第34話 オリュンポスのオケアニデス

「お久しゅうございます、お姉さま方」

 久方ぶりにオリュンポス山に帰還したメティスは、前夫である主神ゼウスの許に赴く前に、姉のエウリュノメーと、姪のテティスが現在暮らしているステュクスの館を訪れた。


 メティスは、三千名にも及ぶオケアノスとテテュスの娘である<オケアニデス(単数形オケアニス)>の末の娘である。

 そして、テティスの母であるドリスと、エウリュノメーは、メティスにとっては、歳が離れた姉にあたる。なるほど確かに、血縁関係から言うと、ドリスの娘であるテティスは、メティスにとっては姪にあたるのだが、エウリュノメーと同じ年頃のテティスは、メティスにとっては年長者の親類縁者であり、そのため、オケアノス一族の中でも最も年若きメティスは、姉のエウリュノメーのみならず、年長者である姪のテティスのこともまた、姉のように慕っていたのである。

 海と河川の姫神であるオケアニデスの中では、エウリュノメーとメティス以外では、長子であるステュクスが、オリュンポスの神々に名を連ねていた。

 ステュクスとその息子と娘達、男神ゼロス(栄光)、女神ニケ(勝利)、男神クラトス(力)、女神ビアー(暴力)は、ティターン神族との戦いである<ティタノ・マキア>の折に、ティターン神族でありながらも、オリュンポス側に与した一番最初の一族であった。

 <勝利と栄光>のステュクスの一族、四柱のステュクスの子供達はすぐさま、ゼウスの親衛隊として登用され、そして、一族の長であるステュクスには、ティターンとの戦いに勝利した暁には、ある特権が与えられる事が約束されていた。その権限こそが、<神々の誓い>である。

 オリュンポスの神々が、何らかの誓言をする際には、<水>へと変化させたステュクスの肉体の一部を飲む事になっている。これによって、ステュクスを体内に取り込んだ神は偽誓ができなくなる。結果、誓いをたてた神は、いかなる神であれ、主神ゼウスでさえ、嘘をつけなくなり、自らが誓った言葉に背いた場合、体内のステュクスの水が毒薬となり、強制的に一年間の仮死状態に陥って、<冥界>に連行され、そこで捕囚となるのだ。しかも、仮死状態が解けた後でさえ、九年間はオリュンポスを出禁になり、十年目にようやく、罪を完全に許されるという厳罰が課される。つまるところ、ステュクスには、神々に対する<最高裁>としての特別な地位が、ティターンとの戦いが終わった後に与えられたのであった(第一部第十六話)。

 つまり、ステュクスが自分の一部を変化させた<水>は、神々さえも強制的に支配できる特別な力が宿っており、自らの誓いに背いた場合、<水>は毒となったのだが、反対に、誓約を守り続ける限りにおいて、ステュクス一族の<勝利と栄光>の力が付与されるような<神水>となったのである。かくのごとく、海・河川の妖精であるオケアニデスには、自らの肉体を<水>に変化させ、その<水>には、それぞれのオケアニスごとに様々な力が付与されていたのだ。

 <神々の誓い>の地位に就いたステュクスは、もともとの自分の領地であった<冥界の川>に<神誓所>を置いた。その冥界の川は長大で、地下世界である冥界の周りを七重に取り巻いて流れており、このステュクスの川こそが、<生者>の領域である<地上>と、<死者>の領域である地下世界、すなわち<冥界>の境界となった。そして、ティタノ・マキアの後、ハーデスが<冥界>を統べる事になった際に、ステュクスもまた、<冥界の川>に戻る事になり、そのため、オリュンポスに、もはやオケアニデスの長女の姿はなかった。

 ゼウスの親衛隊であるステュクスの子供達は、主神の傍に控えている事が多く、また、既にそれぞれ独立していたため、ステュクスがオリュンポスを不在の間、ステュクスの妹であるエウュノメーと、姪であるテティスが、ステュクスの館の留守を守る事になり、そこをメティスが訪れたのだった。


 カリス三姉妹を連れたエウリュノメーが、テティスを伴って、王宮の謁見の間に入室すると、そこには、親衛隊を下がらせたゼウスだけが玉座にて女神達を待っていた。

 エウリュノメーは、主神ゼウスへの奉納品として、飲料物を献上した。

 海と河川、<水>の妖精であるオケアニデスが製造する飲料物は、美味であるだけではなく、オケアニスごとに様々な力が付与され、たとえば、美しきエウリュノメーが作る飲料物には<美>が備わっていた。

 エウリュノメーからの贈品を手にするや、その飲み物から香気が漂ってきて、ゼウスの鼻腔を擽り、主神は無意識に唾を飲み込んでいた。

「香りは馥郁(ふくいく)にして、芳烈(ほうれつ)」

 そして、もはや我慢できなくなったゼウスは、渡された小瓶の中身を一気に飲み干してしまった。刹那、口の中に旨味が拡がっていった。

「さらに、味は芳醇(ほうじゅん)なり」

 しかし――

 数瞬後、ゼウスは激しい頭痛を覚え、両手で頭を抱え出した。激痛のあまり、ゼウスは床を何度も転げ回る程であった。

 のたうち回ったゼウスは、頭が割れるような痛みのせいで、口の端からは涎の糸をたらし、ついには、自らの頭を床に打ち付け始めた。

 苦しみ続けるゼウスの様子を見ながら、エウリュノメーは、何事も起こっていないかのように、淡々と言葉を発した。

「ゼウスさまに、お願いしたき儀があるのです」

「お、お前の言う事は、な、何でも訊く。きくから、この痛みを何とかしてくれえええぇぇぇ~~~」

「私の子供達を、ゼウスさまの子として認知していただきたいのです」

「わ、わがっだ。我が子として認め、そなたは、我が正室としよう」

 求めていたのは、愛する子供達を主神の子として認知してもらうことだけで、自らが正妻の座に就くことまでは求めていなかった。だが、ゼウスは誓いを口にしてしまった。そのため、ゼウスの言の葉は力を帯び、エウリュノメーは、ゼウスの第三の妻となってしまった。

 未だ頭蓋の内部からの突きさすような痛みは残ってはいるものの、痛みが多少やわらいだゼウスは、エウリュノメーに問うた。

「いったい何を飲ませたのだ?」

「<オケアニス>の水」です。

 そう、エウリュノメーは応じた。

 ゼウスは頭頂部に雷撃を受けたようになってしまった。

 ま、まさか、オケアニデスの筆頭たるステュクスの水なのか? 今さっき、エウリュノメーの言う事は何でも応じると言葉にしてしまった。口にしたのがステュクスの水ならば、神誓を破った場合、主神である俺ですら、一年の仮死状態になってしまう。

「もう一つ<だけ>、わたくしたち、オケアニデスからお願いしたい事があります」

「……」

「わたくしたちの末の妹で、ゼウスさまの最初の妃であったメティス、そのメティスの子、囚われの子を解放していただきたいのです。我が姪は女神、ゼウスさまが危惧するような男神ではありません」 

「わ、わかった。メティスの子を許そう」

 かくして、ゼウスの言の葉は神誓となった。 

「よ、余が、ついさっき取り込んだステュクスの水には、主神たる余とて抗うことができないからな」

「あ、あの……。ゼウスさま。わたくしが献上した<オケアノスの水>は、ステュクスのものではありません」

「な、なんですとおおおぉぉぉ~~~」

「それは、メティスの水です。我が妹は決意したのです。自身の肉体の十割を<水>に化身させ、その身を捧げる事によって、男児を産む可能性を完全に無くし、さらに、ゼウスさまの一部になる事によって、自らの<思慮>の力をゼウスさまに与える事に、我が妹は決めたのです」

「で、では、あの激痛は?」

「<思慮>を司るのは頭です。なので、頭痛はメティスの力を取り込むための副作用だと思われます。いずれにせよ、姪の解放を許していただき、オケアノス一族を代表して御礼を申し上げます」

 ゼウスに礼を述べるエウリュノメーに付き添っていたテティスが、天井に向かって声を発した。

「ヘパイスストス、ゼウス様は許してくださいましたっ!」

 すると――

 激しい衝動と共に、主神の宮殿の天井に亀裂が走った。

 そして、ヘパイストスノの斧の更なる一撃によって、天井に隙間が生じ、そこから、一柱の女神がゼウスの謁見の間に飛び込んできた。

 その女神は、背が高く、灰色の目をした乙女で、兜と鎧で完全武装をしており、手にした槍を天に向けて振りかざしていた。

 かの女神こそが、メティスが我が身と引き換えにして解放を懇願せんとした愛娘、ゼウスの第一子である、<知恵と戦い>の女神アテナであった。



<付録>「オケアノスの娘達(オケアニデス<単数形オケアニス>)」

 凡例:「_:夫婦」「|:親子」「―:姉妹」


オケアノス___テテュス(ティターン神族第一世代の兄妹の夫婦神)

      |     

<オケアニデス>:ステュクス―ドリス―エウリュノメ―メティス

         |       |     |     |

 ゼロス―ニケ―クラトス―ビア テティス  カリス   アテナ  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る