7 信秀と竹千代 



 

 帰蝶との婚儀の翌月、隣国今川からの侵攻が始まった。今川の石高は百万石である。織田はその五分の一の二十万石にすぎない。この第二次小豆坂の戦いは惨敗に終わった。安祥城の守備の任に当たっていたのが、信長の兄織田信広である。信広は側室の子で家督相続権を有していなかった。


 翌年天文十八年(1549)三月、今川松平の連合軍二万が、再び侵攻してきた。安祥城は陥落、信広が人質にとられた。そして松平竹千代との人質交換を提案してくる。信秀はこの提案を受ける。ぼくの眼から見れば、父信秀らしからぬ弱腰な振る舞いだった。この頃から、体調がすぐれなかったのかもしれない。

 

 二年間にわたるこの二つの戦いにぼくは参戦していない。信長戦記には載っていないのだ。とにかく織田は西三河の拠点を失った。大きな痛手だ。


 二年間、竹千代は織田の人質になっていたが、ぼくは一度も会ったことがない。手持ちの史料によると、竹千代は八歳の子供だ。信長の居城那古屋城の近く、万松寺に幽閉されていた、とある。

 将来のことを考えると、一度会っておくべきだったと、ぼくは後悔した。



 父織田信秀が倒れた、と末盛城から伝令が来た。

 ぼくは、帰蝶と政秀を伴って末盛城に向かった。

 天文二十一年、1552年の三月のことである。


 三の丸の寝所に入る。信秀は上段の間の臥所に体を横たえていた。枕元に弟信行と母土田御前が寄り添っている。土田御前の後ろに織田信光の姿があった。

 寝所の大広間には、宿老や側近たちが、大勢控えている。


 ぼくは太刀を持って、信秀の臥所へ歩いた。土田御前に礼をして、信秀の枕元に胡坐をかく。信秀は薄目を開けていた。

「父上」

 ぼくは声をかけた。右手を握り締める。握り返してこない。左手を握る。信秀の眼差しがわずかに動いたように見えた。ぼくの手を握ってくる。

 右半身不随。脳卒中になったのだ。信秀は梅干しが好きだった。きっと高血圧だったに違いない。


 ぼくは太刀を信秀の左手に持たせた。

 信秀の佩刀、九字兼定である。元気なころ、信秀はこの太刀を持って戦場を駆け回った。二年前、帰蝶と結婚した時に、信秀から贈られた名刀だった。


 信秀の唇が動いた。

 ぼくは耳を唇に寄せた。

「せがれよ……」

 微かな声がした。

 ぼくは耳を澄ます。

「……だれにも、……気をゆるすな……」


 ぼくは顔を上げ、信秀の目を見た。ぼくを見ている。

 ぼくは瞼が熱くなった。信秀とは僅かしか話をしたことがない。あれほど勇猛で恐れられた父信秀は、ぼくに対しては優しかった。初陣の報告に行った日の、信秀の思いがけない言葉を思いだしていた。


「惣領殿、殿は何と申されましたか」

 信光が尋ねた。土田御前と信行が見つめてくる。寝所が静まり返った。ぼくは寝所を見回した。そして静かに言った。

「尾張を、頼む、と」


 父信秀が亡くなった。

 信秀四十二歳。信長十八歳の時である。


 信秀の葬儀は、三月七日。会場は万松寺。喪主は信長と決まった。



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