第5話マスターと女将さん

 自由都市ソロモンに数多く点在する酒場。多くは客に無法者共がいる中、目抜き通りの一等地にある『バッカス』は比較的健全な酒場として営業している。あのヘラも気軽に飲める唯一の憩いの場であると言えば分かりやすいだろう。

 しかし今は看板が仕舞ってあり、扉に『本日閉店』と小さな札が掛かってある。

 昼間は定食屋として営業しているはずだが、どうやら睨んだどおり『痴話喧嘩』のようだ。


「えっと。お休みのようですけど……」


 戸惑うエリスに対して俺は「マスターは中にいるはずだ」と答える。


「喧嘩した後はいつも店に引きこもって、グラス磨いてんだ。中入ろうぜ」


 鍵の掛かってない扉を開けて「おうい、マスター」と声をかけた。

 薄暗い酒場のバーカウンターの奥で椅子に座りながら、グラスを磨いている、すげえ大柄なおっさんが面倒くさそうに答える。


「今日は休み……って坊主か。何の用だ?」

「坊主じゃねえ。ヨハンと呼べよ」

「うるせえ。命令すんな。そんで、何の用だ?」


 俺は後ろでもじもじしているエリスを前に出した。


「斡旋所で求人出してあってな。給仕係にこいつを雇ってくれ」

「はあ? 求人? 何のことだ?」

「ほれ、こいつだよ」


 斡旋所からの紹介状をマスターに見せる。マスターはバーカウンターから出た。

 椅子から立ち上がるとますます大きい。二メートルを超えている巨体で顔は黒い顎鬚で覆われている。その代わりに頭頂部が完全に禿げている。エプロン姿で下は長靴を履いている。仕立て屋と靴屋はよくもまあこれだけのサイズを用意できたもんだな。

 紹介状を手渡し、マスターに読ませるとわなわなと震え出した。


「ち、ちくしょう! アリアドネの奴! 勝手にこんなもんを!」

「破ったりすんなよ。呪いがかかるぜ」

「――っ! それで、その娘は何者だ?」


 ぎろりとエリスに目を向けるマスター。

 少し怯えながら「エリスです……」と自己紹介した。


「ふん。エリスか。エルフだな。坊主との関係はなんだ? まさか恋人ってわけじゃないよな?」

「違う。俺に支払うために、こいつ金稼がねえといけないんだ」

「……よく分からん。事情を話せよ」


 俺は森で偶然野盗に襲われているエリスを助けて、ソロモンまで連れて行って、ヘラとひと悶着あって、二千セルを払うことになった経緯を話した。

 マスターは「今どき見ない筋の通ったお嬢ちゃんだな」と顎鬚を触りながら感心した。


「しかしだ。アリアドネが勝手に出した求人で雇うわけにはいかねえな」

「その女将さんが居ないなら、店は開けねえんじゃないか? それによ、俺の記憶が確かなら、ここまでの痴話喧嘩は初めてだろ」

「…………」

「図星だな。女将さん、どうして怒ったんだ?」


 マスターは「俺は悪くねえよ……」と弱々しく言った。


「いいや。マスターが悪いに決まっているだろ。女将さんは今どき見ない筋の通った女だからな」

「皮肉を言うなよ……でも今回は何がなんだか分からないんだ」


 目に見えて落ち込むマスター。大柄な身体が次第に小さく見えてくる。


「いつも通りに過ごしてたら、突然怒り出してな。『あなたが約束を守らない人だとは思わなかった!』って外に出て行って……それっきりだ……」

「結婚してもうすぐ十年だろうが。約束ぐらい守れよ」

「その約束が思い出せねえんだ……」


 うわあ。重症だな。デリカシーのない奴だと知っていたが、ここまでとは。

 実を言うと俺はその『約束』がなんなのか知っている。マスターが女将さんと結婚するために協力したのは、何を隠そうこの俺なのだ。

 でもここで約束を教えるとエリスの雇用が無しになってしまう。それはどうしても避けたい。


「分かったよ。じゃあこうしようぜ。とりあえずあんたはエリスを雇う。俺は女将さんを探してくる。仲直りできるかどうかはあんた次第だけどよ。それならいいだろ?」

「……だがアリアドネが戻ってきたら、そこのお嬢ちゃんは」

「給仕が一人増えても雇う金ぐらいあるだろ。それに、さっき言った二千セル分稼げればいいんだよ」


 マスターは少し悩んだ後「……お前に乗せられてやるよ」と頷いた。


「だが役に立たないと知ったら容赦なく解雇するからな」

「交渉成立だな。おい、エリス。喜べ」

「えっ? は、はい……」


 俺とマスターのやりとりを呆然と眺めていたエリスだが、突然水を向けられて驚いたようだ。


「が、頑張ります! なんでもやります!」


 しかしすぐにそう言えたことは評価してもいいな。


「じゃあまず、客に出す料理を作れるか見せてもらう」

「は、はい! えっと、マスターさん? でよろしいですか?」


 エリスの言葉に「マスターなんて言うのは常連客とそこの坊主だけだ」と笑うマスター。


「バッカス。それが俺の名前だ」

「はい! バッカスさん! 私、頑張ります!」


 マスターは眩しそうにエリスを見つめてから「奥にメニューあるから、作れるもんと作れないもんを教えてくれ」と奥の調理場を親指で示す。

 エリスが嬉しそうに調理場に入るとマスターは厳しい顔で俺に言う。


「どういう魂胆だ?」

「何がだ? 魂胆なんてねえよ」

「あんな素直で良い子、何か裏があって利用しているんじゃねえのか?」


 俺はマスターを睨みつける。


「そんなんじゃねえよ。喧嘩売ってるのか?」

「坊主。お前に忠告してやるよ」


 マスターは俺の目の前に来て、人差し指で俺の胸を押す。


「表の住人を闇に引きずりこむのは外道だ。お前は『あの死神』に感謝しているようだが、俺に言わせれば冷酷だ」

「…………」

「たった七才だったお前を殺し屋の道に導いて、二年後には人殺しをさせやがった。それがどれだけ罪深いことか――分かるよな?」

「……師匠を悪く言うんじゃねえよ」


 殺気を込めた目で睨んでもマスターは動じない。

 流石は元Sランクの冒険者だ。


「あの死神とは友人だったが、そこだけは対立したな。まあいい。お前には自覚が足りないだけかもしれないな。良い意味じゃなくて、悪い意味でな」

「……自分の奥さんに逃げられるような情けないおっさんに言われたくねえよ」


 俺は「あいつ頼んだぜ」と言って出ていく。


「坊主。あのお嬢ちゃんのこと、ほっとくのか?」

「馬鹿か。女将さん探さないといけねえんだろうが。それから、十年前の約束。さっさと思い出せよ」


 それだけ言い残して、俺は酒場を後にした。

 マスターに言われた言葉が心で反復する。


『表の住人を闇に引きずりこむのは外道だ』


 言われなくても分かってるぜ。




 女将さんが居そうな場所には心当たりがあった。

 一つは女将さんの親友のヘラのところ。つまり闇ギルドだ。デリカシーのねえマスターの愚痴をいつも聞いてもらっている。ヘラにしてみれば迷惑だろうが、たった一人の親友だし、それにマスターを紹介したのはヘラ本人だから、負い目があるんだろう。

 そんなわけで、まずは闇ギルドに向かった。


「アリアちゃんの居場所? 知らないわよ」


 ヘラが不思議そうな顔で言う。アリアちゃんと言うのは女将さんのあだ名だ。

 相変わらず趣味の悪い部屋で何をするでもなく、紅茶を一人で飲んでいる。


「そうか。他に心当たりはないか?」

「ないわねえ。もしかしたらソロモンにいないかも」


 目の前に座って訊いてもそんな反応だった。

 俺は温かいソファーから立ち上がり「そうか。邪魔したな」と言う。


「あら。もう帰っちゃうの?」

「急いでいるわけじゃねえけどよ。早めに見つけておきたいんだ」


 俺は立ち上がりヘラを通り過ぎて、部屋から出た――ふりをした。

 ちょうどヘラが扉を背にしていたから、バレないと思う――いや、バレていると思ったほうがいい。

 扉から出たと見せかけて、飛んで天井の隅に張り付いた。

 すると出口を真向かいの隠し扉から「もう行ったかな? ヨハンくんは」と『女将さん』が出てきた。


「……少しだけ遅ければいいのに」

「えっ?」


 ヘラが舌打ちして俺のほうを向く。

 気配を消していたのに。流石だな。


「ああ!? ヨハンくん!?」

「相変わらず、歳を取らないなあんたは」


 女将さんことアリアドネは天井に張り付いた俺にびっくりしていた。

 マスターと違ってかなり小柄な少女に見える女将さん。栗色の髪を短くボブカットしていて、目元にはほくろがある。見た目は十代に見えるが実年齢はヘラより少し下という脅威の若作りだ。


「まずは聞いてくれ。すぐに連れ戻すつもりなんてない。あの朴念仁が反省するまで、ここに居ていいぜ」


 天井から飛び降りて音も無く着地する。


「ほ、本当なの? ヨハンくん」

「ヘラには分かるだろ。嘘言ってないってな」

「そうねえ。でもどういう風の吹き回し?」

「エリスがある程度働かないと雇ってもらえないだろ」


 ヘラは「ところでどうして隠れていると分かったのよ?」と言う。


「いろんな根拠があるけどよ。一つは親友の動向をあんたが知らないわけない。だから『知らない』じゃなくて『ここには居ない』と言うべきだったんだ。それと一人で居たのに、煙管を吸っていなかった。女将さんは煙が苦手だからな。それから座ったとき、ちょっと温かったしな」

「それだけで推測したの?」

「でも根拠があったけど証拠はなかったからな。だから騙してやった」


 ヘラは顔をしかめて、女将さんは感心したように「すごい……」と呟いた。


「それで、女将さんがここに居る理由だが、俺は知っているぜ」

「……そうだよね。影から見てたんだもん」


 女将さんは恥ずかしいような、悲しいような雰囲気の笑顔だった。


「女将さんが依頼してくれたら、あの野郎殺すけど」

「殺すとか言わないの。でも私も少し反省してる。あれだけで家出するなんて」

「あれだけって。結構な理由だと思うけどな」


 するとヘラが「この始末、どうする気?」と俺に問う。


「あの鈍くて記憶力のない男、思い出すとは思えないけど」

「まあ三日待ってみようぜ。確か三日後だろう?」


 女将さんは「ヨハンくんは相変わらずだね」と笑った。


「うん。三日待ってみるよ」

「そうか。じゃあ三日後にまた来るぜ」


 三日の間にマスターが思い出せなかったらどうするんだろう?

 離婚は……しないよな? 

 しないと思いたい……

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