第19話 アトランティスのイアペトス一族

 地中海の島「サンダリオン」の以西、地中海の西部が、イアペトスに与えられた領地であった。

 イアペトスは、クロノスの一つ上の兄で、末子ではあるが王となったクロノスを除くと、五男であるイアペトスは、ティターン神族・第一世代の末席で、それゆえにか、イアペトスに与えられたのは世界の西端であった。イアペトスは、広大ではあるが未開の地を、自らの力で切り開いてゆかなければならなかった。

 イアペトスは、まず最初に、姉である掟の女神テミスを妻とし、このティターンの第一世代の夫婦神の間に誕生したのがプロメテウスである。テミスには未来予知の能力が備わっていたので、幼き息子プロメテウスに、<先見>の力など様々な英知を与えた。しかし、テミスには地中海西部の生活が合わず、結局、息子を残して、イアペトスと離別することになった。

 その後、イアペトスは、長兄で大洋の神であるオケアノスとテテュスの、兄妹夫婦神の娘であるクリュメネを妻に娶り、この妻となった姪との間に、アトラス、メノイティオス、エピメテウスという三柱の男神が誕生した。水精であるクリュメネは、息子達と共に、イアペトスの仕事に積極的に協力し、一族は、力を結集して、海の開拓に従事したのだった。

 この時代、地中海の西端こそが、世界の先端であった。その世界の端であるイベリア半島とアフリカ大陸、その間の海域は狭く入り組み、さらに、岩礁も多かったため、この海峡は通行不可能な海域であった。しかし、イアペトス一族は、この海峡の開通に成功し、自らの一族が開拓した、この海の回廊を「ジブラルタル海峡」と名付けることにした。

 世界の最端から、回廊を通り抜けたイアペトス一族は、ジブラルタル海峡の西に、広大な海を見出し、ここを「大西洋」と名付けた。

 イアペトスは、さらに西進し、太平洋の真ん中に巨大な島を発見するに至った。

 一族の長であるイアペトスは、この島を、次男アトラスの名をとって「アトランティス大陸」と名付けた。このことは、いわば、一族の跡目を、今の妻クリュメネの子であるアトラスに継がせる事の宣言といえた。

 その後、イアペトスはアトランティスに拠点を置くと、大陸周辺の島々を、次々と、一族の支配下に置いてゆき、かくして、イアペトス一族の領土は、サンダリオン以西の地中海西部から大西洋までの広大な領地となり、支配領域の広大さ、という観点から言うと、イアペトス一族の支配領域こそが、ティターン神族最大の版図となったのである。

 イアペトスは、その広大な領域の支配を、ある程度確立させると、自らは隠遁し、領土を分割して、それぞれを息子達に委ねることにした。

 主島であるアトランティス大陸は、家督を継いだアトラスの領土とした。

 クロノス王から与えられた元々の領土である地中海西部は、クリュメネとの間の次子であるメノイティオスに委ねることにした。

 末子のエピメテウスには、ジブラルタルとアトランティス大陸の間の海域を任せた。

 そして、先妻、掟の女神テミスとの間の子であるプロメテウスには、領地こそ与えなかったのだが、ジブラルタル海峡に築いた要塞の警護を託すことにしたのである。

 実は、イアペトスの戦略構想における最重要地こそがジブラルタルであった。

 たとえば、メノイティオスに任せた地中海西部が侵略され、戦線がジブラルタル海峡にまで後退したとしても、ジブラルタル要塞において、敵軍の進行を抑え込むことさえできれば、敵の大西洋やアトランティスへの侵攻は、この海峡で食い止めることができよう。

 プロメテウスは、掟の女神である母テミスから、<予言の力>の一部を受け継いでいて、その教育も受けていた。「プロメ(先に)」「テウス(考える者)」という名が表わしているように、プロメテウスには<先読みの力>が備わっていた。それは、未来を<予知>する程の強い力ではなかったのだが、一瞬であれ、先読みできることは、戦いにおいて有利な能力ありで、要塞警護をプロメテウスに任せたことこそが、イアペトスの采配の妙と言えた。

 また、仮に、敵の猛攻が凄まじく、最悪の事態として、ジブラルタルの要塞が陥落したとしても、そうなった場合には、ジブラルタルから大西洋に通じる回廊を塞ぎ、海峡を、以前と同じように、通行不可能な状態にしてしまえば、大西洋とアトランティス大陸の防御は叶う。その場合の仕掛も、イアペトスは抜かりなく整備していたのである。

 もっとも、ジブラルタル海峡を塞いでしまった場合、イアペトス一族が、再び、ギリシア世界に戻ることは難しくなるかもしれない。だが、その時はその時の話で、アトランティス大陸において自給自足の生活を送ればよいのだ。

 それ程までに、アトランティス大陸は実り豊かな、魅力的な土地であった。

 アトランティス大陸は、農作物の実りも豊かで、畜産業も盛ん、衣食住のために必要な物質は全て島内で賄う事ができた。それゆえに、たとえ、他の一族と交わらなくとも、イアペトス一族は、アトランティス大陸内で十分に自給自足生活を送ることができるのだ。  

 さらに、アトランティスは天然資源も豊富で、ギリシア世界に存在しないような鉱物も採掘でき、イアペトス一族は、世界の最端であるアトランティスにて、ギリシア世界とは異なる独自の文明を築き、着実に力を蓄えていたのだった。

 つまり、たとえ、地中海西部を失ったとしても、アトランティス大陸さえ守れれば問題はない、というのがイアペトスの基本方針だったのである。

 かくして、イアペトスは、クロノスが統べるエーゲ海世界を仮想敵国とし、ジブラルタル海峡の守りを固め、アトランティスの発展に邁進していたのだ。しかし、仮想敵国とみなしたギリシア世界の方はというと、クロノスをはじめ、他のティターンの兄弟姉妹達は、世界の中心たるギリシアから遥か西、世界の端であるジブラルタル海峡よりもさらに西方のことなど歯牙にもかけてはいなかった。つまるところ、イアペトスの懸念は全くの杞憂に過ぎなかったのである。

 だが、慎重過ぎるイアペトスは念には念を入れていた。そのあらわれが家督をアトラスに譲った事実である。 

 イアペトスの子達の中で最も優秀なのは、実は、両親共にティターン神族・第一世代であるプロメテウスであった。しかし、実際に、イアペトスが跡目を譲ったのはアトラスである。アトラスは、膂力に秀でた剛の者だったのだが、その性質は<武>に偏り過ぎ、統治者としての能力は、兄弟達と比べても明らかに見劣りしていたし、他のティターンの第二世代の者達と比べてみても、これといって目立つような神ではなく、ティターン神族の長クロノスの印象は、身体が大きいだけの力自慢の凡庸な若い神というものであった。つまり、イアペトスは、アトラスを家長にすることによって、クロノスに、イアペトス一族への警戒心を抱かせないようにしたのである。

 そしてさらに、今回のオリュンポスの件のように、クロノスからオトリュス山への招集があった場合、イアペトスは一族総出で必ず参列し、世界の覇者たる王クロノスに対する臣下としての礼を失するようなことも決してしなかったのである。


 オトリュス山での会談にて、対オリュンポスの戦の先陣の栄誉は、<夜>の一族ニュクスの娘、<不和と争い>のエリス一派に委ねることが決定した。そして、エリス一族が、<黄金の種族>の人間を率いて戦場に向かったのと時を同じくして、イアペトスは、妻と子達と共に、アトランティス大陸に引き上げていた。

 大陸中央部に建造した屋敷に戻った瞬間、前の族長であったはずのイアペトスは、謁見の間の高座に据えた椅子に深々と座り、杯に注がせたアトランティスの地酒を一息で飲み干し、空になった杯の底をしばし見詰めた後で、それを思い切り地面に叩きつけた。

 床面に叩きつけられた青銅製の杯は、その勢いの強さのあまり、縁が深く歪んでしまった。

「忌々しい、エリスの小娘がっ! ティターンでもないくせに、出しゃばりおって!」

 イアペトスは、クロノスや、他のティターンの神々の前では被っていた冷静さの分厚い仮面を、肉親だけの場では完全にかなぐり捨てていた。イアペトスは、今回のオリュンポスとの戦いで、ティターン軍の司令の地位に、アトラスを就ける算段であった。これを、長い間、西方の一領主に過ぎなかったイアペトス一族が、ギリシア世界の中枢部に入り込む千載一遇の機会と捉えていたのだ。

 しかし、エリスに先を越されてしまった。

 一族以外の者がいないアトランティスに戻るや否や、イアペトスは、先陣を担うことができなかった口惜しさを遂に我慢できなくなり、酒臭い息と共に吐き出さざるを得なくなってしまったのである。

 それから、イアペトスは、現・族長のアトラスを睨み据えた。

「アトラス、お前もお前だ。何故に、小娘に先を取られおった。思い起こすだけで、腸が煮えくり返るわっ!」

 父であるイアペトスに怒鳴りつけられ、アトラスは背中を丸めて、縮み上がってしまっていた。その巨大な身体が二回りほど小さくなっているようにプロメテウスには思えた。

 たしかに、一族の頭領の座は、現在、アトラスのものである。しかし、何事もなかったかのように、玉座に座している父の姿を見るにつけ、やはり今なお、一族を影で支配しているのはイアペトスに他ならない。

 親父とアトラスでは、まだまだ格が違うんだよな、などど他人事のようにプロメテウスが考えていると、突然、父の怒りの矛先が自分の方に向けられてきた。

「プロメテウス、貴様も貴様だ」

「えっ! いったい何事ですか、親父殿?」

「わしが何故に、お前を『プロメ(先に)テウス(考える者)』と名付けたと思う。その名を持つ者ならば、エリスの小娘の行動を先読みせんかっ!」

 親父殿、それは酷な話だよ。俺の<先見の明>の能力って、そんな予言や未来予知みたいな便利なものではなく、単なる、情報に基づいた推測能力の高さや、経験に基づく<直感力>だから。あの場で、<不和と争い>の一派の行動を読むには情報不足だったし、予測は無理だって。とまれ、親父殿の性格から判断するに、<先見>を使わなくても、こりゃしばらく、とばっちりは続きそうだな。

 このようにプロメテウスが、小言を受け続ける覚悟を決めた所で、クロノスとゼウスの代理戦争である、エリス率いる<黄金の種族>と、ステュクス率いる<白銀の種族>との間の戦いの結果の速報が、イアペトスの許にもたらされた。


 ティターンの<黄金の種族>、オリュンポスの<白銀の種族>、共に人類は全滅

 <不和と争い>のエリス一派は、敗戦の責任を取り、冥界にて謹慎

 

 <黄金の種族>全滅と、エリス一派謹慎の報を受けた直後、イアペトスは高笑いを上げていた。その哄笑はアトランティス大陸全土に響き渡るほどのもので、大笑は暫くの間止むことはなかった。

 かくして、無慈悲な怒声を浴びずに済んだプロメテウスは溜飲を下げたのだった。  

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