第16話 <栄光と勝利>のステュクス一族

「ゼウスさま、あのさ……」

 パーンがゼウスの耳元で何かを囁こうとした時、お産を終えたばかりのヘラがゼウス達の所に戻ってきた。

 ヘラが、産み落としたはずの赤子を連れていなかったので、パーン以外の男神達は、ちょっと訝しんだ。疑問を口にしようとしたハーデスを制するかのように、先にヘラが口を開いた。

「申し訳ありません、ゼウス、わたくし独りの力では、うまく子を産むことができませんでした」

(うっわぁぁぁぁぁぁ、「うまく子を産むことができませんでした」って、たしかに嘘じゃないけれど、よく、しれっと言えたもんだよね、あんた、今さっき、そのうまく産めなかった我が子を、エーゲ海に投げ捨てたよね?)

「そうですか……、子を産めなかったのですね……。ヘラ姉さま、まずは、ゆっくりと身体を癒してください」

 ゼウスは、ヘラの言を、ただ単に子を産む事に失敗した、と解釈したらしい。

 デメテルと共にヘラがその場を離れた後で、残った男神達は、輪になって小声で今後の対策を講じ始めた。


 知恵と計略の女神メティスを交えて、男神達の議論は続いた。その間、デメテルとヘラは炉と化したヘスティアの周りで、議論には加わることなく、歌い踊って過ごしていた。 

 しかし解決策を見出せないまま、議論は踊り、数日が経過した、そんなある日のことである。

「オケアノスさまは、たしかに、ティターンに味方しないという点において、消極的な意味で我々に味方してくれている。とはいえども、現実問題、実際の戦力、数の問題はどうにもならんがな」

 そうポセイドンが声高に言った。

「結局、対ティターンにおける戦力増強に関しては、何らかの手段を講ずるしかないのだが、パーン、何か妙案はないものかな?」

「う~~~ん、とりま、女神様に子を産んでもらうって方法以外がよいかもね。今ここには、デメテルさまとヘラさま、そしてメティスさんしか女神様はいないけど、さ」

「ところで、メティス、あなたに、何かいけ……」

「しっ、ゼウスさま、ちょっと静かに」

 突然、パーンがゼウスの言葉を遮った。

 ゼウスをはじめ、神々には何も聞こえなかったのだが、狩猟の神としてのパーンの鋭敏な聴覚は、斜面を登ってくる幾つかの微かな足音を捉えていたのだ。

 その足音の主達が山頂まで達するには、もうしばらく時間がかかりそうだった。

 そこで、ゼウス達は警戒態勢をとり、パーンは斥候として山端まですばやく移動した。

 そこからパーンは千里眼を使って、登ってくる対象を確認し、即座にゼウス達の許に戻ってきた。

「ゼウスさま、たしかに、この肉眼で視認しました。ステュクスと、その眷属達です」

 パーンは指で自分の目を指しながら報告したのだった。


 ステュクスは、王クロノスの兄姉、長兄オケアノスと、六姉テテュスの夫婦神の長女で、クロノスの姪であった。

 長男の長子であるステュクスは、いわば、ティターン神族第二世代の長たる存在であり、そのステュクスの夫として選ばれたのがパラスであった。

 パラスは、クロノスの兄、三兄のクレイオスと、ポントス(荒海)とガイア(大地)の娘エウュリュビアーの三男、アストライオス、ペルセスの弟で、ステュクスとはかなり歳が離れていた。

 とまれ、ステュクスとパラスは従姉弟婚をし、かくして、ティターンの血の濃きこの夫婦は強き神々を次々と誕生させていった。

 そのステュクスとパラスの子達こそが、男神ゼロス(栄光)、女神ニケ(勝利)、男神クラトス(力)、女神ビアー(暴力)といった二柱の男神、二柱の女神達である。

 長男ゼロスは、激情家で熱意溢れる男神であった。かの神は、常に他者に対する競争心や対抗心を抱いており、とにかく勝負好きな神で、勝利に飢え、それがもたらす栄光を欲していた。ゼロスは、母ステュクスや弟妹達からは「ジール」あるいは「ゼル」と呼ばれていた。

 この勝負好きの兄「ゼル」や、ステュクス一族に勝利をもたらすために、ゼルの弟と妹達は常に奔走していた。

 翼はためかせて、長女である有翼のニケが、文字通り勝利のために飛び回り、主として知略の面で一族に貢献していた。彼女こそが、ステュクス一族の勝利の女神であった。

 そして、次男である力強き神クラトスと、二女で末の子であるビアーは、実働面で一族に貢献していた。クラトスは<力>の男神で、ビアーが<暴力>の女神である。

 これらステュクス一族の四兄弟姉妹の中でも、最も暴力的かつ好戦的で、さらに、最も武勇に秀でていた最強の神こそが、恐れ知らずの勇敢な、末の子の女神ビアーである。

 音に聞こえたステュクス一族の兄と妹、特にクラトスとビアーの姿を戦いの場で見かけた瞬間、ほとんどの神は、勝利をあきらめ、背を向けて一目散に逃げ出すほどであった。

 かくして、ゼロス、ニケ、クラトス、ビアー達、兄弟姉妹が一致団結して、ステュクス一族に、数々の勝利と栄光をもたらしてきたのである。

 これら、勝利と栄光のステュクスの一族に対抗できる神々がいるとしたら、それは、<夜>の一族ニュクスの一派、エリスの眷属達だけであった。

 これまでの神々の歴史の中で、ステュクスとエリスの眷属達は、一族同士としては正面切って戦うことはなかった。しかしながら、ステュクスの<勝利>の一族は<冥界の川>に拠点を構え、これに対して、ニュクスの一族に属するエリスの<不和と争い>の一族は、<冥界の門>に拠点を構えていたのだ。このように、拠点の近接性ゆえに、個神的、あるいは、小規模集団としては、ステュクスとエリスの両者の一族の間で、小競り合いが途絶えることはなかったのである。


 王クロノスからオトリュス山への招集が掛かった際には、父オケアノスからの指示の下、神々の歴史上初の神間戦争では、どちらの側にも戦力を提供せず、中立・不戦の立場をとることがオケアノス一族の基本姿勢とされ、ステュクスとその眷属達もまた、クロノス王の招集には応じず、冥界の川に留まっていた。

 そこに、夫パラスの母であるエウュリュビアー経由で、オトリュス山での会談の内容が伝わってきたのである。

「エリス一族が先陣の栄誉」

 今回のティターンとオリュンポスとの神間戦争において、エリュスの眷属が<黄金の種族>の人間を率いて一番槍を担うことになったらしいのだ。

 この報告によって、ステュクスを初め、一族全員の顔色が変わり、冥界の川は騒然とした。

 もしも、神間戦争においてエリスの眷属が功名を上げた場合、その恩賞として領土の拡張、可能性として、エリスの眷属の領土と接している冥界の川、すなわち、ステュクス一族の領土が侵害される可能性だって皆無ではない。

 ステュクス一族の話し合いは徐々に高揚してゆき、自分達の権利は自分達の一族で守ろうという意見が優勢になっていった。

 熱くなり過ぎた議論をパラスが収めようとしたのだが、「あなた(親父)<お父さん>は黙っていなさい(いろよ)<いてよ>」という妻や子供達、特に娘達からの一喝で、夫や父たるパラスの言は封じ込められてしまった。姉さん女房のステュクスに、歳が離れた夫のパラスは完全に尻に敷かれ、娘達にもパラスはなかなか意見できなかったのである。

 つまるところ、エリス一族のやることなすこと何もかもがステュクス一族の者達には気に入らないのだ。エリスがティターン神族側の先陣として戦場に立つのならば、自分達は、オリュンポスに味方して、エリス一族と戦おう、これを機会にエリスの眷属を打ち負かしてしまおう、という意見が、ステュクス一族の趨勢になり、エリス一族憎しの念から、オリュンポス神族側として参戦するということで一族の意見がまとまった。

 結果、神間戦争では傍観せよ、という河川の神々の長オケアノスからの指令は何処かに置きやられてしまった。

 ステュクス一族としての意見がまとまった以上、善は急げである。オリュンポスの中で、ステュクス一族の地位を固めるためには、他の神々に先んじてオリュンポスの味方を表明する必要があるし、それより何より、他のいかなる一族にも、エリス一族と戦う権利を譲るわけにはいかない。

 これが、ティターン神族の重鎮であった、オケアノスの長女たるステュクスが、一族郎党を率いて、オリュンポス山を登っている、その理由であった。


 最初にオリュンポスの山頂に達したのは、ステュクスの二人息子、ゼロスとクラトス、それに続いたのが二人娘のニケとビアー、そして、最後に現れたのが一族の長、<冥界の川>の女神ステュクスで、これら五柱の神々を、オリュンポスの五柱の神々は慇懃な態度で出迎えた。

 そして、オリュンポスの神々の後から、一人の女神がステュクスの前に進み出てきた。

「ステュクスお姉さま、お久しゅうございます」

「ええ、メティス、あなたも変わりなく? まさか、あなたと、ここで再会することになるとは思ってもみなかったわ。オケアノスの島を出奔したと聞いて、大変、心配していたのよ」

 かくして、オリュンポスの山頂で、オケアノスの長子ステュクスと末子メティスは再会することになった。

 メティスは、ステュクスがオケアノスの許を出てから生まれた妹で、歳は親と子ほど離れており、年齢的には、ステュクスの子達と同じ世代に属していた。そのため、ステュクスは、メティスを姉と言うよりも伯母のように接し、この歳が離れた妹を猫可愛がりしていたのだった。

 そのメティスを、血筋的には甥と姪に当たるステュクスの子供達が懐かし気に取り囲んでいた。

 ゼウスは、ステュクス一族の歓待役を、同じオケアノス一族のメティスに任せることにした。顔見知りの者が仲介に入った方が、話が円滑に進むと判断したからだ。

 ステュクス一族とメティス達が昔話に花を咲かせ、場の雰囲気が和らいだ所で、タイミングをみて、メティスがゼウスを呼び込んだ。

「お姉さま、御紹介したします。ゼウスさま」

 最後方から現れたゼウスの姿を目にした瞬間、ステュクスの眷属達、五柱の神々は我知らず跪いていた。

(現王クロノスにも匹敵するカリスマ性、神格が桁違いだわ)

 ステュクスはそう思った。

「ステュクスさま、顔を上げ、お立ちください。このたびは、我々、オリュンポスへの御尽力、まことに忝く存じます。ところで、夫君の姿が見当たりませんが?」

 ゼウスは、ステュクスの夫パラスの姿が見止められないことを訝しんでいた。

「パラスとは離縁いたしました」

 ステュクスは、今回の神間戦争で、オリュンポスに味方することを一族の意思として表明するために、夫をその実家に返すことによって、二心なしであることを示さんとしたようであった。

 ゼウスは、このステュクスの断固たる決意にいたく感心した。それから、ティターン神族との戦いにおける勝利後の恩賞に関する交渉を始めた。

「ステュクスさま、戦いの後、あなたには、<神々の誓い>としての地位を与えることを、ここに約束いたします」

 ゼウスの兄姉たち、そしてステュクスの子供達、両方がざわついた。

 <神々の誓い>とは、たとえば、オリュンポスの神々がゼウスの前で何らかの誓言をする前に、まずステュクスの水を飲む。誓いを立てる神々は、ステュクスの水をその体内に入れるため、決して嘘をつくことができなくなる。そして、仮に、誓いを立てた神が、その言に逆らう事があるのならば、それは即座にステュクスの知る所となり、その神は強制的に一年間の仮死状態に陥り、冥界に閉じ込められる。そしてさらに、仮死状態から解けた後も、その後の九年の間、オリュンポスの庇護下から外され、オリュンポスの追放者となる。そして、十年を経てようやく、誓言に背いた罪を許されるという厳罰なのだ。

 つまり、神々に対する<最高裁>としての、神々を支配する特別な権限をステュクスに与えるというのだ。

「そして、眷属の方々には、わたくし、オリュンポスの長たる、このゼウスの親衛隊になっていただきます」

 ゼウスは、ティターンから、最初にオリュンポス側に参戦したステュクス一族に対して、最大限の厚遇をもって報いることにしたのだった。

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