第4話 ウラノスの呪言、クロノスの悪夢

「呪ってやるっ! クロノスぅぅぅ~~~! やがてぇ貴様もぉいつの日かぁ、己が息子にぃ玉座を奪われることにぃなるだろうぅ。必ずだぁ~~~」

 夢の中に姿を現した父ウラノスは、何度も何度も繰り返し呪詛の言葉を投げ放ってくる。それが頭の中で反響し、クロノスを苛み、新王は絶叫を迸らせながら寝床から跳ね起きた。

 このような悪夢にうなされるのはこの日が初めてではない。父ウラノスの追放の日以来毎日なのだ。

 隣では、姉にして妻たるレイアが心配そうな眼差しで自分を見つめながら、唯の一言も言葉も発さずに額の冷汗を拭っていた。

 クロノスは、そんなレイアと顔を合わせるや、情欲が魂の奥底から沸々とわき上がってきて、彼女を寝台の上に強引に組み伏せると、たとえ一時であれ欲望で悪夢を塗り潰さんとでもするかのように、この日もまたレイアを肉体を激しく求めたのであった。

 そんな毎日がしばらく続いたある日のことである。

 満面の喜びの色を浮かべたレイアが、弟にして夫であるクロノスの許を訪れた。

「あなた、お喜びください。子ができました」

 そうクロノスに報告しながら、レイアは己が腹部を見詰めながら静かに何度もお腹を撫でていた。その様子を青ざめたクロノスが冷めた心で黙って眺めていた。


 やがて、レイアの出産の日が訪れた。

「ぅ、ぅ、う~~~」

 レイアは、自らの神木である樫の柱にしがみ付き、地に両膝を着いた出産姿勢で苦し気な呻き声を発していた。

 その苦しみの声が止むと同時に、母の呻き声に赤子の鳴き声が取って代わり、レイアの聖なる母胎から彼女の膝に新たな命が産み落とされた。

 王の最初の子は女の子であった。

 その子を抱き上げた父となったばかりのクロノスは、我が子をじっと見つめながら、娘をその顔に近付けた。

 頬ずりでもするのであろうか? それとも、赤子をあやすつもりであろうか? 母となったばかりのレイアは、脱力状態のまま柱に寄り掛かりながら、父と娘の初対面の様子を微笑ましく眺めていた。

 しかし――

 それは一瞬の出来事であった。

 クロノスが生まれたばかりの我が子を一吞みにしたのだ。

「あ、あなた、一体何を!」

 レイアは叫びを上げながら、出産直後で力が入らぬ身体を必死に動かしてクロノスの傍まで行くと、その両脚にしがみついた。

「こうするしかないのだ。父ウラノスの呪いを実現させぬためには……。たとえ我が子であったとしても、他の誰にもこの名誉ある玉座を奪わせたりはせぬぞっ! 不死なる我こそが神々の王として永遠に君臨し続けるのだ!」

「何も嚥下せずとも、他にも何か方法があるはずです」

「ええい、黙れ。父ウラノスと同じ轍は踏まぬ。父は、我ら兄弟姉妹をタルタロス(奈落)に閉じ込めただけだった。そのため、我にその玉座を奪われたのだ。不死なる神々たる我々は世に誕生したからには、もはや殺すことはできない。だから、我自身が子を閉じ込める牢獄となることこそが最善にして最良の策なのだっ!」

 そう講釈を垂れたクロノスは、自分にしがみついているレイアを強引に押し倒し、彼女を抱いた。

 く、狂っている……。レイアは瞳に涙を浮かべた。しかし、狡猾にして暴虐なクロノスには抗うことはできず、暴夫のなすがままになるしかなかった。


 その後、レイアは四たび懐妊した。

 そして、夫に妊娠の事実をひた隠しにし、毎年、密かに子供達を産んだ。

 たとえば、三女のヘラは、エーゲ海の東に浮かぶ島サモス島で産み落とした。

 しかし、世界中に情報網を広げ、目を光らせているクロノスを欺き通すことはできず、レイアが産んだ最初の子ヘスティアも含めて、三女二男の五柱の子供達は全てクロノスに吞み込まれて、その体内に閉じ込められてしまった。

 我が子を抱くことすら許されないレイアは悲しみに暮れた。


 そして、レイアは再び身籠った。

 この子だけは、なんとしても救いたい、その思いに駆られたレイアは、大地の女神ガイアを密かに訪れ、母に助言を請うた。

「お母さま、どうか、お知恵をお貸しください」

「許しておくれ。レイア、慎重過ぎる神々の王クロノスの用心深さを欺けるような良き考えは全く思い浮かばないのです」

「そ、そうですか……」

 落ち込みながら立ち去ってゆくレイアの背中を見送りながらガイアは心の中で再び娘に謝った。

 許しておくれ。レイア。ウラノスの言葉に囚われたクロノスが妄想しているだけの話ではないの。私にも同じ予言が降りてきたのです。我が子クロノスが実の子によって打ち負かされる運命にある、と。私には未だ見ぬ孫よりも我が子の方が愛しいのです。


 母ガイアの許を後にし、気を落としたまま歩を進めるレイアに声を掛ける者がいた。

「もし、そこの御婦人」

 道端に座っていたその男は、外套で全身をまとい、頭巾を被っていた。その頭巾の男は、さらに仮面さえも着け、顔を完全に隠していた。いかにも胡散臭げな雰囲気で、通常の精神状態ならば、おそらくレイアも無視して歩き去っていたことであろう。しかし、親愛なる母でさえ答えてくれなかった問題を、誰でもよいから聞いてもらいたいという必死の思いを彼女は抑えられなかった。肉親ではないからこその話し易さもあるし、全くの他人との会話の中で何らかの妙案の切っ掛けがあるかもしれない。それより何より、仮面の男の声は抵抗できないような不思議な力を帯びており、結果、レイアは引き寄せられるように両手を握りしめたまま男の前に膝を着き、いつの間にか全てを打ち明けていたのだった。

「……。それで、いかにすれば、抜け目ない夫の目を掻い潜って、人知れず、我が子を産むことができるでしょうか?」

「そうですね……。良い考えがあります。クレタ島のアイガイオン山に赴きなさい。彼の地には入り組んだ洞窟があります。そこで御子を産むのです」

「それで夫の目をごまかすことが可能でしょうか?」

「そこのディクテオン洞窟に、赤子大の石を用意いたしましょう。その石を産衣で包み、夫に渡して吞み込ませなさい」

「は、果たしてうまくゆくでしょうか?」

「試してみる価値はあると思います。僭越ながら私がクレタ島まであなたを連れて行ってさしあげます。出産する日の真夜中に、アルカディアのリュカイオンの山頂にいらしてください。そこであなたの来訪を待つことにいたしましょう。それでは御免」

 そう言うと、仮面の男は、座ったままの姿勢で膝だけで跳び上がると、そのまま天空の彼方へと飛び去っていった。

 見ず知らずの初めて会った者の話であるにもかかわらず、男の言葉には抵抗を許さぬ説得の力があって、レイアは男の言に従う気持ちに完全になっていた。


 仮面の男は、大地の女神ガイアの住いの前に降り立った。地面に何かが衝突した震動に驚いたガイアは、様子を見るために家から飛び出した。そこには、外套に身を包んだ一人の男が股に手を当てながら立っていた。

 男は仮面を外しながら言った。

「久しいな」

「あ、あなたはっ!」

「これから、ガイア、お前には俺の策略に協力してもらう。俺に逆らうことは許さんぞ。否、そもそもできぬか」

 仮面の男の<呪言>に心が縛られたようになり、ガイアは、その言葉が持つ力に抗うことができなくなっていたのだった。

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