50 丸根砦攻防戦 ついに桶狭間開戦
五月十二日今川義元は駿府の今川屋敷を出立した。五日後の十七日、元康が沓掛城に入ったという情報がぼくの元に届く。
翌日十八日、松平元康が千の兵を引き連れて大高城に兵糧を運び込むのを、ぼくは見届ける。まさに、電光石化の動きである。
その翌日の十九日にかけて、毛利良勝、服部一忠、小六、カナデ、権蔵と共に、ぼくは丸根砦を見通せる茂みの中に身を隠し、今川方の動向を探っていた。
午前三時、南西の丸根砦の方角に、篝火の光が浮かんだ。
その光の中に、丸に葵紋、松平家の家紋が描かれた旗印が、高々と掲げられた。
空に火矢が舞い上がり、弧を描いて砦の中に落ちていく。兵士たちの怒声が、丸根砦を包んでいく。
「カナデ、戦が始まったと清州に知らせるのだ。ただちに善照寺に入るように伝えよ」
「はっ」
カナデが闇の中に消えた。
十分たち、二十分たっても、佐久間盛重の軍が撤退してくることはなかった。その間、松平軍の鉄砲の発射音が絶え間なく鳴り響き続ける。
「ハチよ、見てまいれ」
小六が丸根砦の小山を駆け上がる。
四、五分して、小六が転がるようにして駈け下りてきた。
「殿、砦は乱戦状態です。劣勢は明らか、間もなく決着がつきましょう」
「ウム……」
ぼくは頭を抱えた。やはり時空の定めには逆らえないのか。盛重の顔が浮かんだ。ぼくは砦に背中を向けて腰を地べたに下ろした。
一時間経った。
砦から火の手があがった。それに呼応して松平側の勝どきが上がる。
ぼくは槍の穂先に赤い布を巻く。顔に炭粉を塗り付ける。そして重い腰を上げた。
「行くぞ」
ぼくは四人の遊撃隊の仲間に声をかけ、丸根砦の坂道を上がった。
砦内は煙が立ち込め、至る所に死体が転がっていた。負傷兵は一か所に集められ手当てを受けている。ぼくは目を凝らして砦内の自軍の兵士を捜したが、見当たらなかった。ほとんど討ち死にしたか、負傷して横たわっているのであろう。
ぼくたちは松平軍が屯している陣屋近くの防護柵に寄りかかり、腰を落とした。松平軍の兵士たちは、一様に俯いて目を閉じていた。戦いがいかに凄まじかったかを物語っている。
一時間ほど経過した。
空は明るくなっていた。ぼくは当初の計画が破綻していることを自覚していた。小六は何も言わなかった。ぼくたちは沈黙していた。
「そこの者たち」
声がした。
顔に血糊のついた甲冑武士が見下ろしていた。
「殿がお呼びだ。ついてまいれ」
ぼくたちは俯いたまま武者に付いて行き、陣屋に入った。
松平元康が後ろで手を組んで棒立ちしていた。
「下がってよし」
武者が陣屋から去ると、元康は声を潜めて言った。
「信長殿、話が違うではありませぬか」
「弁明の余地もない」
ぼくは頭を垂れた。
「砦の兵たちは、われらの攻撃に、真正面から反撃してきたのですぞ。われの面目は丸潰れでござる」
ぼくは反論することもできず頭を下げ続けた。時空の定めだと弁明しても、元康は何のことか、理解できないであろう。
「鷲津砦も壊滅、織田軍を全滅させた、と朝比奈殿から連絡がありました」
ぼくは無言で頷く。
「松平さま、この砦の将、佐久間盛重はいかがいたしましたか」
小六が訊いた。元康は振り返り、衣裳箱を指さした。その箱の上に、首が一つ置かれている。盛重の首であった。弟信行と戦った稲生の戦いで、盛重は名塚の砦を守り抜き、橋本十蔵を討ち取るなど戦勝に貢献した強者である。織田軍きっての猛将であった。ぼくは盛重を失いたくなかったのだ。
「これからの事でござる」元康が声を静めて言う。
「鷲津砦と丸根砦を陥落させた旨を、すでに母衣武者によって沓掛城の義元公に知らせております。これから、どうされますか」
「盛重の首も、首実検のため本陣に届けるのであろう」
「いかにも」
「われら五名を、その伝令に加えてくだされぬか」
元康は腕を組んでぼくを見詰めた。
馬の嘶きが聞こえた。蹄の音が響き渡る。
先ほどの武者が顔を出した。
「殿、葛山信定さまの軍五千が到着、大高城に向かっております」
元康が陣屋の外に飛び出していく。僕も仲間と共に外に出た。
およそ五百騎が、砂ぼこりを上げて大高城に向かって疾走していた。その中の一騎が、元康に向かってくる。大高城への街道を、四千五百の歩兵が、長槍を背負って延々と連なって歩いてくる。
「信長殿、甲冑に着替えてくだされ。陣屋の奥の木箱の中にあります」
ぼくは仲間と共に、陣屋に入った。
外から、松平殿、という叫びに近い声がした。
「葛山信定でござる。義元公は、間もなく沓掛城を出立、二万の兵を率いて、大高城を目指して進軍してまいる」
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