第11話 わが犬、巨大猫に背中に飛び乗られました。





 一応、マスコミの末席に身を置きながらなんだが、経済第一主義が音頭取りする弱者いじめの悪辣な風潮をさらに煽っているのは、本来、市民に寄り添ったオピニオンリーダーであるべきマスコミ各紙誌局の、政府御用達的な現状ではないのか。


 取材先でいろいろな人たちの話を聞くたび、そんな憤りを抑えきれずにいる。

 で、記者持ちまわりの巻末コラムに「年若い友へ」と題する一文を書いた。

 当然のごとくボツを覚悟していたが、編集長は黙って原稿を通してくれた。

 


       *



 人は社会に利益を生む道具や商品としてこの世に生を享けたのではありません。

 環境や条件が異る人生に銘々の美しい花を咲かせるために生まれて来たのです。


 ですから、病気がちで働けなくても、子どもに恵まれなくても、ケセラセラ。

 他のだれでもない、あなたにしか築けない人生を堂々と歩んで行ってください。


 あなたは使い勝手のいい、利幅の大きい商品として存在するのではありません。

 あなたという人が愛しくてならない人のため、祝福されて生まれて来たのです。

 


       *


 

 姉むすめが東京の大学に、妹むすめが姉と同じ高校に進んだ年、念願の正社員になった。


 編集部に欠員が出たからと、経営者に熱心に推薦してくれたのは編集長だった。

 先輩たちの前で辞令を渡されてもなお、運のよすぎる僥倖が信じられなかった。


 内勤仕事は初めてで、契約記者時代に使い慣れたWindowsとなにもかも異なるMacを使ってのDTP(デスクトップパブリッシング)を覚えるのは大変だった。


 だが、大汗をかいてクタクタになる清掃バイトの苦労の比ではなかったし、なにより生活(=精神)の安定のありがたさは、いくら感謝しても余りあるものがあった。


 そんな環境の変化は、犬にはまったく関係がなかった。

 しいて言えば、仕事関連のつきあいで遅くなる夜ができたことぐらいだろうか。


 そういう日は自分で世話しなければならない妹むすめは、犬に託して抗議した。

「かあさんが帰って来るまで、クルは玄関で何時間でもお座りして待っているよ」


 ちなみに、飼い犬連定番の「お座り」「お手」「待て」はむすめたちが教えた。


「クル、お座り。ようし、お手は? ほらジャーキー。まだだよ、待て、まあて」


 自分より目下と信じこんでいる姉妹に理不尽な命令を受けた犬は、飴玉を入れたように両頬をプッと丸くし、いやいやながら尻を下ろしたり前脚を持ち上げたり、糸のようによだれを垂らしながら、長いおあずけを我慢したりするのだった。

 

 犬はシャープにお腹が切れ上がり、すらりと脚の長い体型なので、


「きゃあ、カッコいい!」

「ハンサムボーイですね」


 散歩に連れて歩くと、女子高生や若い女性たちから声がかかった。


 かたや、柴犬とラブラドールの混じり合った顔立ちは、凛々しいがうえにも凛々しく見えたので、犬が苦手な人や幼い子どもらには後ずさりされることもあった。


 「うわあ、黒犬だ。逃げろ!」無遠慮な言葉を投げつける子どもたちに、


 ――大丈夫よ、この子、人(犬)一倍の臆病なんだから。


 内心で庇ったり「あんたたちより、ずっといい子だよ」と本気で憤ったりした。


 じっさい、犬は根っからの臆病だった。


 三半規管が敏感な体質なのか、大きな音がことのほか苦手らしく、はるか遠くの空で雷が鳴り始めると、はっと恐怖に固まってそそくさと小屋に入り、屋内にいるときはピアノの椅子の下にもぐり、雷が去ってもいつまでも出て来ようとしない。


 花火も大の苦手で、家に至る角を曲って火薬の匂いがすると、そこから梃子でも動こうとしない。仕方なく、ぐるぐると同じ道の散歩を繰り返すことになった。


 極めつけは猫である。


 猫がいると、犬はさっと目を伏せ、道端すれすれを足早に通り過ぎようとする。

 端へ寄り過ぎるあまり、用水路へ落ちそうになったことも一再ならずだった。


 さらに特筆すべきは巨大猫がらみの一件だった。


 ある日、道の真ん中に、こんな猫は見たことがないというほど大きな猫がいた。

 オズオズと犬が近づいて行っても、道をゆずろうとする気配などまったくなし。


 犬はいつもどおり、そっと目を伏せ、道の端を歩いて行く。

 気弱な飼い主も、触らぬ神に祟りなしとばかりに犬に従う。


 なんとか無事に通過しようとしたとき、思ってもみなかった事態が発生した。

 猛然とダッシュした巨大猫が、ひょいっと、わが犬の背中に飛び乗ったのだ。


 大仰天した犬は全速力で疾走しつつ、必死で背中の猫を振り落とそうとする。

 かたや猫は、爪を立てて犬の短い被毛をつかみ、余裕で騎手をつとめている。


 背中に巨大猫を乗せたまま、悲鳴をあげる余裕もなく、やみくもに突っ走る犬の飼い主はといえば、リードを離さないように付いて行くのが精いっぱいだった。


 絶体絶命と思ったとき、ひょいっと猫が飛び降りてくれた。

 犬は目を血走らせ、全身の被毛を逆立てて怯えきっている。


「ごめんね、助けてやれなくて」

 あやまりながらそうっと周囲を見渡すと、巨大猫はとうにどこかへ消えていた。

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