第3話 パチンコ店の開店前清掃バイト初日です。
牛乳を流したような霧の中から、
――ガオ、ガオ、ガオ、ガオ。
くぐもった声が聞こえてくる。
「鴨たちも腹が減ったってさ。おじさん、早く餌を持って来てやらなきゃあ」
「日が昇らなきゃ来っこねえよ。年食って来てさ、ヨロヨロだもの、自転車」
「ほうせやあ。3メートル先も見えねえこの霧じゃあ、危なくて出て来れんずら」
「だけんど、いまのうちにたっぷり太らせておいて、クリスマスにゃあ高く売り払おうっちゅうんだから、考えてみりゃアコギな話だよなあ、あの業突くおやじ」
向かいの田にある小さな農業用の溜め池で、年末年始の出荷用に20数羽の鴨が飼われていると知ったのは、パチンコ店の開店前清掃のアルバイトの初日だった。
ときならぬ鳴き声に怪訝な顔をしていたのだろう。
「鴨だよ」となりに立つ先輩が小声で教えてくれた。
「へえ。どうして鴨がこんなところにいるんですか?」
素朴な質問に答えはなかった。
4階建て立体駐車場の最下階。
縦横無尽に吹き抜ける木枯しを防ぐ手立てはないが、小降りの雨や雪ならかろうじて凌げるほどのスペースに、女性7人と男性1人、管理会社からユニフォームとして支給されているエプロンをつけた一団が、枯葉のように吹き寄せられている。
ほぼ点呼のみ。
前日のクレームの申し送りがあるぐらいの朝礼はすぐに終わってしまい、社員が出勤して来るまでの10数分を、吹きさらしの戸外に立っていなければならない。
ならば集合時間を遅くすればよさそうなものだが、「そんなことしてだれか遅刻したらどうするよ。文句があるならあいつに言いなよ」最若年にして最古参の金髪ネエサンが、見るからにドスの効いた声で仕切っているので、まごまごすれば母親ほど年嵩の同僚たちはなにも言えないらしい。
零下20度近くまで下がる厳寒期も、動きにくいブーツは厳禁なので、風通しのいいスニーカーの足を小刻みに踏み鳴らしながら、どこの企業のサラリーマンかと見紛うような紺スーツすがたの社員が現われるのを、いまかいまかと待ち侘びる。
ちなみに、あいつというのはビル管理会社の社員で、文字どおり烏合の衆であるアルバイト集団の上司に当たるのだが、近隣県を含め、複数の現場を掛け持ちしているので、午前7時から9時までの作業時間内に顔を見せることはめったにない。
用事があれば時間外にやって来て、指示の書類だけ置いて行くだけだが、チーフ格の金髪ネエサンとだけは、どうやらひそかに連絡を取り合っている様子だった。
伝え聞くところによれば、あいつこと某主任は新宿歌舞伎町のホストクラブ出身とかで、女性のような撫で肩に卵形の顔をのせた、いまどきの脚長青年だった。
その彼より5つ6つほど年上、バツイチでシングルマザーの金髪ネエサンが、
「ねえ、ちょっと。あいつったら、こんなこと言うんだよ。やらしいじゃんねえ」話そうか話すまいかためらいながら、やっぱり言い出さずにいられないとき、狸のようなアイメークの瞬きがにわかに忙しくなり、ふだんは無表情に突っ張っている頬がじわっと弛み、ほんの少し口調が甘くなるのは滑稽というより痛々しかった。
時給700円のアルバイト先を、市内ではなく、西山山麓の僻村に決めたのは、市街地と反対方向に向かうことで通勤渋滞を避けられると目論んでのことだった。
清掃業務は初めてだったが、なにしろたかが清掃である。
まして開店前2時間だけの作業なら楽勝と甘く見ていた。
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