第38話 石化されたアグラウロスと拐かされたヘルセー

*話末に第38話の主要作中人物一覧を添付



 アテナは、自らの領地であるアッティカ地方を<十二>に分割して、それぞれを、アッティカの土を使って、手ずから作り出した<人>に委ねた。

 たとえば、アッティカ地方南西端のサロニコス湾に面しているアルゴリア半島沿岸には、アッティカの飛び地である都市<トロイゼン>が在り、ヒッポリュトスに統治を任せていた。

 そして、アッティカ地方西部の高台、<アクロポリス>周辺の地を統治していたのが、<アクタイオス>で、このアクタイオスこそが、十二人の<人>の首領的立場にあった。そして、アクロポリスの周辺地は、彼の名を採って、<アクタイア>と名付けられた。

 アテナと、その後見であるヘパイストスとパーンは、アテナが産み落とした<エリクトニオス>を封じ込めた神聖な籠を預けた<アグラウロス>を、アクタイア地区の守護代にして、アッティカ地方守護代統括のアクタイオスに委ねた。アクタイオスは、アグラウロスを自らの養女とし、彼女とその養い子を、その保護下に置いた。


 アッティカ地方のアクロポリスには、かつてアテナを閉じ込めていた塔、<ゼウスの身体>が存在していた(第二部第三十一話)。この塔の警護をゼウスから任されていたのが、<ケクロプス>である。ケクロプスは、上半身が人、下半身が蛇の姿の半獣神で、ティタノ・マキアの折に、何処からかオリュンポス山に流れてきた神であった。

 そして実は、ケクロプスは、ゼウス達、オリュンポス神族がその本拠地とする以前に、オリュンポス山を領有していた蛇神オピオネウスと、金の足のエウリュノメーの実の子であった(第一部第十五話、および、第二部第三十三話)。この事を知っているのは、銀の足のテティスと金の足のエウリュノメーの養い子であるヘパイストスただ一人であった。つまり、エウリュノメーの養子であるヘパイストスと、実子であるケクロプスは、母エウリュノメーへの愛を媒介として、互いに親睦を深め合ってきたのだった。

 それゆえに、ゼウスによって、アテナがアクロポリス山頂の塔、<ゼウスの身体>に幽閉された折には、ヘパイストスは、ゼウスに手を回して、アテナが幽閉された塔の警護役に、蛇の半獣神ケクロプスを就けさせたのだった。そして実は、パーンとヘパイストスが<ゼウスの頭>を叩き割って、アテナを救出した際に、ヘパイストス達を塔に導いたのが、他ならぬケクロプスだったのだ。

 ケクロプスは、アテナ解放の後も、アクロポリスに留まり続けた。

 そこに、アテナによって守護代に任じられたアクタイオスが、アクロポリスに派遣されてきたのだ。

 これまで、アクロポリスを守ってきたのは、他ならぬ、このケクロプスである。たとえ、アッティカの領主である女神アテナの決定とは言えども、いきなり余所者である<人>風情にアクロポリスを仕切られるのは面白くない。

 ケクロプスは、まず、アクタイオスがどんな男か見てやろう、と思った。

 そして、ケクロプスが、アクロポリスに到着したアクタイオスと初めて対面した際、その後に控えていた、彼の養女のアグラウロスの姿に目が釘付けになってしまった。

 半獣神とは人の上に立つ存在ではあったが、だが、神という上位の立場を利用して、美しきアグラウロスに結婚を強要するのは、男神として情けないように思え、その日は、何も言い出さぬまま、ケクロプスはアクロポリス山頂の塔に戻った。

 その夜、ケクロプスの塔を訪れた者がいた。

 それは、アグラウロスであった。

 <人>の女であるアグラウロスは、自分の創造主であるヘパイストスから、神友であるケクロプスへの言伝を申し使っていたのだ。ヘパイストスからの伝言を聞いたケクロプスは、アグラウロスから神籠を手渡された。その籠の中に横たわっていたのが、半獣神の赤子であった。

 偶然にも、その赤子は、自分と同じ、蛇の半獣神である。その姿を見た瞬間、ケクロプスに妙案が一つ浮かんだのだ。

 アテナの子であるエリクトニオスを、自分とアグラウロスの子として育てることにし、これを大義名分にして、アグラウロスに結婚を申し込むのだ。アグラウロスは、そもそも、創造主のヘパイストスから、アクロポリスでは、ケクロプスを頼るように命じられていたため、ケクロプスからの結婚の申し出を、迷うことなく受け入れたのだった。

 そして、アテナの実の子であるエリクトニオスに、自分たち夫妻の子として、<エリュシクトーン>という別の名を与えたのだった。

 その後、ケクロプスとアグラウロスの間には、三人の娘が誕生し、長女を、妻と同じ、アグラウロス、次女をパンドロソス、三女をヘルセーと名付け、ケクロプス一家は、アクロポリス山頂の塔を住処とし、三人の娘達それぞれに、一部屋ずつ当てがい、塔の最上階、かつて、アテナが閉じ込められていた牢に、エリクトニオス、否、エリュシクトーンを封じた神籠を置いたのだった。


 そして、ある日のことである。

 アクタイアを訪れた一柱の神がいた。その神と、アクタイア地区の守護代アクタイオスは面会し、彼の神は、アクタイオスに一通の書簡を手渡した。

 文面に目を通した守護代の顔色が、一瞬で蒼白なものに変わった。

 その神は、ポセイドンが遣わした使者であり、密書には、アクタイオスに、女神アテナを裏切って、海神ポセイドンに味方せよ、という旨のことが書かれていた。

「アクロポリス山の麓には、我が主、ポセイドン様の三叉矛が突き刺さっており、そこからは海水が湧き出ておる。それゆえに、だ。このアクタイア地区は、女神アテナではなく、海神ポセイドン様の領地なのだ。つまり、だ。この地区の守護代であるお前は、ポセイドン様の臣下ということになる」

「たとえ、神とはいえ、なんたる暴論だっ! そんな意見に従うことはできぬ。そもそも、我が女神様を裏切れるものかっ!」

「ならば、死ね」

 冷たく言い放った使者の目が光った瞬間、アクタイオスの体は石に変わってしまった。そして、ポセイドンの眷属は、その石像を粉々に砕き割った。

「おまえが拒絶するってことは最初から分かっていたよ。まあ、人たるアクタイオスは簡単に始末できたが、問題は、半獣神のケクロプスだ。こいつを、なんとか味方に引き込めないものかな? そうだ。彼奴には妻子がいるという話だ。搦め手で攻めてみるか」


 ケクロプスの屋敷は、元々、アテナを幽閉していた塔を改修したものだったのだが、最上階の、かつて<ゼウスの頭>であった半壊部分は、アテナ解放の遺物としてそのままの状態にされていた。

 ポセイドンの使者は、夜陰に紛れて、アクロポリス山頂のケクロプスの塔の屋上の、その亀裂から、屋内への侵入を果たした。

 主のケクロプスが、妻のアグラウロスと次女のパンドロソスを伴って、塔を留守にしている事は確認済で、つまり、ここに居るのは、長女のアグラウロスと三女のヘルセーの二人だけのはずだ。かの蛇神の半獣神は、娘達を溺愛しているそうだし、どちらか一人、できれば両方を人質にすれば、ケクロプスを脅迫するための十分な交渉材料になるだろう。

 かつてアテナの牢であった部屋を通り抜け、侵入者は、塔の螺旋階段を降りて行った。


 そのポセイドンの眷属である侵入者の背中を、屋上の部屋の隅に置いてあった神籠の隙間から、一柱の蛇の半獣神の神童が、声を押し殺したまま、じっと見詰めていた。そして、侵入者が部屋から出て行ったのを確認すると、音もなくスルりと籠から抜け出した蛇の半獣神エリクトニオス、今や、ケクロプスの息子としてエリュシクトーンと呼ばれている神童は、侵入者の跡を、床を這って追って行ったのだった。


 ケクロプスの塔は、階を降りるごとに床面積が拡がってゆく、いわば、円錐体構造を為していた。そして、最上階のエリュシクトーンの部屋のすぐ下の階に、ケクロプスと妻のアグラウロスの部屋があり、ここが、いわば、アテナの実子である蛇の半獣神を、外敵から守護するための最後の砦になっていた。

 その下の階は、三つの部屋に分かれていて、それが、三人の娘達の部屋だったのだが、ポセイドンの配下が侵入したのは、三女のヘルセーの部屋であった。

 ヘルセーは、突然、見知らぬ男神が現れたことに驚愕し、悲鳴をあげそうになったのだが、侵入者の<瞬歩>によって接近されたヘルセーは、声をあげる間もなく、気絶させられてしまった。暗闇の中、ヘルセーを拐かすべく、気を失った彼女の身体を、侵入者が肩に担ごうとした時、ヘルセーの足が、部屋の中に置いてあった壺に打つかって、その壺が床に落ちて、衝突音が立った。

「ちっ、しくじったわ。疾く、脱出せねば」

 ポセイドンの使者が、ヘルセーの部屋から飛び出ると、妹の部屋で立った物音を聞いて、己の部屋から走り出てきた長女アグラウロスと鉢合わせになった。

「このまま、我を見逃せ。ここで目にした事を見なかったことにするのならば、お前のことは放置してやろう。そうだ。これを、くれてやる」

 ポセイドンの眷属は、賄賂として、眩いばかりの黄金製の装飾具をアグラウロスに与えた。ケクロプスの長女は、贈賄を受け取り、そのまま、侵入者を行かせてしまったのだった。

 ふん、<人>などチョロいわ。

 侵入者は、アグラウロスに背を向けた。その瞬間、侵入者の足首に、紐状の何かが絡みついてきたのだ。それは――

 蛇の半獣神の神童の身体であった。

 侵入者は、身体の均衡を崩し、床に倒れ伏してしまった。ポセイドンの眷属は、足首に絡みついていた蛇の神童を振りほどき、壁に投げつけると、エリュシクトーンは意識を失ってしまった。

 しかし、身体を反転させ、仰向けになったところに、アグラウロスが乗り掛かってきて、先ほど受け取ったばかりの黄金の装身具で侵入者を殴り始めたのだ。

 馬乗りになられた侵入者は、両腕をぴたり合わせて、顔面への連続打撃を防ぎ続けた。

 絶え間ない攻撃を続けているうちに、侵入者の腕に隙間が少し空いた。アグラウロスは大きく振り被って、その隙を通して、侵入者の顔面により強力な一撃を加えようとした。

 まさに瞬間――

 ポセイドンの眷属の腕と腕の間から見える両目から、一筋の光が放たれたように、アグラウロスには思えた。そう知覚した刹那、腕を振り下ろしたアグラウロスの手は、侵入者の鼻先で止まってしまったのだ。

 アグラウロスは<石化>してしまっていた。

 ポセイドンの使者は、美しきアグラウロスを粉砕させるのは忍びなく思え、石化させたアグラウロスを壁にもたせ掛けると、気絶したままのヘルセーを背負って、ケクロプスの塔を出て、アクタイア地区を後にして行ったのだった。

 


<参考:38話の作中人物>

 アクタイオス:アテナが創造した十二人の<人>、アッティカ地方守護代統括にして、アクロポリスを中心とするアクタイア地区の守護代

 アグラウロス:アテナの後見であるヘパイストスが創造した<人>の女、アテナが産んだエリクトニオスの乳母

 エリクトニオス(エリュシクトーン):アテナとポセイドンの子、ケクロプスとアグラウロスの養子として与えられた別名がエリュシクトーン

 ケクロプス:蛇の半獣神、蛇神オピオネウスと、金の足のエウリュノメーの息子、アグラウロスの夫

 アグラウロス:母と同じ名である、ケクロプスとアグラウロスの長女

 パンドロソス:ケクロプスとアグラウロスの二女

 ヘルセー:ケクロプスとアグラウロスの三女

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る