第9話 兄姉達の救出

「あなた、お頼みしたいことがあるのですが」

 情事の後で、妻レイアが、クロノスの耳元で息を吹きかけるように囁いた。

「何事だ? お前から頼み事とは珍しいな」

「クレタ島から、わたくしの所に便りがありましたの。お母様たっての願いで、将来のガイア親衛隊<クレタス>を担う神童をここで育成してくれないか、とのことなのです」

「余の所で、母上の親衛隊を育てろというのか!」

「お母様によりますと、才能豊かな童達で、ぜひともティターン王家たるクロノス一族の許で、その才能を伸ばして欲しい、とのことなのです」

 クロノスは自尊心を擽られたような気持ちになっていた。王となった今でも母から頼られるのは息子としては嬉しいことなのだ。

 それに――

 幼い頃から、その神童達を教育し、クロノス色に染め上げれば、そやつ等をクレタ島に戻した後で間諜として利用できるかもしれない。

「わかった。母上からの申し出を引き受けるとしよう」

「あなた、クレタ島への使いの件なのですが、わたくしが赴いてもよろしいでしょうか?」

「お前自らがか?」

「ええ、しばらくお母様にお会いできておりませんので、この機会を利用したく存じます」

「それは構わぬ。が、あまり長居しないようにな。余は、お前なしでは、長くは耐えられぬのでな」

「あなた、会えない時間があった方が、再会した折、きっと気持ちがより昂まるのではないでしょうか?」

 そう言うとレイアは、考えを変えさせないようにするかにように、クロノスの上に跨ると、腰を小刻みに前後に振り出し、その夜の情事を再開したのであった。

 

 その一週間後――

 レイアは二人の神童を連れて、クロノスの許に戻ってきた。

「許す。面をあげよ」

 片膝を着いたままでいた二人の神童は、顔を上げ、その眼差しを真っすぐクロノスに向けた。

 ほう、なかなかの美少年ではないかっ!

 母の親衛隊<クレタス>候補の少年達を一目見て、クロノスは、二人のうちゼウスという名の神童が特に気に入ってしまった。

 男神であれ女神であれ、美しいものが嫌いな者が果たして存在するであろうか?

「よかろう。<侍童(さぶらいわらわ)>として余に仕えることをそなた達に許そう。以後、励めっ!」

「ありがたき幸せ」 

 再び顔を伏せた神童――ゼウスは、その口元に笑みを浮かび上がらせてしまっていた。


 ゼウスとパーンはクロノスの寵愛厚く、王はどこに行くときにもこの二人の侍童達を帯同させるようになっていた。

 そんなある日のことである。 

 クロノスは、ゼウスとパーン二人だけを引き連れて狩に赴いていた。この二柱の神童達はあまりにも優秀過ぎて、他の臣下達が一緒では楽しい狩の妨げになるからだ。

 狩の折、パーンの方が獲物を追い立てる<勢子>役についていた。この山羊神の神童が、能力<パニック>を駆使して獲物を追い立てると、獲物はまるで恐慌に陥ったかのようになって、無警戒にクロノスの前に飛び出してくる。クロノスはそれをただ射るだけで十分であった。多数の獲物を仕留めることができると、それだけで狩は実に楽しいものとなる。

 ひとしきり狩に興じた後で、心地よい疲れを覚えたクロノスは一休みすることにした。

 ここにおいて、クロノスに酒杯を捧げる役についていたゼウスの出番が来た。

 ゼウスは腰に帯びていた<豊穣の角>を取り出すと、そこに僅かな量の水と蜂蜜を入れ、かき混ぜた。すると、その奥から液体が湧き出し、角一杯に満た満ちた飲物からは芳しき香が漂い始めた。ゼウスがその液体を杯に移し、毒味しようとしたまさにその瞬間のことである。

 激しい喉の渇きを覚えていたクロノスは、ゼウスが器に口を付ける前に、この神童からひったくるように杯を取り上げると、その縁に軽く口を付け味を確かめ、飲物を一気に仰いだのだ。それは、これまで一度たりとも味わったことがない甘美なる飲物であった。

「なんだ、これはっ!! こんな美味い物、今まで飲んだことはないぞ ゼウスよ、こ、これは一体、何なのだっ!?」

「クロノス様、これは<ネクタル>というクレタ島特産の飲物でございます。我々、<クレタス>の童は、島でこれを飲んで育つ……」

「ええい、ごたくはよい。もう一杯よこせ」

 ネクタルが大層気に入ったクロノスは、ゼウスが二杯目の準備を終えるや否や、それもまた一気に飲み干してしまったのであった。

「うまい、もう一杯」

 クロノスのこの言葉を予想していたのか、ゼウスは、既に別の杯に飲物を用意していた。

 クロノスは、ゼウスからその杯を受け取すと、なみなみと満ちていた杯を瞬く間に空にした。

「うまい、美味過ぎる。ゼウスよ、褒美をと……ら…………せ、うっ、うっ~~~」

 みなまで言う前に、クロノスは腹部を押さえて蹲り、苦し気に地面でのたうち回り始めた。それは、これまで経験したことがない激痛で、クロノスは腹痛と共に激しい嘔吐感さえ覚えていた。

「きっ、き、気持ち悪い。た、助けてくれ、ゼウスよ。この苦しみを、ど、どうにかしてくれ」

「王よ、ネクタルは少々強い酒なのです。味それ自体は抜群なのですが、神によっては体質的に合わない者もおります。それを立て続けに三杯も呷ってしまったため、おしらく、激しい吐き気を催してしまったのでしょう」

「いかにすれば、この気持ち悪さが収まる?」

「それはもう、吐くしかないでしょう」

「ゼウスよ、余は嘔吐の経験がないのだ。どうすれば吐けるのだ?」

 クロノスは顔を蒼ざめさせながら、弱弱しくゼウスに尋ねた。

「わたくしがお助けいたしましょう。それでは失礼をば」

 ゼウスは、クロノスに大口を開けさせると、その中に左腕を突っ込んだ。そしてその際に、左手の掌の中に隠し持っていた液体をクロノスの体内に流し入れた。

 それは強力な催吐薬で、この薬こそが、この日のような来るべき機会のために、オケアノスとテテュスの娘で<思慮>と<助言>の女神たるメティスが調合し、彼女がゼウスに授けていた秘薬であった。

 この催吐薬を注ぎ入れた瞬間、ゼウスは、クロノスののどちんこに中指で触れ、己が左腕を引き抜いた。その直後、クロノスの腹部を蹴り飛ばして、その反動を利用して後方へ跳び、クロノスとの距離を開けた。

 激しい痛みのため、クロノスはその場で屈みこんだまま、鳩尾の当たりを両手で抑えていたのだが、胃の奥底からせりあがってくる嘔吐感に抗うことができなくなり、ついには体内から異物を吐き出してしまた。

 クロノスが最初に吐き出したのは、胃液にまみれた産着に包まれた赤子であった。

 しかし、大きな音を立てて地面に衝突した直後、その赤子の顔は濃い灰色の石へと変化した。

 その直後に、クロノスの口から這い出てきたのは、ゼウスよりも多少年長と思しき二柱の男神であった。その二柱の男神のうちの片方が、まるでつっかえ棒のようになって、クロノスの口を強引に縦にこじ開けると、残りの一柱の男神の方は、クロノスの喉奥の方に腕を伸ばし、何かを三度引っ張りあげ、それらをクロノスの体外へと放り投げた。

 それは、美しき三柱の女神達であった。

 たしかに体液にまみれてはいたものの、女神達の身体に傷一つないことを確認すると、クロノスの口蓋にを残っていた二柱の男神達もまた地面に降り立った。

 その三柱の女神、二柱の男神の方にゼウスは顔を向けた。

「お初にお目にかかります、姉上、兄上、僕はレイアの末の子、ゼウスと申します」

 初対面の挨拶を終えたゼウスは、最初にクロノスの体内から飛び出、地面に落ちていた赤子大の石を抱え上げた。

「これまで、僕の代わりをありがとう」

 そしてゼウスは、未だ腹部を押さえつけながら、地面の上を転がりまわっている王クロノスを冷ややかな眼差しで見下ろしながらこう言った。

「暴虐なる王クロノスよ。僕が、レイアの末の息子たるゼウスだっ! 救い出した兄姉達と協力し、お前を王の座から必ず引きずり下ろすことを、ここに誓おう」

「ゼウスさま、やばいよ、やばいよ。急いで逃げよう、ちょっとまずい状況だよ」

 見張りをしていたパーンが、異変を感じ取ったティターン神兵達が近付きつつあることをゼウスに告げた。

 かくしてゼウスは、兄姉共に、急ぎこの場を後にしたのであった。

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