第14話 ヘラの嫉妬、メティスの神託

 ゼウスの兄弟姉妹のうち、長女のヘスティアは、オリュンポス山の頂、その中央部にやがて築かれる事になる神殿を守護する<炉>へと化身してしまった。そのため、目下、活動可能な「オリュンポス神族」は僅か五柱であった。

 ゼウス達の祖父母に当たる天空の神ウラノスと大地の女神ガイア、彼等、ティターンの神々よりも古き世代と、王クロノスを裏切った母レイアを含めた三柱の神々は、なるほど確かに、自分たちオリュンポスの味方ではあるものの、今、彼等は、エーゲ海と地中海の境界に位置するクレタ島に立てこもっている。そして、距離の面から言うと、オトリュス山の方がクレタ島には近いのだ。ただし、海の一族のポントスが、クレタ島の周囲に<荒海>による結界を張ることによって、ティターンの島への侵入を阻み、妻たるガイアを守っていた。しかし、同時に、島から外に出ることも不可能になっていたのだ。その結果、ティターンとの戦いにおいて、ウラノス、ガイア、レイアだけではなく、ガイアの親衛隊たるクレタスからの援護も期待できなくなっていた。クレタ島所縁の神で、唯一、オリュンポスの戦力たり得るのは、ゼウスの乳兄弟である山羊の半獣神パーンだけで、パーンは、ゼウスと共にクレタ島を出た後で、ここオリュンポス山にまで同行していたのだった。

 ポントスの海の一族に関しては、あくまでもガイアを守って、クレタ島に結界を張っているにすぎず、今回の神間戦争において、必ずしもオリュンポス側に味方しているという分けではなかった。

 そして、もう一つの海の一族であるオケアノスに関しては、その一族の中には、ティターン神族と姻戚関係を結んでいる娘もおり、この点から言えば、クロノス側に与して然るべきであった。しかし、オケアノスの一族は、戦いにおいて、クロノスに戦力を提供しないという点において、消極的な意味で、自分たちオリュンポス側に味方することになっていた。だがしかし、それでは、ティターンに対抗する上でのオリュンポス陣営の戦力増強とはならないのだ。

 現時点において、クロノス側にも、ゼウス側にも味方しない、という意味において、不戦の意思を示していたオケアノス一族の中にあって、その末の娘であるメティスだけは、父の意思に逆らって、オケアノスの浮島を<出奔>したという態をとって、彼女もまた、ここオリュンポス山頂までゼウスに付き従っていた。

 すなわち、ヘスティアを除いたオリュンポスの五柱に、ゼウスの直臣とも言える、パーンとメティスを加えた、計七柱が、今のオリュンポス側の全戦力であった。

 ティターンへの宣戦布告の後に、ゼウスは、世界中の神々に対して懐柔案も提示していた。だが、しかし、これは、あくまでも、将来のための布石であって、即座にクロノスを裏切って、自分たちオリュンポスに味方する神が現れる保証はどこにもなく、ゼウス自身、ティターンから寝返る神が、すぐに現れるとは思ってはいなかった。

 こういった事情もあって、オリュンポス陣営にとっての急務は戦力の増強であった。

「メティスよ、我々の戦力増強のために、何か良き案はないか?」

 ゼウスは、兄姉達救出のための計画を自分に授けてくれたメティスに尋ねてみた。ゼウスは、知略の面において、何かと言えば、この知恵と計略の女神を頼りにし、ティターンとの戦いにおいても、メティスには、参謀役としての期待をかけていたのだ。

「ゼウスさま、わたくしに、考え……」

 ゼウスに自らの腹案を開示するために、メティスが口を開こうとした、まさにその瞬間、ゼウスの姉である三姉のヘラが一歩進み出て来て、知恵の女神の言を遮った。

「ゼウス」

「一体なんでしょう? ヘラ姉上」

「わたくし、独力で子を産もうと考えておりますの? わたくし達オリュンポスの急務は戦力を増やすことなのでしょう? ヘスティアお姉さまが、わたくし達のために<炉>になったのを見て、わたくしも、居てもたっても居られなくなりましたの。そして、オリュンポスのために、今のわたくしに出来る事は、子を産む事という考えに至りましたの」

「あ、姉上……」

「で、でも、でも、ゼウス。わたくし、子を産むのは初めてなのです。だから、わたくし、不安で、不安で……」

 そう言ったヘラは、潤んだ瞳で、ゼウスを上目遣いで見上げたのだった。

「ゼウス、わたくしを抱きしめてくださる?」

 ヘラの懇願を、ほとんど我知らずに受諾してしまったかのように、ゼウスはヘラを抱きしめていた。手慣れない不器用な所作ではあったが、ゼウスはヘラの背中や腰に腕を回した。

 ゼウスは未だ女性を知らなかった。

 実は、女性関係に関しては、クレタ島で、祖母ガイアと母レイアから厳しい注意を受けていたからで、それゆえに、乳兄弟であるパーンからの女遊びの誘いにも一切乗らなかったのだ。

 ヘラとの初めての抱擁がしばし続いた後で、どちらから合図することなく、姉弟二柱の神々は回し合っていった腕をほどき、身体を離した。

 離れ際に、ヘラは、自らの口に含んだ人差し指を、名残惜しそうに自分を見詰めているゼウスの唇に当てた。

(あざといよな)

 姉ヘラの様子を見ながら、ハーデスとポセイドンは、周囲には聞こえないように、声に出さず思念だけで語り合っていた。 

「ありがとう、ゼウス、わたくし、これで不安を覚えずに、子を産めそうです」

「ヘラ姉上、自分もお供いたします」

 駆け寄ってこようとしたゼウスに向けて、ヘラは両の掌を向け、弟を押し留めた。

「来てはなりません、ゼウス、お産をしている姿は、殿方に見せるものではないのよ」

 そう言ってヘラは、姉デメテルだけを伴って、男神三柱を残し、出産のためにその場から離れようとした。

 去り際にヘラは、後方に首を僅かに捻り、メティスを端目で捉えた。その眼差しには勝ち誇ったような色が混ざっているようにメティスには思えた。

 メティスの心に何かがチクりと刺さった。

 賢き女神メティスは、その頭の上にもう一柱の自分を浮かべ上げ、常に己を冷静に観察・分析させていた。その<メタな自己>は、ヘラがゼウスとのことで自分に嫉妬の念を抱き、そして、メティスもまたヘラに対して微かな嫉妬を今確かに覚えてしまっている事を告げていた。その原因となった感情も理解していて、仮に、その情念に名前をつけるとしたら、それはゼウスに対する<恋慕>であった。

 これは、昨日今日、突如として心に沸き上がった感情ではない。ゼウスがオケアノスの浮島を訪れ、この神と初めて会った時から自覚していた、自分の意思では抗いがたい情念であった。

 だが、しかし、それは抱いてはいけない感情なのだ。

 ――ゼウスによるクロノス襲撃前の出来事である。


 ゼウスが、計画実行前にクレタ島に一時的に戻った時、メティスもまた、ゼウスに同行して、島に立ち寄った。メティスは、父オケアノスの密書をガイアに直接手渡し、大地母神の許から立ち去ろうとした際に呼び止められた。

「メティスと言いましたね。あなたに言っておきたいことがあるのです。ゼウスの参謀役として、あの子を支えてあげてください。ただしです」

「ただし? 何でございますか? ガイアさま」

「ただし、ゼウス、あの子とは、そ、その……、男女の関係には決してならないように注意してください」

 ガイアと、その場に同席していたレイアもまた、メティスに対し、ゼウスとは絶対に性的関係を持たないように、そして、子を為す事がないようにと強く釘を刺してきたのだ。

 メティスは思わず反発心を抱いてしまった。大地母神という目上の存在で、そして、ゼウスの祖母や母とは言えども、そんな個神的な事まで指図される筋合いはない。

「お言葉ですが、もしも、わたくしがゼウスさまに惹かれ、そのような男女の関係になったとしても、それは、お二方から禁じられる筋合いの話ではないと存じますが」

 祖母や母親の肉親の情に由来する<同担拒否>など知ったことかっ! メティスの声色には、我知らず、刺が混じってしまっていた。

 メティスが落ち着くのを待ってから、ガイアは穏やかな口調で述べた。

「話は、男女の恋愛問題ではないのです。先日、私と、娘レイアに同時に神託が降りてきました」

 それは、ゼウスの命運にかかわる事態であった。

 それでは、ゼウスとは、絶対に男と女の仲になる分けにはいかない。

 だからこそ、メティスは自分の心に芽生えつつあった感情を、心の奥底に押し込め、そして、それに成功したと思い込んでいた。しかし、その封じ込めは完全ではなかったらしく、時折、気を抜くと、<恋慕>は這い出てこようとするのだ。今の所、理性の力によって、その防御に成功してはいる。

 だが――

 あぁぁぁぁ、ゼウスさま、この<恋慕>は日に日に力を強めているのだ。

 でも……。

 メティスは、ガイアから告げられた神託を思い出す。

「メティスとゼウスの間に誕生する子が、やがて、ゼウスの身を亡ぼす」

 だから、何があっても、愛するゼウスと契ってはならず、ヘラの露骨な態度に嫉妬を覚えつつも、ヘラとゼウスとの事は放置するしかないのであった。

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