第6話 ゼウスの旅立ち
地中海の東部、エーゲ海の南側に浮かぶ島、クレタ島は大地母神ガイアの直轄地であった。
父ウラノスを追放し、クロノスが新たに玉座に就いた後、王太后となったガイアは、ペロポネソス半島中部のアルカディア、そのリュカイオン山の麓に本拠を構え、そこで独り暮らしをしていたのだが、ガイアは、ペロポネソス半島の南東に位置しているクレタ島を頻繁に訪れ、ここを別宅として心静かに過ごすことを好んでいた。そのため、息子クロノスに、静養のため、しばらくクレタ島に赴くことを告げた際にも、クロノスは母に対して何ら疑問を覚えることはなかったようである。
そして、娘レイアからゼウスを委ねられたガイアは、勝手知ったる自分の領地に、信頼に値する己の直臣達を集め、孫たるゼウスの養育と警護に当てることにしたのだった。
まず、クレタ島のトネリコのニュムパイ姉妹、姉のアドラステイアと妹のイーオ、そして、牝山羊のニュムペであるアマルテイア、これら三柱のニュムパイにゼウスの養育を担当させた。
牝山羊のニュムペたるアマルテイアが乳母となり、その山羊の母乳をゼウスに飲ませた。アマルテイアには生まれたばかりのパーンという名の息子がおり、パーンもまたアマルテイアの母乳を飲んで育って、文字通りのゼウスの乳兄弟となった。パーンは羊と山羊の半獣神であり、その姿は、頭に小さな角、上半身は人、下半身は山羊であった。
アマルテイアの山羊の角は神性を帯びており、その二本の角から溢れ出るのは、神の飲料たるネクタルと、神の食物たるアムブロシアであった。そしてゼウスが乳離れをする段階になった時、アマルテイアは、自身の二本ある角のうちの一本をへし折って、それを、トネリコのニュムパイ姉妹に渡したのだった。
神飲物ネクタルと神食物アムブロシアは不老不死性を帯びている。そのため、神の眷属とは言えども、乳幼児期にこれらを摂取した場合、その状態で成長が止まってしまう可能性があった。そこで、アドラステイアとイーオは、本体であるアマルテイアから切り離された結果、神性たる不老性が弱まった角を果実や蜂蜜で一杯にし、それらを赤子たるゼウスに食べさせ、その成長のみを促進させたのだった。ちなみに、ゼウスの育児のために用いられたこのアマルテイアの一角は、後に河川と泉を司るオケアノス一族の手に渡り、その角の所有者の願いに応じて、あらゆる飲食物を満ち溢れさせる<豊穣の角(コルヌ・コピア)>という宝具となる。
そして、クレタ島のディクテオン洞窟の入り口で、武器を手に取って護衛の任に就いていたのが、大地母神ガイアの親衛隊であったクレタ島の下級神クレタス(単数形クレス)であった。これらの青年神は、美しき女神ガイアの命令にしか従わないガイアの忠実な従僕であった。
ウラノスとガイアが構築したクレタ島の結界、神の家たる<ドムス>は、クロノスの神眼を阻害することはできても、島から漏れ出る物理的な音までは妨げることができないという構造上の欠点を有していた。
自らの子供によって打ち滅ぼされるという父ウラノスの呪いの言葉に悩まされていたクロノスは、世界各地に情報網を拡げ、目を光らせ耳を聳たせて、赤子の誕生を注視していた。そしてクロノスは、ティターン神族に子が誕生した場合、赤子を連れて、王に謁見することを義務付てさえいた。そういった事情もあり、クレタ島のディクテオン洞窟の入口で槍と縦を携えたクレタスの役目とは、洞窟内の黄金の揺り籠で眠る幼いゼウスが鳴き声を上げた場合に、楯に槍を打ち付けながら大声で喚き踊り狂うことによって、赤子の鳴き声がクロノスの耳に届かないようにすることであった。
しかし、ある日のことである。
クレタ島で繰り広げられる過剰な喧しさに苛立ちを覚えた王クロノスは、騒音を止めさせようとクレタ島のガイアの許に、自身の配下の者を送り出した。
その時のガイアの対処は迅速であった。
ガイアは、牝山羊のニュンフたるアマルテイアを傍らに侍らせ、その子パーンを自身の膝の上に乗せた。それから、育児係のトネリコのニュムパイ、アドラステイアとイーオの姉妹を熊に変化させ、その背後に控えさせた。そして最後に、孫のゼウスを大蛇に化身させると、己が上半身に巻き付けた。
「ガイアさま、この揺り籠は、いったい?」
洞窟に入ってきたクロノス配下の者は、黄金の揺り籠を指し示しながら、そうガイアに問うてきた。
「この子のものですが、何か? 本当に可愛いでしょ。今のわたくしの一番のお気に入りなの……」
そう言いながら、ガイアは、膝上のパーンの頭を愛おしそうに撫でたのだった。
それまでガイアの上半身に巻き付けられた大蛇に注がれていたクロノスの配下達の視線は、大地母神の膝上に向けられた。
ガイアの膝上には、上半身が人、下半身が四足獣の半獣神の赤子が乗せられていた。その異様さを目にしたクロノスの配下の者達は、仰天して思わず叫び声を上げてしまった。
その驚愕を耳にして、驚いたパーンが大声で泣き声を上げ出した。
気まずさを覚えたクロノスの配下は、あまり騒音を立て過ぎないようにとのクロノスからの言伝のみをガイアに伝えると、そそくさとクレタ島を後にしていった。
「どうにか誤魔化せましたね。しかも、今後は赤子が泣いたとしても、パーンの鳴き声と言い張ることもできます。勿怪の幸いですね」
かくして、ガイアは、ゼウスの存在がクロノスに露見することを、その機知によって防いだのであった。
そうして一年の月日が流れ去った頃には、<豊穣の角>の効果もあり、四肢はすらりと伸び育ち、思慮も十分に発達し、ゼウスは立派な<神童>へと成長していた。
そんなある日のことである。
祖母たる大地母神ガイアが、ゼウスが隠れ住むディクテオンの洞窟を訪れた。
「親愛なるゼウスよ。私に予知が降りてきました。そなたにとっては伯父にあたる大海の神オケアノスの許に赴きなさい」
オケアノスは、ウラノスとガイアの長子であり、末の妹であるテテュスを妻とし、その二人は、ありとあらゆる河川と泉の神と精霊の父母となっていた。
「おばあさま、伯父オケアノスの所で、僕は一体何をすれば?」
「残念ながら、それは私にも分かりません。このように先の見通しが全く不明瞭な予知は、実は初めてなのです。それにもかかわらず、あなたをオケアノスの許に送らねばならないという強烈な想念だけが私の頭と心を刺しているのです。ただ一つ分かっていることは、オケアノスの所でこそ、あなたの未来が開かれることになる、ということだけ。この先の未来が、どう展開してゆくかは、ゼウス、きっとあなたの選択次第なのでしょう」
ゼウスは心の中で喜びの絶叫をあげていた。
この一年、父クロノスの目からこの身を隠すために、クレタ島どころか、ディクテオンの洞窟から出ることさえ許されていなかった。それがやっと外に出られるのだ。外の世界には、一体どのような未知が満ち溢れているのであろうか? それを想像するだけで胸の鼓動が期待感で速まってゆく。
「物々しくなっては他者の目に止まることになります。護衛としてクレタスを付けることはできませんが、供を一人用意いたしました。此れへ」
ガイアが一拍手すると、洞窟の入り口に二足で立つ影が現れた。
ゼウスは、折角自由を謳歌できるのだから独りで旅したいと考えていたので、内心、祖母ガイアの配慮は要らぬお世話と思ったのだが……。
「ゼウスさま、これからもよろしくな」
「えっ! パーンなの? なんで二足なのさ! 山羊の四つ足は?」
「下半身が獣のままでは、人目を惹き過ぎます。私が変化の能力をパーンに授けました」
「そうゆうこと、自由自在に変化できるんだよ。未だ二足歩行に慣れてないんだよね」
そう言ったパーンは、パンと手拍子を一つすると、本来の姿である半獣神の姿に戻って見せた。
かくして、神童ゼウスは、<豊穣の角>を腰に帯び、乳兄弟たるパーンを供として、生まれ育った島クレタ島から旅立つことになったのである。
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