第14話 新雪に興奮した犬、冒険旅行に出ました。
妹むすめの大学受験の年が明けた朝、どかんと雪が降った。
暮れに舞った粉雪を除けば、その冬はじめての降雪だった。
雪の朝は、目覚めたとたんにわかる。
妙に静か。妙に明るい。異界の気配。
――やれやれ、早起きして雪かきをしなきゃ。
シングルマザーの家庭では、すべてをひとりでこなさなければならない。
結婚以来、一度として雪かきをした経験がない、恵まれた奥さんたちは、
「あなた、よくだわね。あたしなんか、そんな重いもの、とてもとても」
妙な褒め方をしてくれる。
「うそぉ、あなた、雪道も自分で運転するの? すごいわね。あたしなんか怖くて怖くてとても無理。第一、主人(この表現の不見識なこと! 女性の生き方の先鞭をつけてくださった社会評論家・丸岡秀子氏が「女性のみなさん、自分の夫を主人と呼ぶのはやめませんか」と提言されたのは遙か昔でしょう?)が危ながって運転させてくれないんですもの」お惚気半分で、おおげさに感心してくれたりもする。
そんなとき、笑って受け流すことには慣れている。
慣れてはいるが、どこかに引っかかるものがある。
まるで皮膚の奥に隠れて正体を見せない小さな棘のように……。
そんなことをぼんやり考えながら、ベッドから降りて玄関へ向かう。
ドアチェーンを外し鍵を開ける。隙間から降雪量を見て、雪かきに要する時間を考える。とそのとき、パジャマのズボンの裾をぬるっと掠めて行くものがあった。
――あっ、いけない! クルッ!
犬つぐらで寝ていたはずの犬が、新雪の匂いに興奮して飛び出したのだ。
黒い弾丸は、一瞬停止しかけたが、つぎの瞬間には視界から消えていた。
――クルー! クルー! クルー!
あらん限りに呼んだが、ひとたび放たれた弾丸はもどって来なかった。
2階の寝室から駆け降りて来た妹むすめとふたり、近所を探しまわった。
積雪は30センチあまり。
道と溝の区別もつかない。
白一色の世界に、ちらとでも動くものがあればすぐにわかるはずだが、近間から遠くの家並みまで、見わたす限りに真っ白な静寂が広がっているばかりだった。
近所中を探しまわったが見つからないので、家にもどって車で探すことにした。
しかし、あいにく校正の期限がさし迫っている。まずはそれを片付けなければ、プライベートの半休のお願いはできない。出勤支度を始めると、日頃はおとなしい性格の妹むすめが、めずらしく小柄な全身に怒りを露わにして声をふるわせた。
「かあさん、こんなときに出かけるの?! クルと仕事、どっちが大事なの?!」
不在がちの母親代わりでもあった3歳上の姉むすめが東京の大学へ進んでから、じつの弟とも慕う犬といっそう親密になった妹むすめの怒りはもっともだった。
ガムシャラに仕事をこなし、なんとかお昼までに出校して、大急ぎで帰宅した。
勉強も手につかず、外出の用意をして待機していた妹むすめを助手席に乗せると、まずは家の周囲、その周囲、さらにその周囲へと捜索範囲を広げて行った。
最低の徐行運転で、運転席と助手席の窓を開け放ち、
――クルー! クルやあ!
声を限りにふたりで連呼しつづけたが、無情にも黒い尻尾の影さえ見えない。
白一色の世界に、ごくたまに動くものがあると、早くも固まり始めた新雪を歩きまわる烏だったり、自らの重みに耐えかねて電線から落下する雪だったり……。
ぐるぐる走りまわっているうちに、薄い冬の日は早くも傾き始めていた。
この高原都市では、午後3時を過ぎると急速に気温が下がり始めるのだ。
体長50センチ、体重15キロの生命を脅かすものが間近に迫っている。
切羽詰まった思いの中で、
――そうだ!
遅ればせながら、ひらめいたことがある。
動転のあまり、うっかりしていたが、
――保健所に連絡しなければ。
そのことだった。
ひとまず家にもどり、保健所に電話をかけると(このころはまだ携帯電話が普及していなかったので)、窓口の男性職員は、当所でも迷い犬として記録しておくが、一応、警察署にも届け出ておいたほうがいいと親切にアドバイスしてくれた。
床の底冷えがしんしんと這い上がってくる。
かじかんだ手をかざすストーブの芯が赤い。
「どうしよう。このまま夜まで見つからなかったら、クル、凍え死んでしまう。どうしたらいいの? ねえ、かあさん、どうしたらいいの?!」
懸命に訴える妹むすめの頬は、ひっきりなしの涙でぐしょぐしょに濡れている。
「ごめんね、ごめんね」
雪かきの労にとらわれ、不用心にドアを開けた軽率が繰り返し悔やまれた。
そうするうちにも、恐ろしいほどの極寒は、刻一刻と加増していくばかり。
――こうしていても仕方ない。もう一度探しに行ってみよう。
妹むすめに電話番を頼んで、腰を浮かせかけたとき、
――リーン!
冷たい沈黙を守っていた黒電話がとつぜん鳴った。
一瞬ふたりで顔を見合わせ、受話器に飛びついた。
はたして相手は聞き覚えのない男声で、市街地の会計事務所を名乗った。
「保健所から連絡先をうかがいました。ついさきほどのことですが、黒いワンちゃんが当事務所の玄関に入って来まして。この大雪ですから全身濡れねずみで、ずいぶん疲れている様子なので、いまはロビーで眠ってもらっています」
「ほんとですか?! 全身真っ黒で、4本の足先だけ靴下を履かせたように白く、耳が中程で折れ、赤い首輪をした、短毛の雄の中型犬?! そうです、そうです、うちの犬です! ご親切に保護してくださって、本当にありがとうございます」
受話器に向かって深々と頭を下げながら、へなへなと崩れ落ちた。
となりで妹むすめも、泣き腫らした顔をくしゃくしゃにしている。
「よかったね、よかったね。ほんとによかったね!」
「みなさんがクルぼうやを助けてくださったんだね」
――神のご加護。
宗教には縁がないのに、こんなときだけ都合よく、そんな言葉が浮かんで来た。
――ありがとうございます。ありがとうございます。
神であれ、仏であれ、人間であれ、とにかくみなさんにお礼を言いたかった。
花柄のリードとお気に入りの毛布、バスタオルを握り締めた妹むすめとふたり、
家から4キロほど東方に当たる会計事務所へ駆けつけた。
除雪車が通った道路は、ふだんの半分ほどに道幅が狭くなっている。
こんな悪条件のなか、車に接触もせず、国道を越え、JRの線路も越え、遠くの会計事務所まで、よくもまあ無事にたどり着いたものだと、呆れたり感心したり。
まさかのことに、わが家の居心地がわるかったとは思えない。
新雪に興奮して飛び出してはみたものの、寒くて怖くて、すぐに後悔したはず。
なのに、東へ東へ、ひたすら東へ、家から遠ざかる方向へとただ歩いて行った。
――ということは……あの子には帰巣本能がない?
スリップしないよう気をつけながら、そんなことを考える余裕も生まれていた。
市内随一の老舗の会計事務所は、つい先年、全面的にリニューアルしたばかりで、総ガラス張りの近代的な建物から、まばゆい灯りが外までこぼれ出ていた。
がらんと広いロビーの真ん中に、ぽつんと黒いものが丸まっている。
赤い首輪に荷造り用の紐を結ばれ、ギリシャ建築のような円柱に繋がれている。
恐縮しながらふたりで自動ドアを入った。
「クルーッ! ほんとにクルだ!」
妹むすめが大歓声をあげて駆け寄る。
犬も飛びついて来る、かと思いきや……使い古しのモップのように汚れきった犬は、焦点の定まらない目をちらと上げたが、すぐにまた自分のお腹に顔を埋めた。
そのお腹はといえば、分厚くこびりついた泥が氷柱のように固まっている。
2階から降りて来たのは、いかにも人の好さそうな50年輩の男性だった。
「よかったなあ、おまえ。二度とこんな冒険の旅をするんじゃないぞ」
犬好きという男性は、勤務時間が過ぎても居残っていてくれたらしい。
何度もお礼を言って外へ出ると、凍りついた星が痛いほど光っていた。
今度こそどこへも行かないよう、妹むすめに抱きしめられた犬は、
「それにしてもおまえ、どうして家に帰ろうと思わなかったの?」
「もしかして、かあさん似で、ものすごい方向音痴だったとか?」
「あ、そうか。おまえにとってはあっちが家の方向だったんだね」
「やたらに思い込みの激しいところもまた、かあさん似だった?」
なにを訊かれても、ひと言も発せず、ひたすら眠りつづけていた。
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