第15話 <炎と鍛冶>の神ヘパイストスの誕生

 ヘラは、自分独りで産み落とした赤子を目にした瞬間、その美しき顔を、我知らず大きく歪めてしまっていた。

「あ、あまりにも醜過ぎる……」

 その紅き口から漏れ出たヘラの呟きは、お産に同行していたデメテルの耳にも届いていた。

 デメテルが、妹ヘラとその赤子に目を向けると、ヘラは、まるで汚い物でも触るかのように、両手で小さな足首を握ると、赤子をおもむろに持ち上げた。

 そして――

 デメテルが制止する間もなく、ヘラは、自らの身体を大きく捻転させると、赤子をオリュンポスの山頂から、東方に向かって思い切り放り投げたのだ。

 ヘラに投げ出された赤子は、大きな放物線を描きながら、オリュンポスの東に位置するエーゲ海の方に飛んでいった。

「よしっ! それでは、デメテルお姉さま、ゼウス達の所に戻りましょうか」

 埃でも振り落とすように、両手を二度軽く叩いた後で、まるで何事もなかったかのように言葉を口にしたヘラに対し、デメテルは口を両手で押さえながら、何も言葉にできぬまま、驚愕の眼差しを向けていた。

「ところで、お姉さま、お分かりですよね?」

 糸のように細められたヘラの両目を見たデメテルは、声を発さないまま、素早い動きで何度も何度も首を縦に振っていた。


「うっわぁぁぁぁぁ~~~~」

 このヘラの行いを、デメテル以外に目にしていた者がいた。それは、山羊の半獣神のパーンであった。

 狩猟の神でもあるパーンは、他の神よりも優れた視力を有していた。パーンは、その能力を使って、完全な興味本位から、ヘラの出産を覗き見していたのだ。だが、まさか、ヘラが産んだばかりの赤子を放り出す場面を目撃することになるとは思ってもみなかった。ゼウスだけではなく、ハーデスもポセイドンも、ヘラの暴挙に気付いた様子はなく、パーンが、ゼウスに耳打ちしようとした矢先に、ヘラとデメテルが戻ってきた。

 ヘラの姿を目にした瞬間、パーンの身が震えた。

「こ、こわっ、怖いよ、あのひと……」

 パーンはゼウスに告げようとしていた言葉を引っ込めざるを得なくなってしまった。

 

 この世に誕生したばかりの赤子は、母である女神ヘラに、いきなりエーゲ海に投げ捨てられてしまった。天空で大きな放物線を描いた後、赤子は、海面に衝突せんとした瞬間、その身体を捻って、頭から落下することだけはどうにか避けた。しかし、水面とぶつかった際の衝撃の強さのため、赤子の両足は粉々に砕けてしまった。

 骨折した神の赤子の両足は、即座に再生し始めたものの、海面下にあって、その足は曲がったままの状態で戻ってしまい、そのままの形状で定着してしまった。そのため、赤子はうまく泳ぐことができず、その身体は海の底に沈まんとしていた。

 その赤子を、仄暗い水の底から救い上げた手があった。

 それは、テティスという名の海の妖精の手であった。


 現王クロノスの一番上の兄オケアノス(大洋)と、姉テテュスの兄妹の夫婦神の娘たる河川の娘達、オケアニデス(単数形オケアニス)の一人であるドリスは、ポントス(荒海)とガイア(大地)の息子であるネレウスと結婚し、この夫婦は、五十人の海のニュムペー(単数形ニュムパイ)をもうけていた。美しき緑の黒髪を誇るドリスは、容貌もまた美しき水の妖精だったのだが、ネレウスとドリスの娘達であるネレイデス(単数形ネレイス)も皆、誰もが母ドリスに似て美しく、ネレイデスは、人と魚の半獣神、人魚達であった。そして、そのネレイデスの中でも、最も眉目秀麗なネレイスこそがテティスであった。

 テティスの母であるドリスには、歳が離れたエウリュノメーという妹がいた。

 エウリュノメーとテティスは、たしかに叔母と姪の関係にあったのだが、この二柱の水の妖精は歳が近く、また、大変に性格が合って、しばしば連れ立ってエーゲ海を散策していたものだった。そして、この日もまた、いつものように、一緒にエーゲ海を遊泳していた際に、オリュンポス山の方から投げ出された何かが、海面に落ちるのを偶然目撃した。

 テティスは、人魚の下半身を捻って方向を転ずると、その落下地点にまで全力で泳いでいった。それから、水底へと潜っていったテティスが目にしたのが、海の藻屑になりつつあった赤子であったのだ。

 テティスは赤子を救い上げると、後から合流したエウリュノメーと共に、落下地点から泳いで一日の距離に位置しているエーゲ海北部の島、レムノス島にまで赤子を連れて行った。

 二柱の水の半獣の女神は、魚の下半身を二足歩行可能な人の形に変化させると、レムノス島に上陸し、島の中央部で、神のみに許されていた力を使って<火>を起こし、一日中、水に浸かっていたせいで、すっかり冷え切り、体温を低下させていた赤子の身体を温めた。

 <火>によって身体が温まった赤子の顔は、徐々に赤みを取り戻していった。

 それから、赤子の看護に掛かりきりになった女神達は、島の住民たるシンティエスの民を呼び寄せ、赤子のために食事を持ってこさせたのだった。 

 神たる赤子は、健康を取り戻すと同時に、身体も成長してゆき、その体調が回復した時には、四肢もすっかり少年のそれにまで成長していた。しかし、水面に衝突した際に粉砕骨折した両足は曲がったままで、その神童は歩こうとした途端、大地に倒れ伏してしまった。歪んだ少年の顔の真ん中に位置している両目には涙が滲んでいた。

 生みの母であるヘラの暴挙の原因となったその容貌は、神童に成長しても、相変わらず醜いままであった。

 しかし、その少年を救った二柱のうち、エウリュノメーは、少年の髪を優しく撫でながら、彼をその胸に抱き寄せた。

「よいのです。泣きたいだけ、この胸でお泣きなさい。わたくしが、あなたの母となりましょう」


 オケアノスの娘エウリュノメーは、かつて、蛇神オピオネウスに嫁ぎ、この蛇神こそが、最初のオリュンポスの支配者であった。

 かつて、オピオネウスは、世界の支配をもくろむクロノス王に従おうとしなかったため、クロノスは、オピオネウスに一対一の闘いを挑んだ。

 戦闘の内容は至極単純な力比べで、オリュンポスの山頂を土俵にして、その頂から相手を落とした方が勝ちというものであった。

 結果はクロノスの勝利であった。

 戦いに敗れた、オピオネウスとエウリュノメー夫婦はオリュンポスから追放された。

 この夫婦神の間には蛇の半獣半神の子がいたのだが、エーゲ海に逃れた後、オピオネウスとエウリュノメーは離別することになった。そして、その子を連れてオピオネウスは海の奥底の何処かへと消えて行った。

 それ以来、エウリュノメーは、別れた夫とも、自分の子とも会ってはいない。

 エウリュノメー叔母さまは、この子に自分の子を重ねているのかもしれない。

 テティスは、固く抱き合うエウリュノメーと神童を眺めながら、ふと、そんな思いを抱いていた。


 少年の体調が完全に回復すると、エウリュノメーとテティスは、起こした<火>の周囲に炉を築き、そこがレムノス島の中心たる島の神殿になった。

 足が不自由な神童は、自由に歩くのが難儀であったため、神殿の炉の側から離れることはなく、いつしか、その炉で物作りに勤しむようになっていた。

 その神童は「ヘパイストス」と名付けられた。「ヘパイストス」とは、「炉」あるいは「燃やす」という意味で、まさしく、この若き神の日常の行動を体現した名であった。

 そうして、ヘパイストスは、<炎>と<鍛冶>の神としての属性を纏うようになり、日がな一日、炉の側で制作に打ち込むヘパイストスは、日に日に鍛冶の技能を上達させていった。

 ヘパイストスは、次々と様々な武具を制作し、時には、育ての母達のために、宝石を加工することもあった。

 そうして、エウリュノメーとテティスの庇護の下、レムノス島でのヘパイストスの制作の月日は、瞬く間に九年が流れ去っていた。


 だがしかし――

 レムノス島でのヘパイストスの日々は、唐突に終わりを告げた。

 それは、山羊の半獣半神が島に姿を現した日のことであった。その半獣神は自らを「パーン」と名乗った後で、こう言った。

「ヘパイストスですね? 我々、オリュンポスのために、ティターンを打倒可能な武具を創っていただきたいのです」 

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