第一章

第1話 『吾輩は秘書である』

 吾輩は秘書である。名前は──そうだな、西門佳奈と申す。


 どうしてこの研究所にいるか、とんと見当がつかない。


 吾輩はここで初めて研究者というものを見た。

 しかも後で聞くとポスドクという研究者中で最も獰悪な種族だったそうだ。


 主人は職場につくと終日研究室に入ったきりほとんど出て来ることはない。


 このポスドクというのは勤勉家であるかのごとく見せている。

 しかしそれは実情には程遠い。


 吾輩は時々机の方を覗いて見るが、彼は論文を斜め読みすると、緑の石片手に虚空を眺めている。


 昼寝に興じることさえないものの、昼食から戻るとずうっとオフィスでぼうっとしている。


「江堂さん、メールですけど。どうし──」


「どーせ学会関連だろ、丁重にお断りしておいてくれ」


「⋯⋯へーい」


 そのうえ主人は出不精と見えた。かくして吾輩は時折届くメールの始末を任せられることとなったのだ。


 吾輩は秘書でありながら時々考えることがある。


 研究者というのは実に楽なものだ。


 人間に生まれるなら研究者となるに限る。


 こんなにぼうっとしていて勤まるものなら吾輩にでも出来ぬ事はないと──。


「⋯⋯何ぶつぶつ言ってんだ?」


「いやぁ、研究者って楽でいいなーって」


「どうしてそうなる」


「一週間前にここに来てからずっと、ぼーっとしてばっかじゃないですか」


 私がそう言うと、江堂は嫌そうな顔で舌を鳴らした。

 ⋯⋯それもわざとらしく。


「研究者って、なんかこう、もっと白衣着て、ずーっと試験管振っているイメージだったんですけど」


「⋯⋯俺だって、そうしたいわ」


 江堂はボサボサの頭を掻き毟りると、回転椅子の背もたれに体を預けて大きく伸びをしてみせた。


「できるもんだったら既にやってるさ。できるか、というか必要ならだけどな」


 ──意味わかんない。


 それってただの言い訳じゃん。私は頭を抱えながらため息をついた。


「んじゃ、さっきから何やってるんです?」


「⋯⋯考え事だよ」


 吐き捨てるようにそう言うと、江堂は再び論文に目を落とす。

 そのまま眉間にシワを寄せて、さも凝視しているようなフリをするが⋯⋯。


「──何ぼーっとしているんです?」


 その数分後には、江堂は回転椅子をゆらゆらと揺らしながら、ぼーっと天井を仰いでいた。


「いやぁ、新しいことをやるのって難しいなー、って」


「⋯⋯はぁ」


 突っ込むことに疲れ果てて、もはやどうでも良くなってしまった私は、適当に相槌を打つしかなかった。


「そもそも新しいことって、どうやるんだったっけ」


「それ、私に聞きます?」


 そう言うと、江堂は椅子をぐるりと回転させて私の方を向く。


 そして私の顔をジロジロと見ると、ただ一言──。


「うん、すまなかった。忘れてくれ」


「おいコラその返し方はなんじゃい、ビミョーに気を使われている感じが変に苛つくんですが」


「⋯⋯絶妙だろ?」


 江堂は椅子をクルクルと回しながら、したり顔にそう言い放ってきやがった。


 くそう、コイツめ。


「それを考えるのが、研究者の仕事なんじゃないですか?」


「うーん、やっぱそれが正論なんだよなぁ⋯⋯」


 江堂は呟くようにそう言うと、既に文鎮代わりに使われている緑光石を手に取る。


 それを蛍光灯にかざすように持つと、そのまま観察作業の続きへと戻る。


「ところで──、そんなに難しいんです?」

「ん、難しい」


 ──あっさりと即答。


 そこまでされると、逆にもう少し突いてみたくなる。


 私は、素人意見ながら思っていたことをぶつけてみることにした。


「誰もやったことなさそうなことを片っ端からやれば、とりあえず上手くいきそうな気がするんですけど」


「誰もやったことないこと、ねェ⋯⋯」


 うーんと唸りながら考えること、数十秒。


「投げるか」


「⋯⋯はい?」


「だから、投げてみるかって」


 江堂は、野球を習いたての小学生さながらに腕をブンブンとふってみせる。


「へっ?」


 出された答えは、私の予想のはるか上を飛び越え、もはや「こいつ頭おかしくなったんじゃね」と言いたくなるレベルのものだった。

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