第7話 パーン、パニック、パーンフルート

 <世界>の表面は円盤状になっている。その世界の最果ての地である外縁を大きな海が取り囲んでおり、その大海を支配領域としていたのが、ティターン神族の長兄オケアノスであった。大洋の神オケアノスはまた、海流の流れをも司っており、それゆえに、オケアノス一族が住まいとしていたのは大海を漂う浮島で、その島は一定の地に固定しておらず、世界の外縁を絶えず周回していたのだった。

 そのため、クレタ島を旅立ったゼウスとパーンが、世界の外側を流れ行くオケアノスの浮島を発見するのは容易なことではなかった。

 島に到着したゼウスは、クロノスの息子という自らの身分を明かすことなく、自分達はガイアの親衛隊たるクレタスの少年兵だと告げ、大地母神ガイアの使者としてオケアノスに謁見し、女主人から託された<記録の石>をオケアノスに手渡したのだった。

 母ガイアからの言伝を確認したオケアノスは、一瞬だけ顔色変えると、妹にして妻であるテテュスだけを自室に呼び入れ、そのまま出てこなくなった。

 残されたゼウスとパーンは、オケアノスとテテュスの話がまとまるまでの間、島内で待つようにという指示を受けた。

 そして、未だ答えが出ぬまま数週間が経過したある夜のことである。

 ゼウス達が宿舎として宛がわれていた部屋の扉が静かに開いた。

 ゼウスの耳に届いてきたのは、夜陰に紛れて忍び込んできた四つの足音であった。

「おい、パーン」

 どうやら変化させた人型の二本足ではなく、パーンは本来の四足獣の姿で戻ってきたらしい。

 暗闇の中から突然名を呼ばれ、パーンは文字通りに飛び上がってしまった。そして地に足を着いた時には二足の姿へと変化していた。

「驚かさないでよ。ゼウスさま。おいら<パニク>ちゃったじゃないか」

「『ぱにく』、いったい何だそれ、どういう意味だ?」

「おいらが、この前つくった言葉だよ。実は、最近こんなことがあったんだよね……」

 自身が作り上げた言葉の由来についてパーンは次のように語り始めたのであった。


 オケアノスとテテュスのティターン神族の夫婦神の間での談合が続く中、ゼウスの方は、大人しく部屋で待機していたのだが、パーンの方はというと、じっと留まっていることができず、昼となく夜となく出掛け、戻ってくるのは決まって明け方近くという毎日を送っていた。

 そんな朝帰りを続けるパーンに対して遂に、ゼウスがその理由を詰問した所、パーンはこう返答したのだった。

「だってさ、おいら達、いつまでこの浮島にいられるか分からないんだよ。ゼウスさまも外に出て、誰でもよいから、ニュムパイ(単数形はニュムペ)に会ってみなよ。オケアノス様の娘さん達、まじ、<妖精>なんだからっ!」

 ある日、部屋で引き籠っていることに我慢ができなくなったパーンは、何か面白いことはないかと思い立って外へと飛び出した。しかし島を一巡りし、散策にも飽きてしまったパーンが木陰で昼寝をしていた時のことである。

 その近くの泉では、オケアノスの娘達が水浴をしていた。偶然目にした精霊の娘達は誰も彼もが可愛らしく、その裸体を見ながら股間に手を擦り付けると、気持ちが良いことにパーンは気付いてしまった。

「本当に、みんなキャワいくってさ。おいらも、初めのうちは、草むらや茂みに隠れて、そこから女の子達が水浴びしているのを、モジモジしながらじっと眺めているだけだったんだけど……。でも。そのうち、なんな、もうもう、おいら、股間の辺りがムズムズ、気持ちがムラムラしてきて、変な気持ちになっってきて……」

「キャワいい」とか「モジモジ」、「ムズムズ」あるいは「ムラムラ」とか、パーンの言葉遣いには独特の表現が多かったのだが、それにもかかわらず、パーンの言いたいことがゼウスには的確に伝わってきた。これが乳兄弟というものなのだろうか?

「それでさ、ムラムラしたおいらは、自分で自分を抑えることができなくなって、遂に我慢できずに草むらから飛び出しちゃったんだ」

 抑制が効かなくなったパーンは人型の姿でいることができなくなって、額には二本の角、髭は濃く、上半身は毛深い人、下半身は山羊、足は蹄という本来の姿で、隠れていた茂みから出てしまったのだった。

 突然出現した、これまで見たことがない半獣神の姿を目にして、オケアノスの娘達たる泉の精霊達は完全なる恐慌状態に陥ってしまった。

 一方、驚かれたパーンの方も、どうしたらよいのか分からなくなって、精霊達をさらに驚かすような絶叫を上げてしまった。すると、そのパーンの叫びが泉のニュムパイの驚愕に拍車をかけ、彼女達は四方八方に逃げ出していった。

 パーンは自己弁護しようとして、逃げ出した美しき精霊の一人を追っていった。しかしそのうち、追えば追うほど、そのはニュムペは逃げ回り、パーンにはそれが次第次第に楽しくなってしまった。

 そして明くる日以降、誰でもよいから泉のニュムペを待ち伏せし、茂みから飛び出すと、そに娘を驚かせると、逃げ回る精霊を追いかけ回し、そして捕まえたニュムペと肌と肌を合わせることに、パーンはすっかりハマってしまったのだった。

 そんな日々の中、驚いてどうしたらよいか分からなくなって考えがこんがらかってしまう<状態>のことを、パーンは<パニック>と呼ぶことにした。するとどうであろう。この<命名>行為の後、パーンには、考えただけである特定の相手を恐慌状態に陥れる能力が備わり、こうした能力を手に入れたパーンは狂喜乱舞した。


「ところで、話を聞いていた際に気になったんだけど、パーン、お前が右手に持っている、その……、見たことない細長い物っていったい何?」

「ああ、これね」

 パーンは、それに口に当て、息を吹き掛けた。

 すると、それから、今まで聴いたこともないような音色が流れ出したのだ。

 ゼウスは、それに耳を傾けているうちに陶然としてしまった。

「いったい、それは何なんだ? どこで手に入れたんだ? この音に何か秘密があるのか?」

 矢継ぎ早に質問をを投げ掛けてくるゼウスに、パーンは、この音の調べを奏でる不思議な物を手に入れた経緯に関しても語り始めた。

 ある日、いつものように、パニックに陥れる手頃な美精霊を探していた時のことである。泉で水浴している一人のニュムペがパーンの目に止まった。

「よしっ。今日は、あの娘に決めた」

 そう独り言ちたパーンは、そのニュムペを対象に<パニック>を発動させた後、半獣神の姿で草むらから飛び出した。案の上、その娘は、驚愕の叫びを迸らせながら逃げ出した。パーンは、いつものようにニュムペとの追い駆けっこに興じ、その後、男女の間でする楽しい事をしようとした。

 そして、娘を河畔にまで追いつめて手を取った時、そのニュムペは、パーンから逃れるために、自身を一本の葦に変化させてしまったのだ。

 それからパーンがその葦に声を掛けてみても、触れてみても、葦が元の少女の姿に戻ることは決してなかった。パニックになって葦に変化してしまったため、元の精霊の姿への戻り方が分からなくなってしまったらしい。

 それ以降、パーンは、その葦のことが気になって、毎夜、明け方まで傍で過ごすようになっていた。

 そして、つい先だってのことである。パーンの耳に囁くような声が届いてきた。しかし周囲を探ってみても誰も見当たらない。

「ぉ、お願い、わ、わたしを、ぁ、あなたと一緒に、ぃ、いさせて下さい」

 声の主は葦に姿を変えてしまった泉のニュムペであった。

 毎夜一緒に過ごしているうちに、葦へと変わった泉のニュムペもまた、パーンのことが気になるようになっていた。そして夜が明けてパーンが帰って行った後、頭の中を占めるのはこの半獣神のことばかり、昼の間もパーンに会いたいという強い願いが、泉のニュムペに発声する力を与えたのであった。

 このまま元の姿に戻れず一本の葦であり続ける運命ならば、どんな在り方でもよいから、パーンの傍にいたいと強く願ったのだった。

 かくしてパーンは、この葦を材料とし道具を作り、この音を奏でる道具を楽器、その楽器を<パーンフルート>と命名し、これを吹くことによって、かの泉の精霊を愛でることにしたのである。

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