第10話 週末は大型スーパーの開店前清掃です。
土日の朝は郊外に向かわず東方の街中へ出向く。
それが1週間のルーティンとして定着している。
大型スーパーの開店前清掃のバイトは、パチンコ店よりわずかに時給がいいし、記者のハシクレとして、いろいろな業種をのぞいてみたいという下心もある。
とはいえ、慣れるまではパチンコ店のときと同様に、相当に根性を鍛えられた。
ビル管理会社の面接で「うちの仕事、正直、きついですよ。やめていく人も多いですけど、大丈夫ですか?」東京の本社から派遣された主任から念を押されたが、「大丈夫です、こう見えて打たれ強い方ですから」余裕の笑顔で応じておいた。
――いくらなんでもパチンコ店よりはましでしょう。
「じゃあ、やってみますか。なに、速い人なら1週間で覚えます。もっとも遅い人は1か月かかりますがね」その分、こっちがカバーしなきゃならないんですから、しっかり頼みますよ、皮肉めいたもの言いにも、鷹揚にうなずき返しておいた。
初日、まだ薄暗い中を、立ち込める霧をついて新しい職場へ出勤した。
従業員用出入り口から入ると体格のいい守衛が立っていて、来訪者名簿への記入を命じられる。到着月日時分、氏名、来訪先を書きながら、頭上からしきりにだれかに見下ろされているような気がして振り仰ぐと、前面の壁に指名手配犯の顔写真がずらりと掲示されていた。
――履歴書のみで採用される職場には、犯罪者も潜り込めるということね。
妙に納得。
渡されたネームプレートを首に掛け、暖房のないスペースでコートを脱ぎ、重い鉄のドアを押して施設内に入ると、すぐ正面がビル管理会社の事務所だった。
濡れ雑巾の匂いが充満する狭い室内の壁に寄りかかるようにして、申し合わせたように表情を消したシニアの男女十数人が突っ立っている。なかにひとりだけ中年の男性が混じっているが、巨大なマスクで顔を隠している。
――さっそく訳ありか?
用心しながら、「今日からお世話になる新人です。なにもわかりませんが、よろしくお願いします」だれにともなく挨拶したが、だれからも反応は返って来ない。
困っていると、いきおいよくドアが開き、派遣の主任が慌ただしく入って来た。 窓のない部屋の隅にひとつだけ置かれたスチールの事務机まで直行する。苛立たし気に引き出しを覗いていたかと思うと、とつぜん振り向いて朝礼が始まった。
自己紹介を促された新人は、パチンコ店と同様、最低限の氏名のみを名乗った。
シングルマザーの身で個人情報を知られたくない。どうせバイトなんだしね。
素気なさを咎め立てもせず、眉間に縦皺を刻んだ主任の話は、早くも昨日の反省に入っている。
「あれほど注意したにも関わらず、掃除機の差し込み部品が割れていました。あれ1個いくらすると思います? ただでさえ儲からないのに無駄な経費ばかり使うと本社から怒られるのは、このわたしなんですよ。壊した人、名乗り出てください」
配下が年長者ばかりなので、説教も「ですます」にならざるを得ないのだろう。
朝からガミガミ言われた方は、われ関せずとそっぽを向くか反抗的に俯くか。
「あの掃除機さあ、昨日はたしか藤田さんが使っていなかったっけ?」
沈黙を破り、わざとのように曖昧な口調で胡麻塩頭の男性がつぶやく。
「ええっと、藤田さんは……」
なぜか気圧されたように、主任はオドオドしながら壁のシフト表をたしかめる。
「休みか。じゃあ、仕方ない、明日わたしから注意しておきますが、いいですか、みなさん、これ以上、会社に損害を与えないように、備品の扱いはくれぐれも丁寧にお願いしますよ。でないと、来週の本社会議で、このわたしの立場がないんで」
――おまえの立場なんか知るかよ。安い時給で、さんざんこき使いやがって。
数年前までそれぞれの職場の第一線にいた男性陣は、胸でつぶやいていそうだ。
かたや女性陣は、そろそろ漬け物の段どりか夕飯の献立でも考えているだろう。
家族を東京に残して単身赴任の主任も、なんの因果か地方都市へ飛ばされ、なにを言っても柳に風の、年輩の部下たちを相手に孤軍奮闘とは気の毒なことである。
せっかくだから記者の目で両者を観察する。
だが、いつものことなのだろう、早くも気を取り直した主任は、
「じゃあ、解散。そうだ、あなた、新人さんに教えてやって」
女性のひとりにいきなり命じた。
「あたしですか?! この前もあたしだったんですよ、今度はだれか別の人に」
「いやいや、これは会社が決めたことだから。いいね、よろしく頼みましたよ」
どこかで聞いたような台詞だ。
逃げるように出て行く主任を恨めしそうに見ていた女性は、「ついて来て!」ぶっきら棒に告げると、こちらの返事も待たず、さっさと歩き出した。
いつの間に用意したのか首から鍵束のテープを下げ、各種掃除用具を入れた青いバケツを手にしている。
――さすが早業!
ここでも「チャチャッと」が重要らしい。
女性は入り口の守衛室へ行くと、備え付けの用紙になにやら手早く記入した。
書き終えるのを見届けた守衛から、阿吽の呼吸で鍵らしきものが手渡される。
その間、新人にはいっさいの説明がない。
――どうせ、すぐにやめちまうんだから。
教え損だと思っていることが、ありあり。
仕方ない、商品の搬入口、リサイクル場、ゴミ捨て場、従業員トイレなどで迷路のようになっている通路を小走りに行く女性に、こちらから質問することにした。
「さっきの受付ではなにを記入されたのですか?」
「ついて来ればわかるよ」
取り付く島もないとはこのことだ。
ここでもふつうに歩くのはご法度らしく、小走りはやがて本格走りになった。
「のろのろしていたら間に合わないよ」
――なににですか?
腰まである長い髪をひとつに束ねた固太りの背は、あらゆる質問を拒んでいる。
やがて、答えは自ずから判明した。
シャッターの降りている玄関口、および、南、西、北の3か所の鍵を一刻も早く開けてやらないと、ほかの部署の清掃や搬入の人たちが活動を開始できないのだ。
――それならそうと教えてくれればいいのに。
つぶやきはもちろん胸に仕舞いこんでおく。
「つぎ、ここ」どうせ徒労に終わる新人には、言葉すら惜しいとでもいうように、最小限の単語で説明しながら、女性は3基並んだエレベーターの鍵を開けて行く。
――へえ、エレベーターにも鍵がついているんだ。知らなかった~。
気持ちを切り替え、必要以上に粗略に扱われる自分と社会人として最低の礼儀も知らない女性を客観的に眺めることにした新人の興味は、がぜん掻き立てられる。開店前の大型スーパーの店内を見る機会など、めったにあるものではないだろう。
トイレ横の一般客の目につきにくいドアが掃除道具の収納場所になっていた。
太い身体を滑りこませた女性は、茶色い物体をバケツに半分入れて出て来た。
「オガ」
「はあ?」
「だからぁ、オガ屑だっつうの。見りゃあわかるでしょうに!」
――たしかに。
滅多に目にする機会はないが、たしかにオガ屑である。
だが、水に湿らせてあるオガ屑をどうしようというのか。
これまたいつの間に用意したのか、長い棒のついた箒のようなものを持った女性は、慣れきった手付きで床にオガ屑を横一列に並べると、すいっと箒を動かした。
箒とオガが一体となって移動して行く。
「はい、やって」
ごく簡単そうに見えたが、新人が代わると、にっちもさっちもいかない。
「だめだめ、もっと力を入れないと、箒にオガが置いて行かれっちまうよ」
――ここでも力か……。
長箒は真っ直ぐ進ませるだけでもひと苦労だが、角まで行くと右折したり左折したり、Uターンさせたりしなければならず、それなりのテクニックが要求される。
汗だくになりながら、強い視線に気づいて顔を上げると、箒とオガの扱いに悪戦苦闘する新人を、迫力たっぷりのオバサンが仁王立ちになって睨みつけている。
「ちょっと、あんた。こんなにオガを置いて行っちゃってどうするつもりだい? まさかと思うけど、先輩のあたしに始末させるつもりじゃないだろうね?」
新人をいびるのが古参の役目と言わんばかりの
慌てて振り返ると、たしかに点々とオガのかたまりが残っている。
「ぜんぜん力が入ってねえんだもの。お嬢ちゃんがままごと遊びやってんじゃねえっつうの」グッドタイミングな女性の加勢に、迫力オバサンは手を叩かんばかりに喜んでいる。
「あとでやっとくから、もういいよ。まだまだやることは山ほどあるんだからね」
つぎに連れて行かれた作業場所はエスカレーターだった。
まずはパチンコ店にもあった水色のフワフワの道具で、手すり部分の埃を取る。濡れタオルで転落防止のアクリル板を拭く。動いていないエスカレーターを歩いて作業しながら、前向きに上るときはいいが、うしろ向きに降りるときは少し怖い。
――でも、どうやっても手に負えないオガよりはましだ。
ふっと気が弛んだとき、記憶に新しい訛声が飛んで来た。
「ちょっと、なにやってんだ、そこはあたしの縄張りだよ。けんか売る気かい?」
床拭きモップの先を買い物カート置き場に侵入させたのがいけなかったらしい。
「だから何度も言ったはずだよ! そこは絶対にやっちゃあいけねえってさあ」
間髪を入れず加勢する女性に、新人を庇おうという気はサラサラないらしい。
怒髪天を突くオバサンに耳打ちをしてクスクス笑い合った女性は、大きな臀部をユッサユッサ揺すりながら、萎れる新人をしたがえて道具置き場へ取って返す。
今度はフロアに置かれた休憩用のソファや、軽飲食用の机と椅子の拭き掃除。
それが済んだらそれらをすべて除けてフロアにモップをかけ、また元にもどす。
これまた見かけ以上の重労働で、下着までぐっしょり濡れるほど大汗をかいた。
オガが行き渡らない狭い場所や、目視でゴミが目立つところに掃除機をかける。
最後にきれいになりさえすれば、順番はどうでもよさそうなものだが、パチンコ店の場合と同様、ここでもそうはいかない。なによりも仕来りが最優先である。
まず青いタオルでテーブル、つぎに別のタオルで椅子を拭く。
自販機全体の拭き掃除と、入り口の抗菌剤の補充も忘れずに。
最も留意すべきは、ATMコーナーに絶対に近づかないこと。
このあたりになると、新人の意識は朦朧として来始めた。
「なにやってんのさ! もっと力を入れて! 遊んでんじゃないんだよ!」
自分では渾身の力を込めているつもりだが、この道ひと筋に何十年のベテランの目には、軽く撫でているようにしか映らないらしい。
そういう女性はといえば、どの作業も最初に1回やってみせると、あとは新人に丸投げし、あちこちの仲間のところへ出かけて行っては適当にブラブラしている。
そして、もどって来て作業が終わっていないと、目と口で猛烈に当たり散らす。
主任には渋い顔をしてみせたが、教育係の恩典と打ち明けているようなものだ。
「ここまでで、ほぼ半分。あとは大事なトイレ掃除に使うことになっているから」
珍しくエレベーターを一緒に掃除してくれながら、女性は平然と言ってのけた。
――ええっ、まだ半分? うそでしょ? トイレ掃除ってどれだけ大変なの?
すでに体力が限界に達していた新人は怖気づいた。
果たして、屈みっぱなしで行うトイレ掃除は、いままでで最高の重労働だった。
男子、女子、フリーと3か所設けられたトイレにも、厳格な作業手順があった。
洗面台、鏡、エアータオル、便器まわり、便器、床……それぞれに用具があり、
「あっ、ちがうってば、そのタオルでそんなところを拭いたら汚いでしょう!」うっかり間違えると、こっぴどく叱られる。
トイレ掃除に尋常ならざる熱意と誇りを持っている女性は、先刻までのチャランポランな態度をあらため、ほぼ付きっきりで、矢継ぎ早に指示を出して来る。
「あのねえ、さっきからイライラしてんだけどさ、すみませんだのありがとうございますだの、いちいち言われたら面倒くさいんだよ。なに気取ってんのあんた!」
思いがけないエルボー(肘打ち)を食らわせられた新人はあたふたと面食らう。
「なにが落ちているかわからない便器の周囲は念入りに見て、手ぬかりなくね」
しゃがみ込んで手本を見せていた女性の腰まである髪の先が、墨壺に吸い込まれるように便器にどっぷり浸かったが、萎縮しきった新人にはなにも言えなかった。
働き始めて3日目の朝だった。
「ちょっとあんた、もう2日も教えたんだから、そろそろ独り立ちしてくれないと困るよ。昨日、主任に訊かれたんだよ、あの新人、ものになりそうか? ってさ。早いとこものになってもらわないと、あたしの教え方がわるいみたいじゃないか」
面接のときと話がちがう。
第一、かげでコソコソそんな話をするなんて、どっちもどっち、卑怯な連中だ。
しかし、ここが正念場と考え直し、図太く居直ることにして今日に至っている。
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