第10話 ヘスティアの誓約、ゼウスの宣戦

 テッサリア平原は、四方が山や海川に囲まれてた天然の要害で、この地こそが神々の世界の中心であった。東はエーゲ海、南はオトリュス山やマリア湾、西はピンドス山脈やアケロース川に面し、そして北に聳え立っているのがオリュンポス山である。

 このオリュンポス山の頂を目指す六つの影があり、その一つは女神ヘスティアの物であった。

 雪で覆われた山頂に到達するとヘスティアは、その中央にまで進み、雪を掻き除いた。土が見えると、そこを四角形に穿って、穴を石で囲った。作業を終えるとへスティアは、自分の右手の人差し指にしばらく視線を注いだ。すると、その指先に火が灯り、ヘスティアは地面の凹みに火を移した。

 ヘスティアは持っていた小刀で自分の髪を一房切ると、それを凹みの中に焼べた。神の分身たる髪を入れた瞬間、火は一段と大きく爆ぜ、炎はヘスティアの神聖な気を帯びて、聖なる火となった。

「この<聖火>を中心に据え、神殿を築き、わたくし達の象徴といたしましょう」

 長子たるヘスティアは、妹と弟の方を振り返ると、ゆったりとした口調でこう語り掛けた。

「しかし、姉上、その場合、神殿を守り続ける女神が必要となります。しかも守護神たる為には清らかなる乙女であることが求められます。現状、我々は手が足りず、神殿を守る処女神を探すことは、非常に困難であるように思われるのですが……」

 末子たるゼウスは、長女ヘスティアにそう意見した。

「それに関しては心配には及びませんよ、ゼウス。わたくしが責任を以ってここを守り続けますから」

「それではっ! 姉上だけが、ぎ、犠せ……」

 ゼウスが全てを言い切る前に、弟の言葉を遮って、長姉たるヘスティアは黙ったまま弟の頭に手を置き、そこを優しく撫で回した。

 一頻り愛撫した後、ヘスティアはゼウスから離れ、聖火の前まで移動すると、妹弟の方に顔を向けた。

「わたくしは、オリュンポス山頂の神殿にで、聖火を守る処女神として、永遠に一族を守護することをここに誓います」

 この宣言の直後、ヘスティアの身体が眩い光を放った。

 やがて、聖なる光で全身が覆われたヘスティアの身体が変化し始めた。

 逆立った髪は炎髪に変わり、双眸は灼眼となり、そうして幻の如き透明度を増したヘスティアは、その身体が大きく揺らいだかと思うと、山頂の中央部に設置された炉とそこに灯った聖火と融合した。

 かくして、ヘスティアは、火を用いる器具、例えば、物の加熱、溶解、焼却が為される炉や、食物の加熱調理に使う竈の女神としての属性、そして、女神の分身たる髪を犠牲として捧げた事によって祭壇・祭祀の神としての属性さえも帯びることになり、祭の折には祀られた牲の最も良い部位を優先的に選べる特権を得るに至った。

 さらに、姉妹兄弟の神々を祀る神殿の中心に聖火を据えることによって、ヘスティアは<家庭>の守護神となった。そしてこの時同時に、家庭という単位の集合体としての<国家>統合の守護神としての属性までもがこの処女神には加わっていた。

 というのも、ヘスティアとゼウス達、この六柱達は一致団結して、暴虐な父クロノスから、世界の覇権、その玉座を奪い取るために、新たな神族、あえて言えば国家を建てようとしていたからである。

 とまれ、長女たるヘスティアは処女神として、妹弟のために聖火と神殿を守る宣言をしたのだ。この言霊による誓約の力によって、力の代償としてヘスティアは炉や聖火と一体化し、この場から離れることができなくなってしまったのだった。そうして、この処女神は、結婚し夫や子を持つ女神としての喜びを放棄することになったのである。

「ヘ、ヘスティア姉上……」

 親愛なる姉を犠牲にしたことに大きな衝撃を受けたゼウスは、雪上に両膝を着いたまま深く項垂れたままでいた。

 首を垂れたままで小刻みに震えるゼウスの両肩に手を置く者がいた。

 右肩に手を添えながら、長男で第四子のハーデスが耳元で囁くように言った。

「立ちなささい、ゼウスよ、しっかりしなさい。貴方こそが、姉妹兄弟を導く、我らの長となるのですから」

 この長男ハーデスの声を、左肩に手を添えた次男で第五子のポセイドンが、海原さえも震わすような大声で引き継いだ。

「これは、姉妹兄弟の総意だぞ! ゼウス、お前こそが、長いあいだ閉じ込められ苦しんできた我等を、あの憎っくきクロノスの体内から救い出してくれたのだからな、ガハハ」

 両脇で自分を挟むハーデスとポセイドン、二柱の兄に驚いたような表情を向けた後で、ゼウスは、次女で第二子のデメテルと三女で第三子のヘラの方を向いた。二柱の姉達も黙ったまま首肯していた。

 意を決したゼウスは腕で目頭を拭いながら立ち上がり、姉兄達に断固たる意志を込めた眼差しを向けて、こう言った。

「姉上、兄上、否、ヘスティア、デメテル、ヘラ、ハーデス、ポセイドンよ、このオリュンポス山に集いし我ら六柱の姉妹兄弟は、クロノス王が統べるティターン神族とは完全に縁を切り、ここ霊峰オリュンポス山の頂にて、新たなる神族、<オリュンポス神族>を打ち建てることにいたそうぞっ!」

 このようにティターンからの絶縁宣言を言い放ち、新たなるオリュンポス神族の長となったゼウスは、山頂部の中でも一際大きな岩の上に登った。その瞬間、強風がゼウスの正面から吹きつけてきた。その強い向かい風のせいでゼウスの髪は後方に流れた。しかし強風に抗うかのように岩上で踏ん張ったゼウスは、両腕をがっしりと組むと、オリュンポス山の最高点から南方を見下した。

 テッサリア平原の南に聳え立っているのはオトリュス山(現在の度量衡で標高一六九四メートル)で、その山は平原を挟んで北のオリュンポス山(標高二九十七メートル)と相対する位置にあり、その頂に築かれていたのがクロノスの王宮であった。

 眼下にオトリュスの山頂部を見留めたゼウスは、胸一杯に息を吸い込むと、クロノスの王宮に向かって雷轟の如き言葉を吐き出した。

「クゥ、ロォ、ノォォォ〜〜〜ス、心して聞くがよい! 北のオリュンポス山に集いし我々オリュンポス神族は、オトリュス山のクロノス王に対して、今ここに宣戦を布告いたすっ!」 

 ゼウスによるクロノスに対する宣戦布告は世界中に響き渡った。その雷声は、オリュンポス山の南、クロノスの居城があるオトリュス山を越え、その南東、エーゲ海と地中海の境界に位置しているクレタ島のディクテオン洞窟の奥にいたガイアとレイア、二柱の母娘女神の耳にまで届いていた。

「お、お母様、つ、ついに始ま……」

 レイアの言葉を、洞窟前の地面に何かが衝突した音が遮った。そして洞窟の出入口に、頭巾を目深に被った男が姿を現した。

「計画通りぃぃぃ! オトリュスの神々であろうが、オリュンポスの神々であろうが、クロノスの血を引きし者共は、その血の最後の一滴が流れ尽くすまで戦い合えばよいのだ。ギャハハハハ」

 股の間を右手で押さえた男神の高笑いだけが洞窟の内部で反響していた。

 その憤怒と憎悪で塗りたくられた表情を浮かべたウラノスに対して、ウラノスの母にして元妻であるガイアは、娘であるレイアの両肩をしっかり抱きながら、不安と恐怖の眼差しを送っていたのだった。

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