第12話 <夜>の眷属、<不和と争い>のエリス一派
カオス(虚空)、ガイア(大地)、タナトス(奈落)、エロス(原愛)という原初の四柱の神々による<世界創世>以来、神々同士が、集団で本格的に戦ったことは一度もない。これまでの神の争いと言えば、たとえば、ウラノスとクロノスとの間の<個神的>な闘いに留まっていたのだ。
しかし、ゼウスからの宣戦布告によって、神々の歴史上初めての<マキア(戦争)>が展開される事になる。
テッサリア地方の北に位置するオリュンポス山、この山はギリシアの最高峰(現在の度量衡で二九一七メートル)で、それゆえに、その山頂部を地上から攻めるのは難しい。この天然の要害を拠点としたゼウス達の一派は、自らを<オリュンポス神族>と称する事にした。
これに対して、テッサリアの南に位置するオトリュス山(一六九四メートル)に集っていた神々の中心になっていたのが、クロノス率いる<ティターン神族>であった。
ここにおいて、ゼウスのオリュンポス神族という新しき神々と、クロノスのティターン神族という古き神々との戦いという構図が成立し、後の世において、<ティタノ・マキア>と呼ばれる事になる、十年に渡る悲惨な神間戦争の幕が切って落とされる事と相成ったのだった。
クロノスの子であるゼウス等の兄弟姉妹、オリュンポスの六柱に対して、クレタ島に閉じこもっている母ガイアと妻にして姉のレイア、クロノスの招集に応じなかった長兄オケアノスと六姉テテュスの夫婦神を除いても、クロノスの兄姉から成るティターン神族だけで、オトリュスの陣営は九柱となる。この点だけで言えば、オリュンポスとオトリュスとの単純な戦力比は二対三、しかも、これだけでなく、オトリュス側は、これらティターン神族の第一世代に、第二、第三世代のティターンの眷属達、ここにさらに、ティターン以外の神々も勘定に入れると、その戦力差は圧倒的であり、神代の御代において初めて勃発することになる新旧の神間戦争は、戦いとは呼べない一方的なものになるはずであった。
だが、宣戦布告に続けて、ゼウスがオトリュス山に集った神々に対して提示した懐柔案によって状況が少し違ってきたのだ。
独裁的で暴虐なクロノスは、その治世において数多の神々を弾圧してきた。いやむしろ、恐怖政治を敷いてきたクロノスに苦しめられていない神の方が少ないと言ってよいかもしれない。もし仮に、オトリュス陣営から一柱でも裏切りが出た場合は、寝返りが連鎖し、戦力差があっと言う間に覆ってしまう可能性も否めない。そもそもの話、クロノスに反旗を翻したのは、クロノスの子供達たる<一神等>の神々なのだ。
こういった事情もあって、クロノスの宮殿に集っていた神々の間に、明らかなる動揺が走ったのだ。
雑音鳴りやまない広間から数段高い位置にある玉座から、ゆっくりと腰を上げたクロノスは、神々の前で、不壊金剛アダマスの刃が付いた大鎌の柄を右手で握ると、その柄の先端で、一度、床を強く打ち突いた。激しい打突音が耳を聾し、アダマスの刃が眩い輝きを放つと、それが目を晦ませ、さらに、玉座の間の空気を大きく震わせた。その振動が、神々の間に伝染していた動揺を瞬時にして止めたのだった。
大鎌アダマスを携えた王クロノスの圧倒的なまでの覇王の力――
場が静寂で覆われるのを待ってから、王クロノスは静かに口を開いた。
「オトリュスに集いし神々よ、この中で、クロノスのために、我こそ先陣を切らんという剛の者がいたら、一歩、進み出よ」
王の申し出に即座に反応した神がいた。
それは、<争い>の女神エリスであった。エリスは、ティターンの眷属ではなく、漆黒の女神ニュクス率いる、<夜>の眷属の血脈である。
原初の神の一柱カオス(虚空)は、独力で、エレボス(闇)とニュクス(夜)の兄妹を生んだ。やがて、この二柱の神は兄妹婚をし、その間には、アイテル(天の光)とヘメラ(昼)が誕生するのだが、その後、エレボスは地下の<闇>となり、その結果、地上の<夜>たるニュクスとは別れて暮らすことになる。したがって、<夜>の女神ニュクスは、独力で数多の神々を産む事になり、かくして、<夜>の眷属を形成していったのだった。
もっとも、ウラノス(天空)が未だ世界に君臨していた時代、頻繁にニュクス(夜)を伴って天翔けていたため、ニュクスの子達の多くは、実はウラノスの種ではないかというのが、神々の間では真しやかに噂されていた。実際、<夜>の眷属の能力は、あたかも、黒き復讐に囚われたウラノスの負の力を具現化したようなものばかりであったのだ。
そのニュクスの子には、死を定める神モロス、死の命運を握る女神ケール、死の神タナトスといった、死を司る神々がいる。
死には決まった流れがあって、暗闇に住むモロスが死の運命を定めると、死の女神ケールが自らを分裂させ、その分身体である女神達ケレスを世界中に派遣し、この無慈悲な死の女神が、死すべき者に、死という罰が与えられる事を告げると、やがて、タナトスが死の運命にある者の許を訪れる。タナトスが、髪の一房を剣で切ると、魂が肉体を離れ、その者に死がもたらされる。その魂を冥界に運んでゆくのがタナトスの役割なのだ。
タナトスは、鉄の心臓と青銅の心を持つ非情な神で、通常、黒い服を着た蒼ざめた老人の姿をとっていた。このタナトスには双子の弟がいて、それが、眠りを司る神ヒュプノスであった。ヒュプノスは、タナトスとは対照的に、通常、青年の姿をとっていた。その姿だけでもタナトスとヒュプノスは正反対の存在のようにも思えるのだが、その実、タナトス(死)とヒュプノス(眠り)は表裏一体の存在であった。別の言い方をすれば、永遠の眠りが死で、夜の間の一時的な死が眠りなのである。そしてタナトスとヒュプノスは、オケアノスの遥か西の彼方、太陽が沈む所にある冥界の門の近くに、共同で館を構え、二人一緒にそこに住んでいた。
その冥界の門こそが、死の国への入り口であり、その門の近くには巨樹が生えていた。そして、その巨樹の幹に絡まっている神々こそが、タナトスとヒュプノスの弟達で、夢の神々オネイロスである。
これらオネイロス達の役割は、兄ヒュプノスによってもたらされた眠りの間に、眠っている者達の心を休ませ、彼等に夢を見せる事である。夢の役割とは、夢見る者に神の意思を伝える事であった。実は、夢の国から夢へと通じる門は二つある。それが象牙の門と磨かれた角の門である。もし仮に、オネイロスが象牙の門を通った場合、人が見るのは実のない偽りの夢で、これに対して、磨かれた角の門を通った場合、人が見るのは真実の夢なのだ。しかし、その真偽の見極めは夢見る者には難しいのが実情であった。
こうした<死>と<眠>の兄弟姉妹に加え、ニュクスの<夜>の眷属に連なっているのが、非難の神モーモス、痛ましき苦悩の神オイジュス、神の憤りと罪の女神で、「義憤による復讐」と呼ばれているメネシス、欺瞞・不実・不正・失望の女神アパテー、愛欲の女神ピロテース、避けられない老いをもたらす老齢の神ゲーラス、そして、人の苦しみの大きな原因である不和と争いの女神エリスといった神々であった。
かくのごとく、ニュクス率いる<夜>の眷属は、死や眠り、負の感情を司る神々から成っており、その主たる能力の特徴は精神操作系統という点であった。そのため、敵に回すと極めて厄介な一族であり、王クロノスも、<夜>の眷属の長たるニュクスを恐れ、この女神には最大限の敬意をもって接していた程だったのだ。
そして、<夜>の眷属の中でも最大能力を有していたのが、ニュクスの末子エリスで、この不和と争いの女神エリスこそがクロノスの前に進み出て来たのであった。
この女神エリスが産んだのが、痛ましき労苦の神ポノス、忘却の神レテ、飢餓の神リモス、涙に満ちた悲嘆の神々アルゴス、戦闘の神々ヒュスミネ、戦争の神々マケ、殺戮の神々ポノス、殺人の神々アンドロクタシア、紛争の神々ネイコス、虚言の神々プセウドス、空言の神々ロゴス、口論の神々アンビロギア、無法の神デュスノミア、破滅の神メア、誓いの神ホルコスであった。このホルコスは、故意に偽りの誓いを為す者があると、その者を厳しく痛めつける神であった。
このように、死と眠りと負の感情を司る<夜>の眷属の中でも特に、不和と争いの女神エリスの一派は、ありとあらゆる規模や種類の戦いと、それが引き起こす死を司る神の一族であった。
クロノスの前に姿を現した有翼の女神は、血と埃にまみれた鎧を身に付け、その右手には槍を携えていた。
その姿を目撃したクロノスの侍童が怒号を放った。
「なんですかっ! その格好は、我が君の前で、失礼ではないですかっ!」
自分に詰め寄ってきた侍童の鼻先に、エリスは軽く息を吹きかけた。その口から吐き出された息には火炎が混じっていた。
ゼウスの後任として、クロノスに仕え始めたばかりの新任の侍童は、王の側仕えとしての職務に燃えていた。だが、エリスのことをよく知らなかった彼は、迂闊なことに、エリスに突っ掛かってしまい、その結果、軽く炎の息であしらわれ、逆に鼻っ柱が燃えてしまったのだった。
床の上でのたうち回るその侍童を、別の侍童が玉座の間から運び出していった後で、まるで何事もなかったかのように、クロノスからの発話の許しを待ってから、エリスは口を開いた。
「王よ、その先陣のお役目、この争いの女神エリスにお任せいただけないでしょうか? 神代の御代での初の神間戦争に対し、これまで人の間の不和と争いを司ってきた私どもエリス一派の力と経験こそが、役立つと確信しております」
エリスは、鎧の胸当ての心臓部分に拳を当てながら、王にそう進言した。
「よかろう、エリスよ。そなたに一任しよう。それで、いかにすればよい? そなたの考えを開示してもらいたいのだが」
「王よ、それに関しては、わたくしに一つ腹案があります」
そう言った女神エリスは、口許に笑みを浮かべていた。
クロノスの目前に立つエリスの残酷そうな黒い笑みを目にしたオトリュスに集いし神々は、身体の震えを止める事ができずにいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます