第24話 パンドラの<箱>と絶望

 プロメテウスの母である<掟>の女神テミスは、オリュンポスを裏切ったプロメテウスの助命と引き換えに、ゼウスたち、オリュンポスのために神託を下す任に就いた。その第一の神託が、アトランティスに人間の女を送り込む事であった。

 オリュンポスの神々は会議を開き、この神託の解釈を行い、その意味する事が何かについて話し合った。

 それから、ゼウスは、<炎と鍛冶>の神ヘパイストスに命じて、オリュンポス山の土を捏ね上げて、そこから<人>の形を作った。それから、ヘパイストスの妻である<美>の女神アプロディーテが、自分の姿に似せて、その人形の肉体を輝くばかりの美しさに整えた。かくして、女の人形の造形が完成すると、この人形に、一神につき一能力ずつ付与してゆくことになった。ヘパイストスの人形に付与できる能力には限度があったからだ。

 まずは、ゼウスの兄姉であるオリュンポスの血族から始める事になった。

 <炉>の女神であるヘスティアは、<家庭>を守護する力を与えた。

 <豊穣>の女神デメテルは、<豊穣>の力を与えた。

 ちなみに、この時、<結婚と出産>の女神ヘラは、オリュンポスを不在にしていた。というのも、ヘパイストスの黄金の椅子によって拘束された一件以来、ヘラとヘパイストスの間に、気まずい緊張感が張り詰めてしまい、そこで、ティターンとのマキアの間、ヘラの安全を図る事を大義名分にし、オケアノスとテティスの許に、ヘラを避難させたからだった。もしも、この時、ヘラがオリュンポスにいたとしたら、この女の人形の美しさに対して嫉妬の炎を燃やしていたに違いない。

 そしてハーデスは、<隠遁>能力を、ポセイドンは、<変身>能力を付与したのだった。

 次が、ゼウスの血族以外の神々の番で、ステュクスの一族は、<勝利と力>に関連する能力を一つ一つ授け、<知恵と計略>の女神メティスは、<知恵>を与えたのだった。

 最後が、ゼウスの乳兄弟で、山羊の半獣神のパーンの番であった。パーンは、この人型にいかなる能力を贈るか、かなりの間悩んでいた。それは、一神一能力という制約のせいなのだが、ヘラがオリュンポスを不在にしていたため、一神分、枠が一つ空いていたので、結局、パーンは、<好奇心>と<伝染力>の二つを授ける事にしたのだった。

 それから、この女の人形に名を与える事になった。神々から名を募った所、幾つもの意見が出されたのだが、なかなかこれといったものがなく、ゼウスは、戯れに、幼馴染である半獣神パーンに話を振ってみた。

「『パンドラ』なんてどうかな? ゼウス様」

 自分の名を文字ってパーンがそう提案した。

 パンとは<全て>、ドラとは<贈り物>という意味で、すなわち<パンドラ>とは、「全てを与えられた」という意味になる。この女の人形は、オリュンポスの全ての神々から能力を贈られたため、まさに、言い得て妙な名称で、ゼウスは、パーンが提案した<パンドラ>という名を採用した。

 名前も決まった所で、ゼウスは、この女の人形、パンドラに、遂に<生命>を吹き込んだのだった。


 神食アンブロシアや神酒ネクタルを摂取させ、パンドラの成長を促進させると、この女を、オリュンポス一の健脚を誇り、その名付け親となったパーンを付き添わせ、彼女を地中海沿岸にまで連れて行き、ここからパンドラを船出させた。

 別離の際に、名付け親のパーンは、パンドラに、美しい装飾が施されている<金の箱>を、はなむけの品として彼女に贈った。それは、<炎と鍛冶>の神ヘパイストスが、パンドラに持たせるために、その全精力を込めて制作した至上の一品で、パーンはパンドラにこう言い含めたのだった。

「いいかい、パンドラ。この箱の中には、見てはならない不思議な物が入っている。だから、決して蓋を開けてはいけないよ」

 優しくそう言ったパーンは、パンドラの額を一指し指で軽く突いた。それから、パンドラを船に乗せ、地中海に漕ぎ出でさせたのだった。


 船は流れに乗って地中海を西進し、アトランティスの制海権に入り込んだ。広大な領域を誇るアトランティスの支配圏は、大西洋から地中海の西側にまで及んでいる。パンドラを乗せた船は、地中海西域のアトランティスの警戒網にすぐに引っ掛かってしまい、アトランティス軍に捕獲された。

 パンドラは、大西洋と地中海の境界に位置するジブラルタルの要塞にまで連行された。そして、オリュンポスからの脱走者として、要塞司令官であるエピメテウスによって、直々に尋問される事になった。

 エピメテウスは、その脱走者から、オリュンポスの情報を引き出そうとした。しかし、目の前に現れた女を一目見た瞬間に、目的が全て吹き飛んでしまい、平静を保つ事すらできなくなってしまった。

 そして、その数瞬後には、エピメテウスは、このオリュンポスからの脱走者――パンドラを妻とする決意を固めていた。

 エピメテウスは、オリュンポスの者には気をつけろ、という、オリュンポスから戻ったプロメテウスからの忠告など完全に失念してしまっていた。


 エピメテウスがパンドラを娶ってから数週間が経過した。

 エピメテウスは、パンドラに完全に耽溺してしまい、昼夜の別なく、パンドラを愛で続けた。そのため、後方司令官不在のアトランティス軍のオリュンポス侵攻作戦は、この間、全くもって停滞してしまっていた。

 しかし、最前線の兄アトラスから、戦力の輸送と補給に関する督促が来た事によって、さすがに、エピメテウスも閨房を出て、公務に従事しなければならなくなった。

 独り、寝室に取り残されたパンドラは無聊を慰めるために、名付け親であるパーンが持たせてくれた<金の箱>を眺め始めた。パンドラは、その美しき<箱>の装飾を飽きずに眺め続けていた。

 やがて、パンドラは、<箱>を眺めるだけでは物足りなくなってしまった。しかし、「<箱>を開けてはいけないよ」という名付け親パーンの言葉が、ずっと脳裏にこびり付いて離れなくなっていて、それにもかかわらず、否、だからこそ、パンドラは、箱の中身が気になって気になって仕方がなくなってしまったのだ。

 名付け親からの<禁足事項>、開けてみたいという己の<好奇心>、パンドラの心はゆらゆら揺れた。禁止されてしまったからこそ、開けてみたいという好奇心が芽生えてしまったのだ。

 好奇心を抑えきれなくなったパンドラは、ついに、<箱>の蓋に手を掛けてしまった。

 蓋を開けた瞬間、何かが<箱>から次々に飛び出してゆく感覚にパンドラは襲われた。それらは毛むくじゃらで鋭い牙を生やした怪物であるように感じられた。<箱>から飛び出した怪物、それは、ありとあらゆる種類の<災い>が具現化した物であった。 

 <鍛冶>の神ヘパイストスは持ち得る能力の全てを注いで、<箱>に一種類以上の事物が入るように改良していた。

 その<箱>の改良品を受け取ったゼウスは、兄ハーデスに、<箱>を冥界にまで持っていかせた。ハーデスは、ティタノ・マキアの初戦以降、冥界に引き籠っている、<争いと不和>の女神エリスと面会した。そして、ハーデスは、エリスの眷属達の助力を受け、<箱>に、ありとあらゆる種類の<災い>を封入してもらったのだ。そして、ハーデスは、それを地上に持ち帰ると、パーンを介して、地中海から船出するパンドラに持たせたのだった。

 

 ジブラルタル要塞に待機していたアトランティスの<青銅>の戦士達は、突然あらわれた怪物に襲われた。アトランティスの屈強な戦士たちも抵抗し、簡単に打ち負かされたりはしなかったのだが、肌が露出している個所を、牙で軽く噛みつかれたり、爪で薄く引っかかれただけで、四肢から力が抜けたようになって、その場でへたり込んでしまう者が続出した。

 たとえ、病アルファの症状が現れなかった<青銅>も、病ベータや、病シータ、あるいは病ゼータといった全ての病に対する抵抗力を持っているべくもなく、<青銅>の戦士達は、次々に戦闘不能な状態になっていった。

 実は、パーンによって<伝染力(パンデミック)>を付与されていたパンドラが<箱>を開けたことによって、箱から飛び出した<災い>は<伝染力>を帯びてしまっていたのだ。その結果、傷つき病に感染した者が一人でも出ると、病は周囲に伝染し、怪我をしていない他の者達もまた次々と倒れ伏してゆくことになったのである。

 二週間後には、ジブラルタル要塞の<青銅>の人間は皆、戦闘不能な状態に陥ってしまい、結局、アトランティス陣営で残った戦力は不死なる存在たる神々だけになってしまっていた。


 <箱>を開けた際に、本能的に恐怖を覚えたパンドラは、慌てて蓋を閉じた。そして結果として、最悪の<災い>だけは<箱>から出さない事はできた。その最悪最凶の怪物こそが<前兆>であった。

 <前兆>に浸食された場合、人は、そして神すら、自らの人生において、どのような事態が訪れるのか、あらかじめ正確に知る事ができるようになってしまう。幸福だけではなく、不幸さえも、だ。そのような事態に陥った場合、いかなる希望も持てなくなる。先に何が起こるか分からないからこそ、未来に期待を抱くことができる。可能性として、絶望した人類は、自ら命を断ち切ってしまうかもしれない。

 人は、災いに打ち克つ事は可能でも、希望なしに生きる事ができないからだ。それは、不死なる神にとっても同様である。

 神々は肉体的には<不死>だからこそ、精神的に<絶望>させなければならない。 

 ゼウス達、オリュンポス側の計画とは、ありとあらゆる種類の<災い>が封印された<箱>を携えたパンドラを、考え足らずという噂のエピメテウスの懐深くまで侵入させ、好奇心に負けたパンドラに<箱>を開けさせる事によって、病をアトランティスにばらまき、<青銅>の種族の人間を、あわよくば、<絶望>によって、神々さえも戦闘不能にすることであった。

 しかし、<箱>には<予兆>が残され、アトランティスには希望が残ってしまったのだった。

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