第3話 『聖人。大学生風に言えば「大仏」』

「江道君、待ってたよ」


 身分証チェックに手荷物検査を終えて建物の中に入ると、俺は定年ギリギリと思われる白衣姿の男に出迎えられた。


「私のことは、知っているかい?」

「ええ、もちろん」


 見紛う筈もない。宗谷正敏──、有名人中の有名人だ。


 ニュートンとかアインシュタインとかと比べると当然見劣りするものの、その道の人となれば何らかの形で名前を知っているだろう。


 専門分野違いの俺だって科学雑誌で何度も名前を見たことがあるし、この間だって勤めていた大学に講演に来ていた。


 そして、目立った研究成果も出せず、次の契約先に困っていたヘボ研究者の俺を引き抜いてくれた命の恩人でもある。

 あのお方がいらっしゃらなければ、ちょうど半年後──、来年のはかなり悲惨な状況だっただろう。


「宗谷所長、二年間お世話になります」

「やめてくれたまえ、所長だなんて」


 きまりが悪そうに頭を掻きながら、宗谷所長は言った。


「それに、噂に聞く限りでは君はそんな丁寧な喋り方をしないそうじゃないか。なんというか、こう⋯⋯」

「無礼な物言い、ですか」


 自分で言っておきながら気まずそうに目を逸らす宗谷所長──、もとい宗谷さん。


 いや、やっぱりただの「さん」付けはおかしいかと思い返して逡巡した結果、やはりこの偉大な研究者には「所長」呼びが似合っていると思い納得した。


「流石に初対面の人にまで下手な物言いはしないが⋯⋯、誰情報です? それ」

「ん、ああ⋯⋯。私の教え子が君の教授をしておってな⋯⋯。君のことはソイツから何遍も聞いたよ。態度は悪いが、発想力は悪くないってな」

「あー⋯⋯」


──あの性格のひん曲がった教授のことか。


 講義で容赦無く落単させるのは当然のこと、うっかり研究室に配属されようものなら、どうでも良いことでなじられながら過ごす日々に。


 余りにも評判が悪く、その研究室へ配属されることをとか言ったとか言わなかったとか。

 そしてそんな俺は──、成績が悪すぎて希望する研究室に入れず、無事に廃液送りになったのだった。


 因みに「廃液」というのは、化学の実験や研究のたびに出る薬品ゴミのことだ。

 有害物質とかの入ったものを分別して捨てるのであり、もしかしたら「廃液送り」という名前を考えた人は案外、廃液の分別があの教授と同じくらい面倒臭いと感じていたのかもしれない。


 まぁ俺にとってみれば、数こなせば慣れてしまう分、廃液の分別の方がよっぽど簡単だと思うのだが。


 俺としては、そんな性格の悪い教授が、こんな見るからに聖人なお方の教え子であるということに驚きを感じている。


「ま、私のことも気軽に話しかけてくれたまえ」

「そうは言っても、その⋯⋯⋯⋯。まぁ、そのうち」


 そこまで言われたら⋯⋯、努力だけはしてみるか。

 所長呼びは捨てられそうにないが、敬語だけは頑張って抜いてみようかと思った。


「それでいい。んで、今日は合わせたい人がいる。来なさい、西門君」


 宗谷所長に手招きされて、スーツを着たショートヘアーの女性が部屋に入ってくる。


 女性の表情はどこか硬くて、オブラートに言うならキリッとした感じの印象を受けた。

 これは本人に直接言うのは無理だが、もっとハッキリ言うなら無表情、それに冷淡という言葉がお似合いだろうか。


「これから君がお世話になる、秘書だ」

「よろしくお願いします」


 秘書、か。

 確かに『秘書』って感じだ。⋯⋯主に雰囲気が。


 それにしても秘書付きとは随分厚遇されたもんだ。ま、精々頑張って働いてもらうとするか。


「それじゃあ、まずは君らに見せたいものがある。ついて来たまえ」

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