第5話 ゼウス生誕
不可思議な仮面の男から秘策を授けられたレイアは、何事もなかったかのようにクロノスの王宮に戻った。
その日を境に、クロノスは、父ウラノスの呪詛の悪夢を全く見なくなり、深く眠ることができるようになっていた。
そしてある夜のことである。
妻との情事の後、深い眠りに陥っていたクロノスは、レイアが寝床から抜け出したことに全く気が付かなかった。
陣痛を覚えたレイアは、その痛みに耐えながら、王宮を抜け出した。
レイアは、まっすぐ、ペロポネソス半島の中央から東部にかけて位置し、周囲から山々に隔てられた高原地帯アルカディアに向かった。その山の一つがリュカイオン山で、その山頂が仮面の男との待ち合わせの地であり、子を産む日の真夜中にこの山の頂に来ることが仮面の男からの指示であった。
リュカイオンの山頂は、生物の気配が全く感じられない寂しい場所であった。その山頂部の真ん中に仮面の男が股に手を当てながら独り佇んでいた。
「ようやっと参られましたな。お待ちいたしておりました。さあ、私の腰に手を回しなさい。空を渡ればクレタ島までは一瞬です」
クレタ島は、地中海の東部、エーゲ海の南の縁に位置している島である。島の北西側には、アルカディオンのリュカイオン山が位置しているペロポネソス半島が、島の東側にはカソス海峡を挟んで、十二の島を意味するドデカネス諸島の一つカソス島がある。
クレタ島の東部に位置しているリュクトス、そこはに木々が鬱蒼と生い茂った深き森に覆われたアイガイオン山があり、その山頂からはカソス島が臨むことができた。
アイガイオン山の頂に降り立った仮面の男とレイアは山路を下り、その中腹にまで至った。そこには幾つもの洞窟があり、その洞窟の一つ、ディクテオン洞窟から一つの影が姿を現した。
「お、お母さまっ! 何故、ここにっ!」
「それは……」
ガイアの返答を、仮面の男が引き継いだ。
「それはこういうことだ」
男は、顔を覆っていた仮面をゆっくりと取り外した。
「あ、あなたは、お、お父様っ!!!」
レイアの脳裏には、父ウラノスに奈落に落とされた時の幼き日の記憶が蘇ってきた。ウラノスに対して抱いている根源的な恐怖を抑えることができず、無意識のうちに小刻みに震える両肩に自分の両手を当てていた。恐怖に縛られた娘レイアの肩を、その上から母ガイアが優しく包み込んだ。
「レイア、落ち着きなさい」
母の言葉と、その抱擁によってレイアは心の平静をなんとか取り戻すことができた。
「レイア、ウラノスが、あなたの出産に手を貸して下さるそうです」
「クロノスは今深い眠りの中にあります。しかし、彼が目を覚ました後、いかにすれば、かの王の抜け目なさを誤魔化すことができるのでしょうか?」
「結界を張る。こうしてだ」
ウラノスは、乱暴にガイアを引き寄せると、その胸を強く揉みしだきながら、ガイアに口付けし始めた。ガイアの口、唇、頬、首筋、腋、乳房、腹部、太もも、足、そして足の指へと、ガイアの全身にその舌を這わせてゆく。ガイアの口からは喘ぎが漏れ出していた。
レイアは、何故かその父母の情交から目を反らすことができなかった。
ウラノスがガイアの身体の各所を愛撫する度に、二人の周囲から不思議な力が拡がっているようにレイアには感じられた。もし仮に、その力を可視化できるとしたならば、父母の周りから同心円状の線が水平方向に波紋のように拡大し、それは島の外縁にまで至り、島全体を取り囲んでいたことだろう。そしてさらに、その力は上方に向かって伸びてゆき、その垂直方向の力の上昇が止むと、それを天頂として半円形の丸屋根が形成され、かくして水平方向と垂直方向、立体的にクレタ島を完全に覆い尽くすドーム形の結界が完成した。それは、ウラノスとガイアの情交の終了と同時であった。
力を使い果たしたかのように、その場でへたり込んだ母ガイアの許にレイアは駆け寄った。
「お、お母さま、これはいったい!」
息を切らせながらガイアは応えた。
「ウラノスと私ガイアの力、すなわち、天空と大地の力を一つにして、クレタ島の周囲に小さな<世界>を創造しました。<ドモス>、すなわち<神の家>をここに作り上げたのです。ドモスが強力な結界となって、島の外からの介入を防ぐことが可能となるでしょう。ここまでは、クロノスの千里眼も届きますまい」
「ただし、だ」
再び、ウラノスがガイアの言を引き継いだ。
「ただしだ。千里眼は妨げることができても、物理的な視覚や聴覚までは阻害できない。外から島は普通に見えるし、島からは声や音も漏れ出てしまう。忌々しいが、ガイアと一体化しても、愛撫だけではこの程度の結界しか張れん。男根無きこの身体では、これが限界だ。くそっ、クロノスめっ!」
ウラノスは「クロノス」という固有名詞を憎悪で塗り尽くしているかのようにレイアには思えた。そうして同時に理解した。父ウラノスはその性根が変わったわけではない。自分の出産に協力しているのは、あくまでもクロノスに対する復讐のためなのだ、と。それでも、それでもだ。無事に我が子を産むことができるのならば何だって構わない。
「うっ!」
その時、レイアの頭から爪先まで、全身を電撃のような激しい痛みが貫いた。
「レイア、こちらに」
娘の様子に気付いた母ガイアは、入り組んだディクテオン洞窟の奥に設営しておいた産所にレイアを誘った。
そこには、レイアの神木である樫の樹で作られた円柱が備え付けられており、レイアはその柱にしがみ付いて、六柱目の子を産んだ。
そして――
その子をゼウスと名付けた。
「レイア、もう、そろそろ時間が……」
ガイアは娘に声を掛けた。
ガイアとの情交を終えるやウラノスは天空の彼方に飛び去って行った。
そしてレイアが出産している間、ウラノスは、夜の女神ニュクスを呼び止め、夜の引き延ばしを図った。しかし、それもそろそろ限界を迎えたようだ。ニュクスの戻りが遅いことを気にしてか、昼の女神ヘメラの光の力が世界の端で見え隠れし始めたからだ。
レイアは産まれたばかりのゼウスをもう一度だけ強く抱き締めると、その赤子を母ガイアに手渡した。
「わたくしがこの子を、このディクテオンの洞窟で立派に養い育て上げましょう」
そう言うとガイアはレイアに、産着で包んだ赤子大の石を渡した。その大きさも重さも、先ほどまでレイアが抱いていた赤子と全く同じであった。
「念には念を、魔法をかけましょう」
ガイアは石の表面をゆっくりと静かに撫でた。すると赤子大の石が赤子の姿に変わった。
「視覚を幻惑する魔法です。石に産声を出させることはできないので。念入りに調べ上げられたら、クロノスを誤魔化し切ることはできないかもしれません……。しかし何もしないよりはましでしょう」
「ありがとございます。お母さま」
レイアは母ガイアに息子ゼウスを委ね、明るみ始めた夜闇を切り裂くように、クロノスが眠る王宮へと駆け戻っていった。
クロノスが目覚めると、そこには、妻レイアが、何かを抱えながら跪いていた。
「クロノス、わたくしは、子を産みました」
「ほう。我に呑み込まれる運命にあるというのにな」
「これまでは、わたくし、赤子を助けたくて、あなたに見つからないようにしてきました。しかし全員を奪われ、正直疲れてしまいましたの。子を救いたいという希望を抱くからこそ、奪われた時の絶望も大きく深くなり、苦しくなるのです。だから、わたくし、希望は捨てました。望まなければ絶望もありませんから……」
そう述べたレイアは、手を震わせながら産着で包んだ物体をクロノスに差し出した。
「ようやく素直に渡す気になったか。お前もやっと俺の気持ちが理解できたるようになったのだな」
「あっ!」
クロノスは産着を手で掴み、それを中空に放り投げた。そして落ちてきた物を口で受け止め、そのまま一息でそれを丸呑みした。
レイアは、惨状から目を逸らすかのように俯いたままだった。そしてクロノスに聞こえないように独り言ちた。
「ゼウス、どうかクロノスに見つかることなく、クレタで無事に成長してちょうだい。あなたのためならば、わたくし何でもいたしますから」
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