第2部 オリュンポス十二神

第4章 アテナイ・マキア:ポセイドンとアテナ

第31話 思慮と助言の女神メティスと女神アテナ

 天と地を支配し、世界を統べる新たな王となったゼウスは、ティターンとの戦いが終わってすぐに、オリュンポス軍の作戦参謀を務めていた一柱の神を自室に呼び寄せた。

 ゼウスの兄姉達を吐き出させた作戦を立案したのは、この思慮と智略の神で、その後のティタノ・マキアにおける作戦のほとんどを考案したのも、このオリュンポスの頭脳たる女神メティスであった。

 ゼウスの私室に入室したメティスは、終戦したばかりのティターンとの戦いの戦後処理に関して、ゼウスから何らかの意見を求められるのではないか、と考え、オリュンポスの主神から放たれるであろう質問内容をあらかじめ予測して、それに対する応答の何通りかを、ゼウスから声が掛かるのを待っている間に頭の中で反芻していた。

 だが、新王ゼウスは、何か質問をするでもなく、ただ黙ったまま、部屋に呼び出したメティスの前を、何度も何度も行ったり来たりを繰り返しているだけであった。

 そして、メティスが、十度目の模擬的な質疑応答を始めようとした時、ついに、ゼウスは意を決したのか、その往復の歩みを止めて、メティスの真正面に立つと、ようやく重い口を開いたのであった。

「メ、メティス」

「はい、ゼウス様」

 しかし、女神の名を口にしただけで、ゼウスの口は再び重くなってしまった。

「えっと……だな、我々が出会ってから、いったい何年になるかな?」

「ゼウス様が、御兄姉様たちをお救いなられた前に、パーンを伴って、オケアノスの浮島を訪れた際の事ですから、十二年になるかと思います」

「もう、そんなになるか……。あの頃はお互いに若かったな。いや、幼かったな」

 それから、二柱の神は、オケアノスの浮島での幼き日の出来事(第一部第八話)や、クロノスに催吐剤を飲ませて、ゼウスの兄姉達を吐き出させた事(第一部第九話)といった昔話に花を咲かせながら、一頻り笑い合った。

 言葉を一つ一つ交わし合ってゆくに連れて、ゼウスとメティスもいつの間にか、王と参謀の間の口調ではなく、幼馴染の打ち解けた軽口に戻っていた。

「そうそう、あの頃、パーンは女に目覚めてしまって、毎日のように出掛けて、オケアノスも姫神達を追いかけ回してたんだよな」

「あれ〜〜、ゼウス様は、パーンと一緒に、ナンパには行かなかったんですかぁ?」

「馬鹿な事を申すな。ナンパになど一度も行っとらんわっ!」

「ほんとですのぉ? 私のお姉さま達は皆、美姫ぞろいですわよ。気になる精霊とかは、おりませんでしたの?」

「心に決めたオケアノスの姫神がいたから、パーンの誘いは断固拒否していたんだ」

「そうなのですの? ゼウス様の目に留まった姫神っていったい、どのお姉様かしら?」

「「……」」

 ゼウスもメティスも、そのまましばらく押し黙ってしまった。だが、ゼウスは、机の上に置いてあった青銅製の板を手に取ると、それを、何も言わずに、そのままメティスに手渡した。

 メティスは、頭の上に疑問符を浮かべながら、板を受け取った。

「その板を顔の正面に向けてくれ」

 メティスは、ゼウスの言う通りにした。その青銅製の板は、よく磨かれており、鏡の如く、表面にはメティスの顔が映し出されていた。

「俺が心に決めた女神は、その板の中にいる……」

 えっ! それって……。

「メティス、俺は、この十二年、ずっと、お前に思いを寄せていた」

 思わず、メティスは、口元に両手を当てた。青銅の板は床に落ち、板が何度か跳ねる音が部屋中に響き渡った。

「あのな……、今になって言うのも、その……、なんだけど……」

 ゼウスは、メティスをその胸に優しく抱き寄せると、指で、メティスの顎をくいっと上げて、その目を間近からじっと見詰めた。

「一目惚れだった」

「わ、わたしも……」

 そして、ゼウスは、メティスの身体を今度は力強く抱き寄せて、口付けした。

「オリュンポスの男は強引なんだぜ」

 そう言って、ゼウスはもう一度メティスに口付けすると、そのまま、メティスを寝床に押し倒した。


 ゼウスの私室の扉の前で、部屋の中の様子を伺っていたパーンは、腕を組んだまま天井を仰ぎ見た。

 ゼウスさま、メティスさん、お幸せに……。そして、さらば、俺の初恋。

 心の中だけでそう独白すると、パーンは、山羊の蹄の音を立てないように、人の姿に変化して、その場から音もなく立ち去っていったのだった。


 かくして、神々の中で、並ぶべき者ない賢き神、思慮と智略の女神メティスは、ゼウスの妻となった。

 それから程なくして、メティスは出産し、その子は、アテナと名付けられ、そのゼウスの長子である女神の教育係には、ステュクスの娘たる勝利の女神ニケが就くことになった。

 パーンとヘパイストスは、用事をでっちあげては、幼きアテネに会いにきていた。パーンは山羊の背にアテナを乗せ、ヘパイストスなど、アテナのために幼児用の武器や武具を作ってきた程であった。

 しかし、ある日のことである。

 とある神託が、掟の女神テミスよって下された。

 ゼウスと、メティスの間には、並外れて賢い子供達が生まれる定めにある。だが、その中の猛き男神は、気性が荒く悪知恵が働く、との事であった。そしていつしか、その荒神が、ゼウスに対して反旗を翻すのではないか、とオリュンポスで噂されるようなっていた。

 この噂が立った時、メティスは、クレタ島のガイアとレイアから、ゼウスと決して男女の中にならないように忠告された事を、今更ながら思い出した。いや、愛しい夫ゼウスと可愛い娘アテナに囲まれた生活が幸せ過ぎて、思い出さないように、記憶に蓋をしていたのだ。

 だがしかし——

 メティスは、赤子のアテナだけを残してオリュンポスから姿を消した。

 ゼウスとの間に男児さえ誕生しなければ、ゼウスが、その玉座を息子に奪われる恐れは生じない、自分さえゼウスの前から消えればよい、とメティスは考えたのだ。

 しかし、である。

 それは、ゼウスが愛しい娘アテナをあやしていた時のことである。父は娘と戯れ、レスリングに興じていた。

 ゼウスは、幼女アテナに投げ飛ばされ、地に組み伏されてしまったのだ。

 周りにいたゼウス親衛隊の面々は、その父と娘が組んず解れつしてい様子を微笑ましく眺め、王ゼウスが天を見上げている姿を見て声を上げて笑っていた。

 たが——

 ゼウスだけが顔面を蒼白にさせていた。

 幼女ながらにして、恐るべき膂力と鋭敏な戦闘感覚、もしかしたら、自分を陥れる神託の子とは、このアテナかもしれない……。

 祖父ウラノスは父クロノスによって去勢され、追放された。その父クロノスも、このゼウスによって肉体を分断され、封印された。かくのごとく、ウラノスの一族は、呪われし血脈なのだ。どうして、自分だけが、血の運命から免れられると、楽観的に考えることができようか!? いつか、我が子がこのオリュンポスの玉座を、このゼウスから奪うかもしれない。

 グルグル回るゼウスの思考は堂々巡りのどツボに入り込んでしまった。テミスの神託は、ゼウスとメティスとの間に生まれる男児が荒神というものに過ぎなかったのに、いつのまにか、自分の子に玉座が奪われるという内容にすり替わってしまっていた。

「クラトス、ビアー」

 ゼウスは、二柱の親衛隊の神を呼びつけ、この力を司る神々に何か耳打ちした。指示を与えられたクラトスとビアーの顔色は、刹那の一瞬だけ変じたのだが、すぐに冷静さを取り戻し、親衛隊の神々は、アテナを連れて、王に前から辞したのだった。

 その後——

 アテナの姿はオリュンポスから消えた。


 アッティカ地方の中心部に位置する小高い丘の上に、一棟の塔が聳え立っていた。アッティカ随一の高き丘の上に立ち、さらなる高さを誇るその建物は、「ゼウスの身体」と呼ばれていた。

 ある夜、ステュクスの子である勝利の女神ニケに先導され、その塔の螺旋階段を登る神がいた。

 塔の内部では、ニケが立てる二つの足音とは異なる拍子の不規則な四つの足音が反響していた。

「ここでございます、パーンさま」

 「ゼウスの身体」の一番上に位置しているその部屋は、「ゼウスの頭」と呼ばれており、いわば、その口とも言い得る扉を空け、ニケは、敷居を越えて、そのまま部屋に入って行った。

 「ゼウスの頭」の内部には、一柱の女神が座していた。

 奇怪な事に、その女神は、兜を被っていた。その兜は頭だけはなく、顔全体をすっぽりと覆う仮面にもなっていて、女神の顔は伺い知れないようになっていた。

 パーンは、ニケの後を追って、「ゼウスの頭」に入ろうとしたが、出入口には結界が張られてあるらしく、〈許可の石〉の所持者で、仮面の女神の世話役のニケ以外の部屋への出入りはできないようになっているようだった。

「その扉から入れないのならば、別の入り口を作ればよいだけさ」

 そう言った鍛治の神ヘパイストスは、パーンの背中から飛び降りると、斧を右肩に担ぎ、足を引き摺りながら、「ゼウスの頭」の、いわば頬に当たる壁を、いきなり斧で叩き始めた。

「あれ、やっぱ、かったいな」

 数度叩いてみたものの、壁には傷一つ付けることはできなかった。

「さて、どうしたものかな?」

 ヘパイストスは、両腕を組んだまま、首を横に倒して、考えあぐねてしまった。

「天井を打ち破るってのはいかがであろうか? さすがに、無理か、ハハハ」

 パーンは冗談混じりに、ヘパイストスにそう提案した。

「その考え、いただきっ!」

 この二柱の神は、塔の屋根の上にあがり、ヘパイストスは、その最頂部、いわば「ゼウスに頭蓋骨」に全力で、斧を振り下ろした。

 物体が無駄なく割ける時にだけ立つ綺麗な音が鳴って、「ゼウスの頭蓋骨」は真っ二つに割れた。

 その裂け目から、「ゼウスの頭」の中に、満月から放たれた藍白き一筋の光線が差し込んできた。そして光と同時に、屋根の裂け目から、塔に囚われていた女神に向けて差し出されたのがパーンの右腕であった。

 囚われの女神は天井を仰ぎ見た。

「お、おじさま……」

「さあ、おいで、アテナ、一緒に行こう。まずは『頭蓋骨』を出て、この満月の藍き月明かりの下、夜に散歩でもしないかね?」

 そう言ったパーンに向けて、アテナは手を伸ばした。その手をパーンは強く握り締めたのであった。

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