第39話 アグラウロス神殿とオリーヴの樹

 蛇の半獣神ケクロプスは、妻のアグラウロスと次女のパンドロソスと共に、アクロポリスの山頂に戻った。そして、かつて、アテナが幽閉されていた塔の扉を通り抜けた。その塔は、上の階ほど、床面積が狭くなってゆく、円錐構造の建物であった。最上階には、ケクロプスが養子としたエリュシクトーンの部屋があり、その下の階が、ケクロプスとアグラウロス夫妻、それぞれの部屋があり、その下の階には、夫妻の娘たち、長女のアグラウロス、二女パンドロソス、三女のヘラーの部屋があった。

 ケクロプスは、塔の扉を越えると、入口に常備してある、<ランパ>と呼ばれている油の器の取っ手を掴んだ。ケクロプスは、器の蓋を開けると、そこに魚油を注ぎ、器の口から一本の灯芯を差し入れると、それに火を灯した。

 ケクロプスは、妻と二女を背後に伴って、塔・中央部の螺旋階段を昇ってゆき、娘たちの部屋がある階層にまで至った。

 長女のアグラウロスは、薄暗い廊下の端で立ち尽くしていたのだが、父母と妹の姿を前にしても、身動ぎ一つしなかった。

 違和感を覚えたケクロプスは、手に持っていたランパの明かりで、長女の全身を照らし出してみた。

 ケクロプスは、驚愕のあまり、ランパを掲げたまま、固まってしまっていた。 

 アグラウロスの全身は灰褐色に染め上げられ、<石化>していたのだ。

 その間、二女のパンドロソスは、三女のヘラーの部屋に向かった。

 ヘラーの姿は認められなかった。念のため、自分の部屋と姉の部屋も確認してみたのだが、やはり、妹はどこにもいない。

 妻のアグラウロスは、最上階の部屋にいるはずの、蛇の半獣神の神童、エリュシクトーンが、廊下の壁の縁で意識を失っているのを見付け出し、アテナから託された養い子を、匿うようにその胸に仕舞い込んだのだった。

 そこに――

 塔の螺旋階段を昇ってくる幾つかの足音が建物の中で響き渡り、ケクロプスたちの間に緊張が走った。

 現れたのは、アッティカ地方守護代統括であるアクタイオスの臣下の者たちであり、彼等の報告によると、守護代アクタイオスが、彼の許を訪れていたポセイドンの使者によって石に変えられ、さらに、その石像が粉々に砕かれ、バラバラにされたアクタイオスは、もはや復元不可能との事であった。

 義父殿までも<石化>だと!

 その時、妻のアグラウロスの甲高い叫び声が、ケクロプスの耳をつんざいた。

 ケクロプスが妻に目を向けると、妻のアグラウロスは、頭を抱えながら半狂乱になっていた。そして果ては、アグラウロスは、その頭を激しく壁や床に打ち付け始めたのだ。

 そんな母を、パンドロソスは、背後から抱え込んで、母の自傷行為を必死に止めようとしていた。

(お母さま、落ち着いてください)

 アグラウロスの脳に、<声>が響いてきたその時、彼女はその動きを止め、瞬時にして、冷静さを取り戻したのだった。

「もしかして……、アグラウロスなの?」

 長女のアグラウロスの思念は、ケクロプスとパンドロソスの脳にも届いていた。

 そして、長女のアグラウロスの<声>によって、彼女を石化させたのが、義父アクタイオスを殺害したのと同じ者だという事、そして、三女のヘラーを連れ去っていったのも、そのポセイドンの使者だという事をケクロプスは察した。

 ケクロプスは、三女のヘルセーの奪還を、密かに心に誓ったのであった。


 長女アグラウロスの<声>は、父母に、夜が明けたら、自分の石化した身体を、アクロポリスの北東側の麓にまで運んでくれるように頼んだ。

 そこは、ポセイドンの三叉矛が突き刺さり、海水の泉が湧き続けている場であった。その海水の泉の存在を根拠に、ポセイドンは、アッティカの領有を主張しているのだ。

 長女は、そのポセイドンの泉のすぐ脇に、自分の石の身体を置くように言った後、アグラウロスは、父母と妹に、一つの事実を告げた。

(お父さま、お母さま、わたくし、実は、元の肉体に戻ることはできないのです)

「このまま石のままだというのかっ!」

 背後の妻と二女は、軽い嗚咽を漏らしながら、涙を流していた。 

(このまま戻れないのならば、わたくし、石と化してしまったこの身を、アッティカの役に立てたく存じますの)

「それで、お前は、如何にしたい、と考えておるのだ?」

(わたくしの石の身体で、海水を出し続けている、憎っくきポセイドンの忌々しき泉を塞いでください)

 決意の意志を込めた娘からの申し出ではあったものの、ケクロプスは躊躇いを覚えた。もしかしたら、万が一の可能性かもしれないが、アグラウロスの石の身体を元に戻す方法だって見付かるかもしれないではないか。

(お父さま、お願いいたします) 

 ケクロプスは決断した。

 その<人>としての肉体を、元の、人と蛇の半獣神の<神>の身体に戻し、その<神通力>を解放させ、人に対する変化の力を、長女のアグラウロスに対して駆使したのだ。 

 ケクロプスは、まず、娘のアグラウロスの石の肉体を巨大化させた。それから、その巨大化した石像を、石山に変え、それで、ポセイドンの海水の泉を塞いだのだ。

 しかしながら、その巨大な石の山をもってしても、海水の泉を完全に覆い尽くすことはできず、石山の麓、ポセイドンの三叉矛が刺さっている辺りからは、未だ海水が流れ続けていた。

 ケクロプスは、海水湧出の元凶であるポセイドンの三叉矛を引き抜こうとした。それまで、アクタイア地区の住民たち、<人>の力では、何人掛かりでもビクとも動かなかった三叉矛も、神の身に戻ったケクロプスが、その<神通力>を駆使して、両腕に力を込めると、矛は地面から動いた。

 だが同時に、矛を動かしたことによって生じた大地の亀裂から、海水が勢いよく噴き出し始めたのだ。

 慌てたケクロプスは、矛を引き抜くのを止めて、それを大地に再び刺し戻して、湧き出る海水を抑えようとした。だが、水の勢いは止まらない。

 三叉矛の柄を両手で強く握るケクロプスの顔に海水が勢いよく噴きかかってくる。

 妻のアグラウロスは、胸に匿っていた神童のエリュシクトーンの身をを自由にすると、その子を背をそっと押して、養父であるケクロプスの手伝いに行かせた。

 エリュシクトーンは、養父の真似をして、柄の下の方を両手で握った。

 そのケクロプスとエリュシクトーンのすぐ脇を、妻のアグラウロスと次女のパンドロソスが駆け抜けて行ったのだ。

 その時、妻と娘は、ケクロプスの横顔を見て、薄く微笑んだ。

 そして、ケクロプスが制止する間もなく、妻と娘は、ポセイドンの海水の泉に飛びこんだのだ。

 アグラウロスとパンドロソスは、瞬く間に、ポセイドンの泉の仄暗い水の奥底へと沈んでいった。

 この二人の女の人身御供によって、湧き水の勢いは止まった。

 そして、ケクロプスが、泉の水を掌で救って、口に含んでみると、それは、塩水ではなく、真水へと変わっていた。

 ポセイドンの三叉矛を引き抜いて、投げ捨てたケクロプスは、天を仰ぎ見たまま、その場で立ち尽くしていた。 

 妻と娘を犠牲にしてしまったケクロプスは、心の中で独り言ちた。

 神に対して人を供物として捧げるようなことは、もはや二度と何人にもさせない。そして、自分にとって妻はアグラウロスただ一人で、再婚はせず、永遠の一夫一妻を貫くこと誓おう。

 そう誓約を唱えながら、独り泉を眺め続けていたケクロプスと、エリュシクトーンのすぐ脇に、一つの物体が落下してきた。 

 それは、アテナを抱き抱えた勝利の女神ニケであった。

 ニケは、ポセイドン軍の大波による襲撃から逃れて、スニオン岬からアクロポリスを目指してきたのだ。

 ニケは、ポセイドンの小型の三叉矛でその片翼を貫かれて、深く傷ついていたのだが、気力で飛行を続けてきたのだ。そして、アクロプリスが視認できたところで、ついに力尽きてしまったのだ。ただ、最後の気力を振り絞って、アテナの身を守るために、彼女の身体を翼で抱えたのだった。

 ニケは地面に衝突する際に翼から落ちて、これを緩衝材にした。この時、ニケの傷付いていた片翼は完全に折れてしまった。


 身を呈して、アテナの身を守り続け、疲れ果て、意識を失ったニケの身体を、ケクロプスとエリュシクトーンの手を借りて、アテナは、アクロポリスの山頂にまで運んだ。 

 そこで、ケクロプスから、彼の家族に関する全ての事情を伝え聞いて、女神アテナは落涙した。

 アテナは、アクロポリスの北東の、アクラウロスの身体を変化させできた石山を、リュカベットス山と名付け、さらに、その山の麓に、母と長女の二人のアグラウロスと、二女のパンドロソスを祀るための神殿を作って、これを<アグラウロス神殿>と名付けた。

 さらに、アテナは、三人の女たちに捧げるために、ポセイドンの泉があった場所に、一粒の植物の種を植えた。やがてそこから、木が一本生えた。その樹木は、程なくして、アッティカ地方全体に拡がっていったのだった。

 それこそが、オリーヴの樹である。

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