第2話 その名はクルと申します。


  



 その頃のわたしは、タウン誌の契約記者のかたわら、パチンコ店や大型スーパーの開店前清掃などのアルバイトのかけもちで、ふたりのむすめたちを育てていた。


 いまでいうシングルマザーの走りだが、そういう境遇に至ったいきさつや苦労話のたぐいは口にしたくない。まあ、そのうちに話す気になるかもしれないが……。


 とにかく――


 それまで我慢させてきた犬を飼ってやる(こういう上から目線の言い方は動物に対して失礼きわまりないと思うが、ほかに適切な表現が見つからないので)ことにしたのは、姉むすめが中学校、妹むすめが小学校を卒業したその春のことだった。


 6匹(この表現も適切ではないと思うが「頭」というのもしっくりしないので)も生まれて困っているという、姉むすめの同級生のお宅に見せてもらいに行くと、やわらかな日が射す枯芝に横たわった母犬の乳房に、あまりそっくりでどれがどれやら見分けがつかない仔犬どもが、互いを踏みつけながらわらわら群がっている。


 父親はフーテンの柴犬系雑種、母犬は血統書付きラブラドールと聞いていたが、仔犬は揃って母系の血を引いているらしく、ビロードのように黒光りしている。


 そのとき、真っ黒でふわふわな毛糸玉のような1匹が、乳房に吸いつく集団からふいに抜け出たかと思うと、ヨチヨチおぼつかない足取りでこちらへやって来た。


 むすめたちが駆け寄る。

「うわあ、か〜わいい!」

 同時に両手を広げる。

 それで決まりだった。



        *



 むすめたちに抱かれて家の玄関を入ったときから、仔犬は一家の中心になった。

 ちゃんと息をしているか。ミルクは足りているか。排泄は上手にできているか。どこか痛いところはないか。苦しそうにしていないか。いっときも目を離せない。


 昼も夜もつきっきりで世話をしたが、むすめたちもわたしも少しも苦にならず、犬との濃密な時間を重ねるごとに、経験したことのない幸福に満たされていった。


 唯一困ったのは、夜になると、


 ――ピューピューピュー。


 風のように悲しげな鳴き声を張り上げ、別れさせられた母犬を呼ぶことだった。


 こればかりは、新しいタオルをふかふかに敷いたベッドがわりの菓子箱に添い寝してやっても、人間の赤ん坊のように、幼い背中をトントンして子守歌をうたってやっても、なにをしても一向に効き目がなく、3人とも寝不足の夜がつづいた。


 だが、ある晩をさかいに、あんなに激しかった夜鳴きはうそのように止んだ。

 この子はこの子なりに、この家の子になる折り合いを自分でつけたのだろう。

 そう思うと、幼い心が健気で、哀れで、愛おしくてならなかった 。


 ところで。

 名を問われて告げると、


 ――え? クル? クロちゃんでしょ?


 決まって問い返される名は、当時の子どもたちのあいだで圧倒的な人気があったコミック『動物のお医者さん』に登場する犬にあやかって、むすめたちがつけた。


 今回、勝手に本書取り(?)させていただくことにした、內田百閒先生のロングセラー『ノラや』に、ある日とつぜんすがたを消したノラの、仕方なしの身代わりのように、いささか素気なく描写されている2代目飼い猫の名前が、まさかのことに、わが家の愚犬と同じだったと知ったのは、それからずっと後年のことになる。


 しかも、彼の大先生の愛猫ちゃんの命名はドイツ語の「クルツ」(短い←尻尾)に由来するというので、彼我の品格の差異にあらためて畏れ入ったことである。

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