第15話 危うく映画デビューするところでした。





 姉むすめに次いで妹むすめも東京の大学に進むと、犬とふたりが家に残った。

 いきおいべったりになった犬は、なにかにつけて縋るような目を向けて来る。


 夜間など、ふたりでいると、吐く息と吸う息がぴったり重なる瞬間がある。


 ――まさに一心同体だね。


 白いものが目立ち始めた背中を撫でてやると、犬はうれしそうに喉を鳴らす。

 そんなさびしくも穏やかで平凡な暮らしに、思いがけない出来事が発生した。


 ことの発端は、初夏の朝、タウン誌編集部にかかってきた1本の電話だった。

 東京のプロデューサーからで、以前に書いた犬の記事を映画にしたいという。


 ――わたしの記事が映画に?!


 にわかには信じがたかった。


 映画は好きだがもっぱら鑑賞専門で、製作に携わるなど考えてみたこともない。


 とにかく一度訪問して企画内容を説明したいというので、編集長に報告すると、「すごい! やったじゃない! よかったね!」一も二もなく賛成してくれた。


 後日やって来たのは、意外に地味なスーツを着た、初老の小柄な男性だった。


 ――ギョウカイの人は、袖を通さないカーディガンを肩に巻いている。


 勝手なイメージはあっさり裏切られた。


「あなたが書かれた記事を拝見したとき、これは天啓だと思いました」別件で当地を訪れたプロデューサー氏は、どの地方へ行っても必ずそうするように、図書館で地方紙やタウン誌、郷土史などに目を通し、映画になりそうなネタを探していた。


「こんなことを言うと気障に聞こえるかもしれませんが、こちらで見つけたというよりも、御社の記事のほうから当方の目に飛びこんで来てくれたのです。わたし、ここよ、ここにいるわよというように。ええ、こういう経験は何度かあります」


 控え目に言いながらも、この道ひと筋の矜持を縁なしメガネに光らせた。

 

 

 その記事は、少し前、仕事上の知り合いの紹介で取材したものだった。

 ある日、契約記者時代にお世話になった年輩の女性から電話が入った。


「新聞記事やテレビの報道って、どうしても暗いニュースばかりになるでしょう。そんな閉塞した世相に1点の灯りをともすような心あたたまるエピソードだから、ぜひとも御誌に、それもあなたに書いてほしいの」


 ありがたいお話ですが、現在は記者ではないので……返事をためらっていると、「何事にも例外あり。せっかくのご指名なんだから、さっそく行ってらっしゃい」例によって編集長のプッシュで、久しぶりに取材することになったのだった。


 ふんわり、ほのぼのとした話というのは――


 この春、その女性の孫むすめさんが卒業した理美容専門学校が舞台だった。

 むかし、まだ野良犬(なんて非情な呼称!)が街中を放浪する光景が当たり前だったころ、1匹の黒い犬がいつの間にか専門学校に棲みつくようになった。


 朝は校門前にお座りして、登校してくる生徒や職員たちを出迎える。

 昼間は職員室のソファに丸まったり、廊下や校庭をブラブラしたり。

 ときには授業にも出席し、カットやシャンプーの試験台にもなった。


 夜は職員室のケージで眠り、怪しい物音がすると果敢に飛び出して、


 ――ワン、ワンッ!


 勇ましく吠えたてた。


 ――ポチ。


 牝犬なのになぜかそう呼ばれた犬は、全校のアイドルとしてみんなに愛された。


 恋多き女と言おうか、何度も恋をし、そのたびに自分そっくりの仔犬を産んだ。

 黒い毛糸玉のような仔犬たちは、希望する生徒や職員の家にもらわれていった。


 老いて病気になると、みんなでお金を出し合って獣医師のもとへ連れて行った。

 推定15歳の寿命が尽きると、全生徒全職員出席の校葬が営まれ、2列に並んだ手から手へと渡された小さな棺の犬は、色とりどりの花に囲まれて微笑んでいた。

 

 歴代の生徒や職員間では当たり前のように語り継がれて来たものの、市井の片隅に埋もれたままだった秘話を孫むすめから聞いた女性は、かつて自分の飼い犬をあたたかな筆致で書いてくれた女性記者に、どうしても知らせたかったのだという。


 そんなメルヘンが一度もマスコミに紹介されなかったこと自体が信じられず、半分狐につままれたような気持ちのまま、古写真に残るポチのすがたをクルに重ね、


 ――もしかして、めぐりめぐって、うちのクルもポチの末裔だったりして。


 などと楽しい空想をめぐらせながら、思いの丈を拙いペンに託したのだった。


 

       *


 

 映画プロデューサーの動きは速かった。


 東京へ帰ると配給会社に話をつけ、監督を選定し、出演俳優の候補を絞った。

 いまをときめく人気俳優の主演が決定すると、タウン誌内に歓声があがった。

 多少のことには動じない編集長までもが、少女のように頬を紅潮させている。


 ふつうの生活ではまず考えられない、夢のような映画話の窓口に偶然なった身としては、編集部の先輩方に気をつかいながらも、やはり浮き足立つものがあった。


 ――風のように飄々と生きる黒犬のうしろすがたを追う、淡々と静かな物語。


 勝手に想像していたが、監督自らが手がけたという脚本は、ありがちな高校生間の恋愛を主軸として設定されており、正直なところ、犬は添え物でしかない印象に思われたが、それすらも簡単に許していた。降ってわいたような幸運に、すっかり舞い上がっていたのである。


 だが、とんとん拍子に話が進んだのはそこまでだった。

 当然ながら、映画の製作には多額の費用が必要になる。


 あとで知ったことだが、資金繰りも主な業務であるプロデューサーは、製作費用の過半を地元企業の寄付に頼るつもりでいるらしかった。タウン誌の情報網を活かし、スポンサー候補の企業訪問にも同行してほしい。ボランティアの募集にも協力してほしい。さらには現地事務所としてタウン誌の一室を提供してほしい。あれもこれもと、堰をきったように矢継ぎ早な要請に、社内の空気は急速に冷え始めた。


 少人数で日常業務をこなしているのに、さらに映画の手伝いなんて。

 たとえば原作料のようなギャラが支払われるわけでもないでしょう。

 スタッフへのしわ寄せは、サービス残業でこなすしかないでしょう。


 ――最後の字幕にたった1行の社名が載るからって、それがなんなの? 


 みんなの視線が痛かった。


 さらに決定的だったのは、堅実なうえにも堅実経営のタウン誌と、どんぶり勘定が古くからの慣習の映画製作に、金銭感覚面での大きな差異が生じたことだった。


「たいへん残念だけど、これ以上の協力はできかねるわね」編集長の意向を伝えると、電話の向こうの声は意外に快活だった。「気にしなくていいですよ。よくあることですから。はっはっはっはっ」乾いた笑い声がいつまでも耳の奥に残った。


 

 そこは百戦錬磨の業界人、こちらがだめならあちらということだったのだろう。

 地方文化人の潜在意識を上手にくすぐり、資金もマンパワーも確保したらしい。


 久しぶりに連絡があったのは、山から紅葉が降りて来る時節だった。映画製作の目処がついたので、発端の記事の担当者として記者発表に同席してほしいという。


 ――『ありがとう、ポチ!』


 それが映画のタイトルだった。


「エンドロールにはとくべつな敬意の証しとして、他の協力者とは別に貴社名だけスペシャルサンクスとして提示させてもらいます。……で、ひとつお願いがあるのですが……」ひと呼吸置いて、プロデューサーはびっくり仰天の提案をして来た。


「ポチによく似たお宅のワンちゃん、記者発表のときお借りできないでしょうか」


 ――えっ?!


 受話器を握ったまま絶句した。


 まだ両者の関係が良好だったころ、

「うちの犬はほんとにポチにそっくりなんですよ。もしかしたら子孫かもしれないと思うくらい。わずかにちがっているのは、足の先だけ白いことぐらいかしら」

 得意げに写真まで見せた記憶が苦くよみがえった。


「それは無理です。うちの子はいたって臆病者ですから、金屏風を背景にたくさんのフラッシュが光る晴れ舞台へ連れ出したりしたら、強烈なストレスから病気になってしまいかねません」断固ことわったが、相手はなかなか引き下がらない。


「なあに、大丈夫ですよ、ベテランのドッグトレーナーが付き添いますから。あ、そうそう、順番が逆になりましたが、映画の本番にもぜひ出演してほしいと思っているんです。なにしろ、世間に黒犬多しといえど、お宅のワンちゃんほどポチにそっくりの犬はいませんからね。この機会にぜひ映画デビューをお勧めします」


 とんでもないことまで言い出してくる。


「ご厚意はほんとにありがたいのですが、この件はどうかご放念ください。恐怖のあまり粗相でもしてしまったら、みなさんにご迷惑をおかけしますし」前述の血便事件もあり必死で辞退すると、「ははは。そんなことはまったく心配ご無用です。むしろ座がなごんで、かえってご愛敬というものですよ」「いえ、そういうことではなくて……。たとえ仰せのとおりだとしても、自分が仕出かした失敗でもっとも傷つくのはあの子自身ですから」最後にはつい強い口調になっていた。



 映画に詳しい人の話によると、


 ――動物ものには金がかかる。


 それが業界の常識だという。


 長いロケ期間の緊張に耐えられるように、主人公犬(?)には、そっくりの犬を少なくとも5~6匹は用意する必要があるが、いわゆるタレント犬を使うと多額のギャラが発生する。まして地方で行う記者発表に、東京のタレント犬は連れて来たくない。そこで、無料のわが家の犬に白羽の矢が立ったという次第だったらしい。


 まったくもって、やれやれな話ではあった。

  

 記者発表の当日。

 早めに会場へ着くと、鬱蒼たる杉林の下に東京ナンバーの4駆が停まっていた。

 頑丈な車体のかげで、青いツナギを着た半白髪の男性が、背中をこちらに向けてしきりになにかやっている。なにかされているのはクルにそっくりの黒犬だった。


 しゃがんだ男性の右手からのぞいているのは、先の曲った簡易の靴墨で、全身真っ黒な中型犬の、そこだけソックスを履かせたようにあざやかに白い4本の足先(そう、うちのクルとまったく同じ!)に、丹念に靴墨を塗りつけているらしい。


 冷たい晩秋の風が吹きつける、じめじめと湿った落葉の上に立たされた犬は、


 ――くふーん。


 と鳴いて苦痛を訴えることもせず、ただ黙ってされるがままになっていた。

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