第13話 黄金の種族

 王クロノスの目をじっと見つめながら、不和と争いの女神エリスは、こう進言した。

「何も、初手から、神々が戦場で矢面に立つ必要などありません。先ずは、敵たるオリュンポスとやらの戦力や、その出方を知る必要があると存じます」

「いかにすればよいと考えておるのだ? エリスよ」

「この際、<黄金の種族>、かの者達、<人>を働かせるのはいかがでしょうか?」

 クロノス達、ティターンの神々は、その姿に似せた生物を創造して、自分達の周囲に住まわせていた。それが人である。

 これらティターン神族が創造した人という種は、<黄金の種族>と呼ばれていた。

 黄金の種族は、その創造主であるティターンの神々の生活を模倣し、この上もなく幸福な日々を送っていた。たしかに、人は神のように不死なる存在ではなく、その死の運命から逃れることはできなかったのだが、それでも、極めて長命な種族であった。

 <夜>の一族ニュクスの一派で、<死>を司る神の眷属、死を定める神モロス、死の命運を握る女神ケール、そして、死それ自体の神タナトスは、その性質上、不死なる存在である神よりもむしろ、人と深く関わる事が多かった。そして、こうした<死>の眷属のみならず、ニュクスの血脈に連なる一派もまた、他の神々よりも、人という種に興味関心を向けていた。

 黄金の種族たる人は、人と人との間で争い合うこともなく、心穏やかに、平和に過ごしていた。そのため、死を司る神の眷属が、人に死をもたらす場合、その死は、天寿をまっとうした結果としての死である場合が大半で、それゆえに、タナトスの眷属が冥界に連行してゆく人の魂は、さして多いものではなかった。それでも、一族の中では、タナトス一派こそが、相対的に数多くの魂を冥界に運び込み、結果、母ニュクスがタナトスを褒める姿を、エリスは幾度となく目にしたことがあった。

 タナトス兄のように、自分も母に褒められたい。

 いつしか、エリスはこのような感情を抱くようになっていた。

 <夜>の一族の中でも、<戦>を司るエリスの一派に属しているのは、労苦、虚言、空言、口論、戦闘、戦争、誓約、無法、殺人、殺戮、紛争、破滅、飢餓、悲嘆、忘却などと関連した神々であり、要するに、エリスの眷属とは、争いを引き起こす感情や状況、ありとあらゆる種類の様々な規模の争い、そして、争いの後の状況や、その結果としてもたらされる死を司っているのだ。

 エリス一派は、その役割上、神々同士の負の感情や、<個神>間の争いに絡むことはあっても、不死である神に死をもたらすことはできない。

 一方、死すべき存在たる人という種は、負の感情を抱くこともなく、心安らかに日々を送り、人という種の間で争いを起こすこともなかった。こういった、争いもせず平和に生きている点が、不和と争いの女神たるエリスが人という種を気に入らない、そもそもの理由だったのだが、とまれ、これまでの所、エリスの眷属が人の死に介入する機会はほとんどなかった。

 だが、と、エリスは思った。

 そもそも、ティターンの神々は、自分達に似せて人を創造した。人は、神ほど身体は大きくはないが、外見は神にそっくりであった。それでは、その中身、心はどうであろう?

 神々は、先王ウラノスや現王クロノスが最たる例なのだが、専横的で独占欲も強く、強欲で、所有欲も性欲も旺盛で、猜疑心で他の神を疑い、嫉妬深くもある。それゆえに、<個神>間での争いは絶えることなく、こうした状況を助長するために、エリスの眷属も神の争いに深く介入してきた。

 人は、神自身の模造品である。

 なるほど確かに、今現在は、安楽に暮らし、何ら負の感情を抱かず平々凡々と長い生を謳歌している人も、その実、心の奥底には、創造主たる神と同じように、争いの種たる精神を宿しているのではなかろうか?

 そう考えたエリスは、自分の考えを実証するために、ティターンの見様見真似で、人を作ってみる事にした。そうしてエリスは、見目麗しき、一組の男女を完成させた。エリスが作った二人は、作り手であるエリスの願望を反映し、理想通りに――黒き負の感情で心を充満させていた。

 エリスは、男をエリオ、女をエリカと名付けた。

 自分が作った人には負の感情を付与することはできた。それでは、ティターンが創造した人の本質は一体どうなのだろうか?

 そうした疑問を抱いたエリスは、ティターンの神々の下で暮らす黄金の種族に、自らが作った二人を密かに放ってみることにした。

 この時、エリスが、二人に与えた指示は単純明快だった。

「好き勝手に行動しなさい」

 エリオとエリカは、黄金の種族の中に入って、自由奔放、心の赴くまま、勝手気ままに振舞った。 

 すると、どうであろう。

 美女エリカを巡って、黄金の種族の男達の間で争いが起こるようになり、同じように、美男子エリオを巡って、その種族の女達の間でも争いが起こった。ここに、同じ対象を愛する別の者を許す事ができない、<同担拒否>という感情が芽生えたのだ。

 仮に、エリカやエリオが、誰か別の者と話していたり、一緒にいようものなら、心の奥底から嫉妬心が沸き上がってきて、そうした感情から、口論や暴力、場合によっては殺人にまで至ることもあった。

 中には、夫や妻がいるにもかかわらず、エリオやエリカに恋慕の情を抱いてしまう者もいて、そうした浮気者たちは、伴侶に嘘をつくようになった。そして、浮気が発覚した場合、夫婦間の諍いが起こるようになり、これまた刃傷沙汰に至る場合もあった。

 エリオやエリカが自然に振舞うだけで、彼や彼女に対して好意を抱く者の負の感情が駆り立てられるのだ。

 さらに、エリオやエリカは、黄金の種族の人々が持っていない、他者が羨むような装飾品でその身を飾っていた。彼等は戯れに、誰か特定の者にだけそれを与えた。与えられた者は、喜びのあまり、それを他の者に自慢する。すると、持たざる者は所有欲を駆り立てられた。しかも、所有者が、自分よりも劣った者であったため、持たざる者の羨望は、妬みや嫉みになり、さらにそれは、憎悪にまでなっていった。やがて、その宝物を手に入れるため、心を羨望と憎悪で満たした人は、所有者を殺して、欲する物を奪うことさえあった。

 美男美女で、稀有な装飾品を身に付けたエリオとエリカが、黄金の種族の不和や争いの直接的な原因になったのは確かなのだが、それは、人の心の奥底に負の感情の種が眠っていたからこそ、起こり得た事態であって、エリオとエリカの存在は、その感情が表に出る引き金になったに過ぎない。

 すなわち、不和と争いの女神エリスの実験は成功し、その推測は実証されたのだ。

 人の精神には争いの種たる負の感情が眠っている。

 これを巧みに誘導すれば、争いを引き起こすことによって人に死をもたらし、年長のモロス、ケール、タナトスら <死>の一派以上の成果を上げることができる。そうすれば、きっと、ニュクスお母さまも、わたしを褒めてくれるに違いない……。

 もっともっと、争いによる死を! しかし、どのようにすれば、大量の死を人にもたらすことができるのであろうか?

 そのように考えていた折、ゼウスによる宣戦布告がなされたのだ。

 この瞬間、エリスの脳裏に稲妻が走り、神鳴が鳴り響いた。

 クロノスのティターン神族と、ゼウスのオリュンポス神族の間で、神々の歴史において初めての神族間の戦いが起こることになったのだ。この機会を利用しない手はない。

 エリスは、オリュンポスとの戦いにおいて、黄金の種族の人々を戦場に赴かせ、戦いで死んだ人の魂を手に入れる事を発想したのだ。戦争ならば、一挙に、大量の死を生じさせる事ができる。

 かくして、エリスは、母ニュクスに褒められたいという、まさに自己の独善的で<個神>的な理由のために、他のティターンのいかなる神よりも早く、クロノスの前に進み出た次第なのである。


「<黄金の種族>か……。人を戦わせるという発想は全くなかったな……」

 そう呟いた王クロノスは、右の拳の上に顎をのせ、しばし考えに耽った。

 クロノスとしては、このマキア(戦い)において、子たるゼウス達オリュンポスの神々と、兄姉とその眷属たるティターンの神々といった、自分と血の繋がりが濃い神同士を戦わせ、己の玉座を脅かす者達を排除したいと考えていた。それゆえに、黄金の種族たる人を戦わせるという考えはまるで抱いていなかった。人が戦ったのでは、神々はまるで傷つかず、神々を共倒れさせられない。

 しかし、である。

 より効果的に神々に大打撃をもたらすような計画を練るためにも、少し時間的余裕が欲しい。

 それに、人を戦わせるという、このエリスの案が功を奏したとしても、そもそも、エリスはティターン神族ではない。戦功に関しては、褒美さえ与えておけば十分であろう。

「よしっ! エリス。そなたの案を採用するとしよう。そして、オリュンポスとの戦いにおける指揮を、そなたに一任いたす」


 かくして、ゼウス率いるオリュンポス神族との初戦において、クロノスのティターン神族は、<黄金の種族>たる人を戦わせ、不和と争いの女神エリスの一派こそが、戦いの一切を取り仕切ることになったのである。 

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