第35話 アテナのための山羊皮の盾<アイギス>

「これが、わが娘のアテナである」

 主神ゼウスは、虜囚の立場から解放したばかりのアテナを、正式にオリュンポスの神々の前で披露した。

 アテナの姿を目にするや否や、広間に集いし神々の間でどよめきが起こった。たしかに、アテナは、成熟した女神ではなく、未成熟な少女神であったのだが、それにもかかわらず、というか、むしろ、それ故にこそ、花咲く前の蕾の状態しか持ちえない美しさが、このうら若き女神の魅力を際立たせていた。さらに、その儚げな少女神が鎧を身に着けており、その<武装した乙女>という落差もまた、アテナの魅力を倍増させるのに一役買っていた。

 そして――

 その御披露目以降、世界各地の神々から、ゼウスの許にアテナとの結婚の申し込みが次々に舞い込んできた。しかし、アテナは求婚の全てを拒絶した。そのため、ゼウスは、アテナを政略結婚させる件はいったん保留にし、アテナを、彼女を閉じ込めていた塔が位置していたアッティカ地方に封じることにした。そして、神として未熟なこの少女神の後見役として、山羊の半獣神パーンと、炎と鍛冶の神ヘパイストスが付くことになった。これは、パーンとヘパイストスたっての希望であった。

 アテナは、主神ゼウスの長子として、済まさなければならない事案を幾つも抱えていたため、しばらくの間、オリュンポスに留まらなければならず、そのため、後見役のパーンとヘパイストスは、領地運営の準備のために、一足先にアッティカ地方に向かって出発することになった。アテナは、なんとか事務的な手続きを全て終えると、アッティカに赴任する前の最後の仕事として、冥界と大海に赴き、ゼウスの兄であるハーデスとポセイドンに挨拶する事になった。その挨拶回りの際、アテナは、ゼウスから、次兄ポセイドンへの書状を託されたのだった。


 アテナから書簡を渡されたポセイドンは、アテナが目の前にいるにもかかわらず、気が早ってか、封を強引に手で破り裂くと、取り出した手紙に目を通し始めた。

 内容は、思った通りに、<銀の足のテティス>に関する事であった。

 ポセイドンは、テティスに求婚し続けていた。だが、テティスからは既に何度も拒絶されていた。それにもかかわらず、どうしても、ポセイドンは、テティスのことを諦め切れなかった。今、テティスが、叔母にして神友であるエウリュノメー、ゼウスの第三の妻となった彼の女神と共に、オリュンポスに滞在している事を知ったポセイドンは、ゼウスに、テティスとの間を何とか取り持ってくれないか、と頼んでいたのだった。

 手紙を読み始めた時には、喜色を浮かべていたポセイドンの顔が、読み進めてゆくうちに次第次第に曇ってゆき、読み終えた時には、ポセイドンは、力が抜け落ちてしまったかのように、椅子の背凭れに身体を預けて、ダラリと両腕が下がって、ポセイドンの掌からは手紙がするり地面に落ちてゆき、アテナの視界に紙面の文字が飛び込んできた。

 その内容は、ゼウスの前妻である掟の女神テミスが下した神託で、ポセイドンが、テティスと結婚した場合、ポセイドンとテティスの間に誕生する子が、ポセイドンを海の覇者の地位から追い落とす、というものであった。

 オリュンポスの神々、クロノスとレイアの子供達にとって、子が父を倒すという神託ほど恐るべき事柄はない。祖父ウラノスは父クロノスに倒され、父クロノスは自分たちオリュンポスの兄弟に倒されたからだ。子が父を倒すという運命、こう言ってよければ、ウラノスの呪われた血の宿命から、自分達だけは免れられている、と考えるほどには、ゼウスも、ポセイドンも楽観的ではなかった。

 神託が下ったからには、テティスのことは諦めざるを得ない、

 落胆した、そんなポセイドンの虚ろな目に、ゼウスの使者である、姪のアテナの姿が入ってきて、ポセイドンは目を見張って、アテナの頭の上から足の先まで、まじまじと舐めるように眺めてみた。

 改めて見ると、類稀なる美少女だ。

 アテナの膨らみ始めた蕾のような胸や、露出した太腿に視線を注いだ瞬間、ポセイドンは、欲望を抑えることができなくなって、己の男根を屹立させていた。

 ポセイドンが、謁見の間に控えていた側近に目配せをすると、海神の部下は皆、まったく音を立てずに部屋から消え去っていった。

 そして、ただ——

 扉の錠が落ちる音だけが一つ、静寂の中で鳴り響いた。


 アッティカ地方に先に到着していたパーンとヘパイストスは訝しんでいた。

 ハーデスとポセイドンの許を訪れた後で、アテナが、アッティカに到着するというゼウスからの先触れがあったからだ。

 迎えの者を遣るかという話が、アテナの後見の二柱の神の間で交わされたその夜の事である。作業中のヘパイストスの鍛冶場の扉がゆっくりと開き、そこから、アテナが入ってきた。

 アテナの髪は乱れに乱れ、素肌の露出箇所は青黒くなっており、顔はひどく腫れ上がっていた。

 そんなアテナの姿を見たヘパイストスは、驚きのあまり、手にしていた金槌を取り落としてしまった。

 心身ともにボロボロになっているかのように見えたアテナの動揺は大きく深く、ヘパイストスは、彼女の身体を羊毛で出来た布で包み、暖かい飲み物を飲ませた。そうして、アテナを落ち着かせている間に、ヘパイストスは、自ら、パーンを呼びに行った。そして、後見役の二柱の神は、愛娘と言ってもよいアテナが話せる状態になるのを、ただひたすらに待った。そして、言葉は途切れ途切れであったが、アテナは、ポセイドンの所で何が起こったかを、ゆっくりと語り出した。

 ヘパイストスは、手を強く握り締めたあまり、掌に爪が食い込み、ぐっと噛み締めた口の端からは血が大地に零れ落ちていった。

 そして、語っている間に——

 アテナの性器から溢れ出た白く濁った液体が、太腿を伝って流れ、彼女の膝の上で止まった。それに気付いたアテナは、何かを思い出したのか、半狂乱になって、肩に掛けていた羊毛の布で、その白い液体を乱暴に拭き取ると、羊毛の布を地面に投げつけた。布は、ちょうどヘパイストスの足下に落ち、ヘパイストスの血と、羊毛が吸い込んだ白濁液が混ざり合って、そこから、人面蛇身の半獣神の赤子が生まれ出た。

「見たかパーン、俺の血から生まれたのを。だから、この子は俺とアテナの子だ。断じて他の神の子ではない。この子は、<エリクトニオス>と名付け、面倒は、この俺、ヘパイストスがみよう。しかし、他の者、特に、ポセイドンに知られるわけにはいかないな」

 そう言ったヘパイストスは、即座に、神性を帯びた籠を作り、蛇の半獣神の赤子を、そっとその中に入れて蓋を閉めた。

「乳母役の女も必要では?」

 パーンがそう言うと、ヘパイストスは、世界各地から集めていた土の中から、良質なものを選んで、人間の女を作り出した。ヘパイストスは、かつて「パンドラ」という名の人間の女を作ったことがあったので、その経験がここで活きた。ヘパイストスは、その人の女を、<アグラウロス>と名付け、エリクトニオスを、気を付けて育てるようにその人間の女に命じた。


 それから、ヘパイストスは、愛しいアテナが、今後、いかなる男神によっても汚される事がないようにするために、この女神専用の防具を作ることにした。

 アテナの貞操を守り切るためには、どのような材料を使って、いかなる防具にするべきか、それが問題だ。そう考えあぐねていたヘパイストスに、パーンの提案が答えをもたらした。

「ヘパイストスよ、アテナのために、この俺の皮を使ってくれ」

 パーンは、二足歩行の人形から、山羊の半獣神という元の姿に戻ると、物作りの神に己が身を差し出した。

 ギリシア世界では、山羊の皮は、女性の貞操を守る力を秘めていると考えられており、時には、山羊の皮を材料に貞操帯が作られることさえあった。普通の山羊の皮でさえ処女の護符たり得るのだ。山羊の半獣神パーンの皮を使った防具が帯びる事になる、女性への加護の力はいかほどのものになることだろう。

 ヘパイストスは、一つ頷くと、何も言わず小刀を取り出し、神友の皮剥ぎ作業に取り掛かった。

 痛みがないはずはない。だが、パーンは、目を閉じたまま、苦痛の声を全くあげることなく、ヘパイストスの為すがままになり、ほどなくして、パーンの山羊の肉体から皮が綺麗に剥ぎ取られた。

 ヘパイストスは、自分が何かを作成する時には、誰であれ作業場に留まる事を許さず、独り集中して物作りに没頭するのが常であった。しかし、今回は、防具の材料となったパーンと、防具を身に着けることになるアテナに、自分の作業を見守るように頼んだ。たしかに、単なる気持ちの問題かもしれないが、材料の主、使い手、作り手、この三者が同一の空間に存在することによる<三位一体>の力によって、至高の防具が創り出せるように、ヘパイストスには思えてならなかったのだ。

 そして遂に、ヘパイストスは、己の技術の全てを注ぎ込んだ、アテナのための防具を完成させた。それは、皮の盾で、ヘパイストスは、これを<アイギス>と名付けた。

「ア……テ…………ナ………………、<ア……イ…………ギ…………ス>を、胸に……付けてみなさい………………」

 盾を完成させるために、精も魂も使い果たしてしまったヘパイストスは、息も絶え絶えであったが、なんとか気力を振り絞って、アテナ専用の盾の説明を始めた。

 この皮の盾を常に胸に装着させておくように、ヘパイストスはアテナに指示を出した。

 アイギスを胸に着けた瞬間、皮の盾の四方八方から、硬い皮が伸びて、肉体の急所の全てを覆った。もちろん、その伸びた山羊の皮は、アテナの生殖器さえも覆って、この皮の盾は、単なる防具ではなく、女性の下半身を守る貞操帯の役目も果たすようになっていた。 

 そしてさらに、皮の盾の表面には、意匠が刻まれており、それは、髪の毛が蛇となっている女神であった。たとえばもし、アテナに欲情を抱いた男神がいるとして、その形の良い乳房に視線を注いだ場合、胸に装着された盾の表面に刻まれた蛇の女神と、目と目が合うことになる。その瞬間、視線の主の肉体を石化させてしまうという能力を、この盾の蛇神は有していた。ヘパイストスは、この盾表面の蛇髪の女神を<ゴルゴン>と名付けることにしたのだった。

 すなわち、<アイギス>には、美しく、うら若きアテナの貞操を守り抜くための様々な仕掛けが為されており、これは、 大海の支配者である海神ポセイドンにも、そして、いかなる男神にも、二度と大切なアテナを汚させたりはしない、というパーンとヘパイストスの強い意志の表われであった。

 そして、アイギスの説明を終えるや、ヘパイストスはそのまま気を失って、数日間、意識を取り戻す事はなかった。


 ヘパイストスが疲労のために深い眠りに陥っている間に、一つの事件が起こった。

 アッティカ地方の領海を、その支配地の一部としていたポセイドンが、突然、陸地たるアッティカ地方の領有までも主張してきたのだ。

 もちろん、これは、明らかな言い掛かりで、その実、アテナを我が物にせんとするポセイドンの下心は完全に見え透いており、とてもではないが、そんな暴論など、アテナも、この少女神の後見であるパーンにも飲めるような話ではなかった。

 かくして、アテナとポセイドンは、アッティカ地方の領有を巡って、否、アテナ自身の身を巡って、一触即発の状況に陥ってしまっていた。

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