第33話 金の足のエウリュノメーと三美神カリス
ある日、ヘパイストスが、二柱の女神を伴って、主神の謁見の間に姿を現した。
「ゼウス様、こちらの女神様方は、私の育ての親です。赤子の頃、エーゲ海で溺れかかっている所を助け、育ててくださったのが、こちらの方々なのです。緑玉に金のアンクレットの方がエウリュノメー様で、蒼玉に銀の方がテティス様です」
二柱の女神が胸に着けている、オリュンポスにも存在しないほど大きく、眩い光輝を放つ美しき宝石は、彼女達の養い子で、<鍛冶>の神であるヘパイストスが、養母の為に手ずから製作し、彼女達に贈ったものであった。だが、こうした宝石を身に着けた女神達の美しさは、宝石以上のもので、謁見の間に集ったオリュンポスの神々も、ゼウスさえも、その目を奪われ、嘆息を漏らしていた。
緑玉を胸に、足に金のアンクレットを着けているエウリュノメーは、ティターン神族第一世代、オケアノスとテテュスという兄妹の夫婦神の娘達、オケアニデス(単数形オケアニス)の一柱で、ゼウスの最初の妻であったメティスの姉に当たる。エウリュノメーは、人と魚の半獣神で、その尾にヘパイストスから贈られた金の装飾具を身に着けていたのだが、人形に変化する際には、それを足に装着していたので、<金の足のエウリュノメー>と呼ばれていた。
元々、エウリュノメーは、蛇神オピオネウスの妻であった。オピオネウスは、ゼウス達、オリュンポスの神々が到来するよりも遥か以前に、オリュンポスを支配していた。
かつて、オリュンポスの最初の支配者であったオピオネウスと、オトリュス山に本拠地を置き、ティターン神族を率いていたクロノスの間で、<天>の象徴であるオリュンポスの領有を巡って、戦いが起こりかけた事があった。その際、この諍いを大規模な神間戦争に発展させないために、クロノスの兄にして、蛇神オピオネウスの義父である<大洋>の神オケアノスが仲裁に入リ、ギリシアの最高峰であるオリュンポスの山頂にて、オピオネウスとクロノスの間でレスリングをして、雌雄を決することになった。闘いは、オピオネウスをエーゲ海に突き落としたクロノスの勝利に終わり、かくして、ティターンが<天>の支配権を手に入れる事と相成った。
敗れた蛇神オピオネウスとエウリュノメーの夫婦神は、オリュンポスを追放され、エーゲ海で暮らす事になった。しかし、後に、オピオネウスとエウリュノメーは離縁し、蛇神オピオネウスは、跡取りである子供達を連れて深海の奥深くへと去り、エウリュノメーは、独りエーゲ海に取り残されてしまった。
そんなエウリュノメーの孤独を救った女神こそがテティスであった。
蒼玉を胸に着けている方の女神テティスは、ネレウスとドリスの五十柱の娘達、<ネレイデス(単数形ネレイス)>の一柱である。テティスもまた、人と魚の半獣神で、その尾には、養い子のヘパイストスから贈られた銀の装飾具を絶えず身に着けていたのだが、陸に上がり、人形に変化する際には、その銀の装飾具を、アンクレットとして装着したので、この女神は、<銀の足のテティス>と呼ばれていた。
テティスの父ネレウスは、ポントス(荒海)とガイア(大地)の息子で、ネレウスは、エウリュノメーやメティスの姉である、オケアニスのドリスを妻としていた。
オケアノスとポントスの一族は、同じように海を司る一族で、婚姻などを通して、両一族は深く結び付いており、つまり、<オケアニデス>のエウリュノメーと、<ネレイス>の テティスは叔母と姪の関係にあったのだが、エウリュノメーとテティスは年齢も近く、実に馬が合った。オケアノス一族の主島で何度か顔を合わせているうちに、この二柱の女神達の友好はますます深まって、ついには、エーゲ海で共に暮らし始める事になった。
そんなある日の事である。
この二柱の女神は、オリュンポスの山頂から投げ捨てられた、とある赤子をエーゲ海から救い出し、この子をレムノス島にまで連れて行き、育てる事になった。この神童ヘパイストスは、レムノス島で物作りに没頭し、ヘパイストスは、長じて、<炎と鍛冶>の神となった(第一部第十五話)。
それから九年の月日が流れ去ったある日、山羊の半獣神パーンが、ヘパイストスを、オリュンポス側に勧誘するために、レムノス島を訪れた。ヘパイストスはオリュンポスに与する為に島を旅立つ事になり、先のティタノ・マキアでは、様々な武器や武具を製作する事によって、オリュンポスの勝利に貢献したのだった。
ティターンとの戦いが終わり、状況が落ち着いてしばらく経ってからようやく、金の足のエウリュピデーと、銀の足のテティスは、養い子のヘパイストスに面会するためにオリュンポス山を訪れた。
エウリュノメーにとっては、元の夫であるオピオネウスと共に追放されて以来のオリュンポス山への訪問で、一方、海の一族出身の人魚のテティスは、山を訪れる事自体が初めての経験で、そのため、主神ゼウスへの挨拶を早々に済ませて、久方ぶりに会ったヘパイストスと共に、オリュンポスの物見遊山に出掛けたくて、気もそぞろになっていた。
ゼウスの方も、主神になってからというもの、毎日毎日、世界の各地からオリュンポスを訪れる八百万の神々の謁見に、少々飽き飽きしていた。そのため、ヘパイストスの義母との顔負わせも早々に終わらせたく思っていた。
だが――
金の足のエウリュノメーと銀の足のテティスと顔を合わせた瞬間、ゼウスの倦怠感は一瞬で吹き飛んでしまった。
御二方とも、どんぴしゃだ……。いつまでも、一緒にいたい。
そんなゼウスの表情の変化を見て、察した親衛隊の一柱が、ゼウスに耳打ちした。
「蒼玉の方の女神様……、えっと、<銀足>の御方はお止しになった方がよろしいかと存じます。銀の足のテティス様は、兄様、海神ポセイドン様が懸想しているとの噂が……。テティス様は、ポセイドン様の求婚を断ったそうなのですが、海神様は未だ諦め切れてはいないそうです。万が一、ゼウス様とテティス殿との間に何かがあった場合、御兄弟の間で諍いが起こる可能性さえあります。恋愛感情のもつれとは、御兄弟の<悌>の感情を簡単に打ち砕きかねないものなのです」
「あいや、分かった。諫言、痛み入る。そうだな、初めて出会った女神の事で、今、兄者ポセイドンと争うのはオリュンポスの為にはならん。銀の足のテティス殿の方は……心の奥底に閉じ込めておくことにしよう」
そう言いながら、ゼウスは、金の足のエウリュピデーの姿を端目で捉え続けていた。
美しき二柱の海の女神達、テティスの方は諦めざるを得ないとして、そうなると、エウリュノメーの方は、是が非でも我が物としたい……。だが、彼女達の養い子であるヘパイストスが――
邪魔だ。
エウリュピデーもテティスも、養い子と離れ難いのか、なかなかエーゲ海に帰らずにいた。
親子水入らずの楽しき日々が続いた、そんなある日、オリュンポスの巡検使を務めているパーンが、アッティカ地方の視察に赴く事になり、その同行者として、ヘパイストスが選ばれた。以前から、アッティカ地方を訪れたいと念じていた鍛冶の神は、その指令を快諾し、しばらくの間、オリュンポスを留守にする事になった。これは、海の女神達のエーゲ海への帰還の好機だったのだが、主神ゼウスの懇願もあって、養い子のオリュンポス不在の間、二柱の海の女神は、オリュンポスに留まる事にし、ヘパイストスの帰りを待つ事になった。
二柱の海の女神がオリュンポス山で留守居をしていたある日のこと、銀の足のテティスは、人魚という元の形に戻る事によって神気を養うために、エーゲ海に戻らざるを得なくなり、一時的にエーゲ海に戻っていった。
オリュンポス山に独り残ったエウリュノメーは、ヘパイストスの館で、かつて、夫である蛇神オピオネウスと過ごした日々に思いを馳せていた。
金の足のエウリュノメーは、背後に気配を感じ、振り返ると、そこには――
虚ろなゼウスの姿が揺らぎながら立っていた。
「ゼウス様……、どうやって館の中に? ヘパイストスの仕掛けで、容易に入る事ができないようになっていたはずなのですが……」
「<雷>に変化し、隙間から侵入した」
「一体どうして?」
「余は、そなたに惹かれている。抱きたい。抱かせろ」
「しかし、ゼウス様、あなたには、掟の神テミスという奥様が」
「テミス、つ、妻は……、子育てに掛かりきりで、余の事を全く構ってくれないのだ」
「で、でも……」
「余は寂しいのだ」
そう言ったゼウスは、雷の朧な姿から完全に実体化すると、エウリュノメーの左頬に右手で触れた。
肌を触れられた瞬間、エウリュノメーの身体は硬直してしまった。
養い子であるヘパイストスを除くと、男神に触れられたのは、前夫オピオネウスと離縁して以来、一度もなかったことであった。ゼウスの手に触れられた瞬間、膝の力が抜け、ゼウスの分厚い胸に、エウリュノメーは顔を埋め、完全に身を委ねてしまった。
い、いけない……ことと分かっているのに……。
そして――
ゼウスとエウリュノメーは肉体を重ね合った。
目くるめく情事は、テティスが戻ってくるまで毎夜続いたのだった。
銀の足のテティスは、オリュンポス山に戻るや否や、神友であるエウリュノメーの変化に気が付き、事情を問い質した。詰め寄られたエウリュノメーは、ゼウスとの関係全てをテティスに告白した。そして、既に主神の子を孕んでいる事も。
テティスは、神友の身を深く案じた。もしも、ゼウスの子が男児の場合、それは、神託にあったゼウスに反旗を翻す子になる可能性があるからだ。海の神ネレウスの娘達である<ネレイデス>は、父から予言の能力を引き継いでいた。そこで、ネレイスであるテティスは、エウリュノメーに対して予言の能力を駆使した。
降りてきた予言によれば、エウリュノメーの子は女児だと出て、テティスは留飲を下げた。だがしかし、メティスの子は女児でありながらアッティカ地方に幽閉されたという。たとえ、女神だとしても、その無事は保証できかねない。なんとかして、神友とその子を守らなければならない。
妙案が浮かばないうちに、エウリュノメーは臨月を迎え、かの神は、三つ子の姉妹を産み落とし、娘達は、タリア、エウプロシュネ、そして、アグライアーと名付けられた。
タリアは、<盛り>の女神で、花の盛りと豊かさを司る力を帯びた。
エウプロシュネは、<喜び>の女神で、祝祭を司る力を帯びた。
アグライアーは、<輝き>の女神で、典雅と優美さを司る力を帯びた。
美しき水の女神エウリュノメーが産んだ三姉妹は、非常に美しき童女神で、<カリス>と呼ばれる事になり、成長した暁には、<愛と美と優雅さ>を司る三美神となる運命にあった。
カリスの眼差しに見詰められた男神は、その四肢を萎えさせる、そのようなな眼力がカリス三姉妹には備わっていた。
このような神力を備えている女神の存在を、オリュンポス山の中で隠し通せるべくもなく、金の足のエウリュノメーと銀の足のテティスは、主神ゼウスに呼び出された。
ついに意を決し、エウリュノメーとテティスが、カリスの三姉妹を連れて、ゼウスの謁見の間に伺候せんとちょうどその矢先、エウリュノメーの許を訪れた女神がいた。
それは――
エウリュノメーの末の妹で、<思慮と計略>の女神メティス、すなわち、ゼウスの最初の妻であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます