アクロポリスに集ったアッティカの神々と話し合い、全神一致の下、アッティカ地方を、女神自身の名を冠した<アテナイ>と命名し、そして、殺害されてしまった守護代統括のアクタイオスの娘婿であったケクロプスを、女神アテナの名の下に、アクタイオスの後継に指名したのだった。そして、これを機に、アテナイを王国にした。かくして、蛇の半獣神ケクロプスが、アテナイ王国の初代国王になったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る