第8話 思慮と助言の女神メティスとの邂逅
ゼウスは、オケアノスの娘達を一緒に見に行こう、という乳兄弟で山羊の神パーンからの執拗な誘いに折れて、とうとう、オケアノスの浮島を一巡りしてみる気になった。そして二人が連れ立って部屋から出ようとしたちょうどその矢先のことであった。
大洋神オケアノスと海の豊穣の女神テテュスの従者たる女神の一人が、ゼウスとパーンの部屋を訪れたのだ。
その女神の姿を目にした瞬間、ゼウスの胸は一つ大きく高鳴り、以後、鼓動は止む事なく早鐘を鳴らし始めた。
その女神はゼウス達の部屋に来る時には必ず、顔全体を布で包み、目や口元までも薄い布で覆って、その容貌が完全に分からないようにしていた。この女神こそが、毎日、ゼウスとパーンの部屋に食事を運んでくる、すなわち、二人の世話係であった。そして、この数日来、パーンが外に出掛けてしまい、独り部屋に取り残されていたゼウスは、いつの間にか、この女神と会話を交わすようになっていたのだった。
しかしながら、従者たる女神のこの日の訪問の理由は、食事の配膳ではなかった。
「ゼウス様、パーン様、我が主オケアノス様が御会いしたいと申し上げております」
かくしてゼウスとパーンは、オケアノスの娘達の覗き見という当初の予定を変更せざるを得なくなり、その女神に連れられて謁見の間に向かうことになったのだった。
「呼び出しがあるまで、しばしの間、ここでお待ちください」
その女神は、控えの間にゼウスとパーンを残し、独りオケアノスの許に戻って行った。
そこから時は少し遡る。
オケアノスとテテュスは、母である大地母神ガイアから、今や世界の王となっているクロノスの打倒に協力するように、という打診を受けていた。
ガイアの申し出に対する返答は、結局の所、協力するか協力しないかの二択なのだが、その判断に一族の命運がかかっていると思うと、海を司どる夫婦神は、決断を容易に下せぬまま数日を送っていたのだった。
この間、何らかの決断の切っ掛けになればと思い、オケアノスは、一族の重鎮を成す息子と娘の一柱一柱を島に召集し、何れを選択すべきか、そして、それは如何なる理由によってか問い質していった。しかし、どの意見も決断を下すには決め手に欠けた。そして、戯れに、その愛おしさのあまり己の側に置き続けていた末娘の女神メティスに意見を聞いてみる事にしたのだった。
「メティスよ。クロノス打倒に協力するか否か、それが問題なのだが、この件に関して、そなたはどうすればよいと思う。そなたの判断とそう考える理由を聞かせてもらいたいのだが」
給仕を終え、ゼウスの部屋から戻ったばかりの娘神は、容貌を隠すために頭部を包んでいた布を取り外しながら、父にして川と泉の神族の長たるオケアノスの問いに、こう返じた。
「祖母たる大地母神ガイア様の依頼を受け、クロノスに対して反旗を翻すべく、あの神童に協力すべきだと、わたくしは考えます」
<思慮>と<助言>の女神たるメティスはさらに続けた。
「お父様、お父様は、大地母神ガイアが産んだ長兄であり、本来ならば、ティターン神族の主神として、世界を支配するべきは父上であってしかるべきです。そもそも、万物の始原たる神は、大洋と海の豊穣の夫婦たるオケアノスとテテュスであるはずです。しかしながら、目下、父上の弟、しかも末子であるにもかかわらず、かの暴君クロノスが世界に君臨し、神々を、我が一族さえも支配下に置いているのが実情です。今こそ、父上が世界の覇権を握る機会が到来したのではないでしょうか!!」
メティスは、激しくはないが断固たる決意を込めて父にそう具申した。
「しかしです。我が一族が表に立ってはなりません。お婆様が遣わせたあの者を矢面に立たせるのです」
「かのクレタスの童達をか」
「お父様、彼等はクレタスではありませんよ。半獣神ではない方、ゼウスという名の方は、わたくし達と同じティターン族の神童です」
「何だとぉぉぉ~~~!! メティス、どうしてお前にはそれが分かるのだ?」
「お父様、わたくし、無為に、毎日、かの者の部屋に行っていたわけではありません。あの者との日々の会話を通して、わたくし察しましたの。お父様の弟妹君、どなたの御子かまでは判然とはしません。しかし、あのゼウスという神童が、我らの神族の一柱であることは確かなこと。いずれにせよ、あの者を反乱の主として祀り上げるのです。彼の者に暴君クロノスを打倒させ、玉座に据え、そしてお父様は、ゼウスの後見として裏から世界を支配するのです。我々河川と泉のオケアノス一族はその数六千以上、それこそ一族の者達は世界中至る所に拡がっておりますし、こうした数の力は世界を支配する上で大いなる力になることでしょう」
「仮に、だ。彼の者が玉座に就いたとして、彼奴が素直に我が言に従うであろうか?」
「お父様、私に考えがあります。今から、彼の者達を謁見の間まで呼び出してください。この<思慮>と<助言>の女神たるわたくしメティスに計略があります。まずはお耳をお貸しください」
そう言って、メティスは小声で父オケアノスに自分の計画全体を打ち明けた。
その様子を見ながら、母たる女神テテュスは、自分の娘ながら、その知略、権謀術数に脅威を覚えていた。
ゼウスとパーンが謁見の間に入った時、そこに居たのは、一族の長たるオケアノスとテテュスだけではなかった。夫婦神の背後には、自分達の給仕係を務めていた覆面の女神が控えていた。
「大地母神ガイアの使者たるゼウスよ。我が一族の決断をここに伝えよう。我等は、クロノス打倒に関して、そなた達への協力はいたしかねる」
片膝を着いた姿勢で、首を垂れていたゼウスは、そのオケアノスの判断を耳にしながら、唇を強く噛み、思わず両手を強く握り締めてしまった。その力強さのあまり、爪は掌に食い込み、そこから血が滴った。
「ただし、である。そなた達がクロノスと戦うことになったとしても、我がオケアノス一族は、クロノス側に味方することもせぬ。これを我が一族の総意とする」
すなわち、オケアノスは中立の立場をとり、クロノスとの<マキア(戦争)>には参加しないことを告げたのである。オケアノス一族の総数は六千を越え、ティターン神族における最大勢力である。つまるところ、オケアノス達が、クロノスとの戦いに参加しないということは、それだけで戦力面でクロノスの力を削ぐことになる。この申し出は、自分達への<消極的>な協力であるようにゼウスには思えた。
しかし、である。
「このゼウス、オケアノス様の真意を理解することはできました。しかしながら、クロノス側には味方しないという何らかの保証が欲しいのです。それ無くしては、我々も、クレタ島にいるガイア様に報告できません」
しばしの沈黙が謁見の間に流れた後で、オケアノスは自らの背後に控えていた女神を傍に呼び寄せた。
「大地母神ガイアの使者たるゼウスよ、面を上げよ」
ゼウスが顔をあげると同時に、オケアノスの側に控えていた女神が、頭や顔を隠していた布を取り外していった。
そこに現れたのは、美貌を誇るオケアノス一族の女神や精霊の中にあってさえ際立って美しい女神であった。
隣で控えていた好色なパーンが唾を飲み込む音がゼウスの耳に届いた。
「我が末娘、どこにも遣らず、絶えず我が許に置いていた最愛の娘である、このメ、メ、メ……」
ここで言葉を詰まらせてしまい、大海の神たるオケアノスが嗚咽を漏らし、その両目に溢れ出した大粒の涙が零れ落ちた。
すると、大海原は荒れに荒れ、大波が島に押し寄せてきた。
「大丈夫です、お父様、海が荒れております。落ち着いて、気をお鎮めになって下さいませ」
父の広い背を摩りながら、その少女は屹然として言った。
「後は、わたくしが父の言葉を引き継ぎましょう、この<思慮>と<助言>の女神たるメティスが、オケアノス一族を代表して、ゼウス様、その『保証』としてあなたと共に参りましょう。これで不服はございませぬでしょう?」
ゼウスから視線を決して逸らすことなく、オケアノスの娘メティスは、そう宣言したのだった。
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