第37話 ポセイドンのアッティカ侵攻

 アッティカ半島とは、エーゲ海に突き出ている逆三角形状の半島で、その領域こそが、女神アテナが治める<アッティカ地方>である。

 その南西はサロニコス湾、西はイストモス地峡、北はキタイローン山麓、北東がエウボイア地方との境界である。さらに、サロニコス湾南のアルゴリア半島の沿岸都市トロイゼンは、対岸のアッティカ地方の飛び地になっている。

 アッティカ地方の南西に位置する<サロニコス湾>、この東北の角には、ピレウスという港町があり、湾の西北の角にはイストモス地峡がある。

 アッティカ地方の西端にあたる<イストモス地峡>、この「イストモス」とは、普通名詞で「首」の意味なのだが、この名称が意味しているように、イストモス地峡の地形は、首を横に倒したように、水域に挟まれた細長い形状をしていて、イストモス地峡は、東のアッティカ半島と、西のアルゴリア半島を結んでいる陸の要衝となっている。

 アッティカ地方北西の<キタイローン>は、全長約九百スタディオン(現在の度量衡で十六キロメートル:一スタディオンは一七八メートル)の山麓地帯で、その山々は石灰岩でできており、その最北端にパストラ山が聳え立っている。

 このキタイローンは、ボイオーティア地方とアッティカ地方の自然境界となっていた。すなわち、テッサリア地方から陸路でアッティカ地方に至るためには、このキタイローンの山々を越えなければならず、そのため、アッティカ地方の防御の上で、この山岳地帯の守護は重要であった。そういった理由もあって、キタイローンの防御は、ヘパイストスの神友である酒神ディオニュソスが担っていたのだった。

 すなわち、アテナの封土であるアッティカ地方は、防護という点においては、海や山という自然の要害、さらには、強き神の守護によって、西方に関しては堅固さを誇っていた。

 半島であるアッティカ地方は、南部に関しては、西部と同様に、エーゲ海が自然境界になっており、堅固だったのだが、東部方面に関しては、アッティカ地方の北東は、ポセイドンの領地である<エウボイア地方>の北西と隣接し、アッティカ地方の南東は、<ペタリオン湾>を間に挟んで、<エウボイア地方>の南西と近接していた。

 アテナの父である天空神ゼウスの次兄である海神ポセイドンは、生来、貪欲で精力旺盛な男神であった。その貪欲さは、領土的野心として変奏されることもあれば、女神や女妖精に対する執着心として表われることもあった。今回は、隣接したアッティカ地方と、姪の美しきアテナ、その両方をポセイドンが欲しているのは明らかで、アテナの後見である、パーンとヘパイストスは、東部方面に対して強い警戒心を抱かざるを得なかったのである。

 そんな矢先に、海神ポセイドンは、突如、ペタリオン湾の海底に宮殿を建造し、さらに、アッティカ地方の西方の高台、<アクロポリス>に向けて、三叉の矛を投擲し、アッティカ地方の領有を主張してきたのだ。

 こうした蛮行と一方的な宣言によって、ポセイドンに対するアッティカの神々の警戒心は否が応にも高まっていた。

 まず、もの作りの神であるヘパイストスは、アテナに直接手ほどきを施して、アッティカの土を捏ねさせて、十二人の<人間>を作り出させた。それから、アッティカ地方を十二に分割し、領土の運営は完全に<人>任せにし、自分たち神々が、ポセイドンの対策に全力を注げるようにした。 

 それから、パーンとヘパイストスは、ペタリオン湾の海底宮殿からのポセイドン軍の攻撃に備えるため、半島東部の沿岸を固めた。その一方で、女神アテナに関しては、勝利の女神ニケを伴わせ、半島の最南端に位置している<スニオン岬>にその御身を移し、アテナを戦線からは遠ざけさせたのだった。


 アッティカ地方の南西部の端に位置しているのが<サロニコス湾>である。その湾を挟んで、アッティカ半島の南に在るのがアルゴリア半島で、そのアルゴリア半島の沿岸に築かれた都市トロイゼンは、アッティカ地方の飛び地として、アテナの領地の一部となっていた。

 このトロイゼンの警護の任についていたのが、アテナが作り出した十二人の一人であるヒッポリュトスであった。

 このヒッポリュトスが、日課として、トロイゼンのサロニコス湾沿岸を、アテナより賜った銀の戦車で走っていた、まさにその時であった。

 海から地響きが起こったかと思うと、海面が二つに割れ、海の中から、巨大な牡牛に牽かれた黄金の戦車が現れたのだ。

 ヒッポリュトスの銀の戦車を牽いていた馬は、巨牛の姿を目にして、すっかり恐慌状態に陥って、暴れまくった。車上のヒッポリュトスは平衡を保っていられなくなり、戦車から地面へと落下してしまった。

 ヒッポリュトスは、片手を手綱に絡めていたため、そのまま、自らの銀の戦車によって、引きずり回された。そして、手綱が断ち切れたことによって、ようやく、苦痛から解放されたのも束の間、瀕死状態のヒッポリュトスは、暴走した馬の蹄で踏みつぶされてしまった。

 巨牛に牽かれた黄金の馬車から降りた海神ポセイドンの眷属は、地面に伏していたヒッポリュトスの身体を、爪先で軽く蹴り上げ、体を反転させると、仰向けになったヒッポリュトスの肉体を何度も蹴ってみた。

 ヒッポリュトスはぴくりとも動かなかった。

 沿岸都市トロイゼンの守護役が事切れているのを確認すると、海神ポセイドンの配下は、アッティカ地方の飛び地である、このトロイゼンに、ポセイドン神殿を急造したのだった。


 トロイゼンの陥落は、守護役ヒッポリュトスの死亡のため、アッティカ本土には即座に伝わらなかった。そのため、スニオン岬のアテナとニケが、エーゲ海方面に対して無警戒だったのは、致し方ない事かもしれない。

 スニオン岬のアテナの神殿には、その世話役である女神ニケを始めとし、女神や女妖精、そして、アテナが作った人間の女性だけが神殿につめており、後見のパーンとヘパイストス以外の男神は、完全にアテナから遠ざけられていた。

 それは、ある日海から突然に、であった。

 海面に浮上した、白馬によって牽引された黄金の戦車数台が、スニオン岬の沖合を半円形に取り囲んだのだ。

 そうして横列に並んだ黄金の戦車の中から、ひときわ豪奢な装飾が施された一台の戦車が進み出てきた。

 海神ポセイドンであった。

 ポセイドンは、三叉の矛の先で海面を突いた。その打突によって海面は揺れ、振動は波となって、スニオン岬の沿岸にまで達した。

「うむ、もう少し強く突いてみようか。案外、力加減が難しいわ。まったく、スニオンを完全に破壊してしまったら、その後の都市の復興が手間になるし、それより、アテナちゃんを傷つけるわけにもいかんしな」


 ポセイドンの一撃目の直後、スニオンの神殿にいたアテナの全身に震えが走った。

 アテナの神殿は、スニオン岬の沿岸ではなく、その内陸部の高台に在ったのだが、即座に襲ってきた第二撃目の大波は、スニオンの沿岸部を水浸しにし、さらに、アテナ神殿にまで達っした。

 オリュンポスの神器の一つ、三叉の矛<トライデント>を、単眼の三巨人キュクロペスと協力して制作したのは、アテナの後見である鍛冶の神ヘパイストスであった。ティタノ・マキアにも参加していた勝利の女神ニケは、ポセイドンの力も、その神器の威力も十分に知っていた。そして、それより何より、勝利の女神としての直観が、現状ではポセイドンに、絶対に勝てない事を告げていたのだ。

「あなた達、各自、即座にお逃げなさいっ! 各々ばらばらでかまいません。取りも直さず、先ずは、めいめい、己の身のことだけを考えるのです。落ち着いたら、ここから北西のアクロポリスに集まりなさいっ!」

 ニケは、うろたえて判断力が麻痺してしまっていたアテナ神殿の女神や妖精、人の女達に、スニオンのアテナ神殿を捨てて、即時避難するように指示すると、彼女達は、取る物も取り敢えず、四方八方に駆け出していった。

 これで、よい。わたくしが全員の身を守れるわけでもないし、自分の身は自分で守って欲しい。わたくしは……。

 ニケが念じると、その背から翼が生えた。そして、ニケは、アテナの身体を抱えると、翼を羽ばたかせて、神殿の上空に飛び出していった。


 上空に現れた影を認めたポセイドンは、小型の三叉矛を手に取って、それを影に向かって投じた。矛が確実に命中したのを肉眼で視認したのだが、影は落下することなく、そのまま西北に向かって飛び続け、その姿を消していった。

「取り逃がしたか。また機会は訪れよう」

 そして、スニオン岬に上陸したポセイドンは、ここにもまた、ポセイドン神殿を建造させた。

 海底宮殿のペタリオン湾、三叉矛が突き刺さったアクロポリス、トロイゼンとスニオンのポセイドン神殿、このように、四つ角を抑えられて、アッティカ地方は、ポセイドンの勢力に取り囲まれるようになってしまったのだった。

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