第32話 掟の女神テミスとホライ・モイライ三姉妹

 横で、胸を上下させながら、軽い寝息を立てているゼウスの寝顔をしばらく見詰めた続けた後で、裸身のテミスは衣類を身に付けた。そして、ゼウスを目覚めさせないように注意を払いながら、テミスは、眠っている男神を独り残して、微かな衣擦れの音をさせながら、ゼウスの許を後にしていった。

 ゼウスと男と女の関係になるつもりはなかったのに……。


 ティターン第一世代に属するテミスは、ウラノス(天空)とガイア(大地)の娘で、クロノスの息子であるゼウスとは伯母と甥の間柄にある。そもそも、ガイアからデルポイの大地と神託所の管理を譲渡された掟の女神テミスが、オリュンポスを訪れたのは、オリュンポスにための神託を下す事と引き換えに、オリュンポスに間諜として入り込んでいた、イアぺトス一族のプロメテウスの減刑を嘆願するためであった。

 テミスはイアペトスとは離縁し、絶縁状態にあるものの、プロメテウスは、イアペトスとの間に儲けたテミスの実の息子であった。

 そのプロメテウスは、オリュンポスの神々の逆鱗に触れ、世界の東端カウカソスの山頂で極刑を受けている。せめて、愛息プロメテウスの奈落行きだけは阻止せんと、主神ゼウスの求めに応じるままに、テミスは、オリュンポスの為に神託を下し続けているのである。

 この夜も、掟の神テミスは、下された神託を告げる為に、ゼウスの私室を訪れていた。


 しばらく前に、ゼウスの妻であったメティスは、夫ゼウスに何も告げずに、オリュンポスから姿を消していた。

 それは、テミスがゼウスに対し、息子によってその玉座を脅かされる事になる、という神託を告げた事に端を発している。

 この神託内容を知ったメティスは、男児を産む可能性を無くす為に、自ら身を引いて、オリュンポスを去ったのだ。この事によって、ゼウスの男児誕生という問題は先送りにされた。

 そう、されたのだが、子が父の玉座を奪うといウラノスやクロノスの運命、自らの祖父と父が辿った末路が、ゼウスの脳裏にこびりつき、剥がれなくなってしまった。その自らの血の運命に対するゼウスの無意識で無自覚の恐怖は、いつの間にか、自分の子に対する疑念へと変化し、そのゼウスの不安は、娘の幽閉という形で具体化してしまったのだった。

 このように、ゼウスは、娘アテナさえもオリュンポス山から遠ざけた。だがしかし、この事によってゼウスの心か安定した訳では決して無い。己が不安を軽減するために、自ら決断を下したにもかかわらず、娘をアッティカ地方に追放してしまった事によって、ますます、ゼウスは、妻メティスに去られた悲しみと、娘アテナに対する罪の意識に苛まれるようになってしまったのだった。

 掟の女神テミスは、そんなゼウスの悲しげな姿や、孤独な主神の苦しげな様子を見ているうちに、たまらない気持ちになり、一瞬、甥であるゼウスと息子プロメテウスの姿が重なってしまった。

 いけない……。

 神託内容を告げ終えたテミスが、軽く頭を左右に振って、ゼウスの許を足早に去ろうと、扉に向かわんとした時、テミスは、突然、手首をゼウスに掴まれた。

「テミス、か、帰らないで欲しい。今夜は、余を独りにしないでくれ」

 ゼウスの指先から、手首の薄皮を通して伝わってくる孤独の深さに、テミスの心が揺らぎ、此の夜、ついに——

 ゼウスとテミスは、男と女の関係になってしまった。


 翌日——

 両腕一杯の花束を抱えたゼウスが、テミスの私室を訪れた。

「そ、その……、順番は逆になってしまったのだが……、余の、余の妃になってくれないだろうか? 余には、余を支えてくれる女神が必要らしい」

 かくして、掟の女神テミスは、ゼウスの二番目の妻となった。

 

 そして、ほどなくして、テミスは子を産んだ。最初の関係で、懐妊してしまっていたのだ。

 そのゼウスとテミスの最初の子等は三つ子の女神で、上から、エウノミア(秩序)、ディケ(正義)、そしてエレイネ(平和)と名付けられた。この三姉妹は、母である掟の女神の性質を色濃く受け継いでいた。

 また、三姉妹は、大自然の秩序を司る能力を持って生まれていた。

 すなわち、自然に働きかけ、ある期間、気温を変化・維持させることができた。たとえば、気温が低い寒い時期が続いた後で、今度は徐々に気温を引き上げ、暖かい時期に移行させ、その過渡期を経て、太陽を激しく照りつかせる事によって、暑い時期を作り、それから、徐々に気温を下げる事によって、再び、寒い時期に移行させるのだ。そして、このような周期的な〈時間〉に関する秩序維持を、この三姉妹が分担することになった。

 この巡ってゆく周期的な時間は、季節と命名され、そして、この三姉妹はホライ(単数形はホラ)と呼ばれることになった。

 その後、テミスは再び懐妊し、かの女神は、また、三つ子の女神を産んだ。

 誕生した赤子は、また女児ばかりだった。

 実は、これは、テミスが男児を妊娠しないように、ゼウスと交わう日を占っていたからである。

 テミスが受けた神託とは、ゼウスの子が男児の場合、その子が父に対して反旗を翻し、玉座を奪わんとする、というもので、この神託は、ゼウスの最初の妻であったメティスにのみ当てはまるものではなく、実の所、今現在、ゼウスの妻になっているテミス自身にも適用されるものであったのだ。

 だから、テミスは、男児を産まないために、自身に対する占いをし、ゼウスと床を共にする日を決めた。その結果として、女神ばかりの三姉妹を二度産む事と相成ったのだった。

 そして、テミスは、二度目の三つ子の女神を、クロト(運命の糸を紡ぐ女)、ラケシス(糸の長さを割り当てる女)、そして、アトロポス(糸を断つ女)と名付けた。

 これまでの神々の歴史において、神は己の姿に似せて、ティターンは、〈黄金〉の種族、オリュンポスは、〈白銀〉の種族という〈人間〉を創造していた。しかし、ティターンとオリュンポスの間で勃発した神間戦争、ティタノ・マキアにおいて、〈黄金〉も〈白銀〉も人類は絶滅してしまった。その後、ティターンのイアペトス一族が、大西洋に浮かぶアトランティス大陸にて、〈青銅〉の種族という人を生み出したという。実は、オリュンポスも、〈白銀〉以来の新たな人を創造することを計画していたのだが、それは未だ実行されてはいなかった。

 もし仮に、オリュンポスが創造する新たな人類が地上に出現した際に、その人種の運命をテミスの娘が司る予定になる、という神託が下った。そのため、人の運命の糸を操る彼女たち三姉妹は、モイライ(単数形はモイラ)と呼ばれる事になった。

 モイライは、クロトが、人類全体の運命の糸を紡ぎ、ラケシスが、個々人ごとに長さを割り当て、それを、アトロポスが断ち切るという役割分担が既に決まっていた。だがしかし、オリュンポスは未だ新たな人間を誕生させていなかったので、それまでの間、モイライ三姉妹は、糸紡ぎと機織りに従事しながら、父ゼウスが、新人類を誕生させるのを待つことになったのだった。

 かくして、掟の女神テミスは、〈季節〉の女神ホライ三姉妹と、〈運命〉の女神モイライ三姉妹という、二組の三つ子、六柱の幼き女神の子育てで手一杯になってしまった。


 しかし——

 テミスが六柱の神童の子育てに奔走している最中、二つの問題が生じてしまった。

 一つは、メティスに引き続き、テミスを妻とし、女を知ってしまった精力絶倫のゼウスは、テミスに放っておかれている間に、ついに性欲を我慢できなくなって、他の女神と浮気をしてしまったのだ。

 そして、もう一つが——

 ゼウスの前妻メティスのオリュンポス帰還であった。

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