6 藤吉郎と帰蝶と小六と





 その日、ぼくは朝から落ち着きがなかった。

 帰蝶が輿入れをしてくるのだ。彼女は天文四年生まれだから、年齢は信長の一つ下だ。信長は十五歳、彼女は十四歳。初めて顔を合わせる。緊張するのは、当然だろう。


 廊下から足音が聞こえてくる。

 ぼくは立ち上がった。

 犬千代が廊下に膝まづく。

「信長さま、カナデからの使いの者が参りました」

「ここに、呼べ」


 庭先に野良着姿の男が膝まづいた。

「藤吉郎なる者が、頭陀寺城を出たそうです。一刻も早くお越しくだされるようにとのことです」

「分かった。すぐ参る」

 ぼくは足袋を持つと、湯帷子のままで廊下を走った。犬千代が冬羽織を抱えて転がるように付いてくる。


 馬を飛ばし、頭陀寺城下に着いた時、陽は西に傾いていた。

 街道の真ん中に、カナデが突っ立ている。

「信長さま、藤吉郎なるものが、こちらに従わぬゆえ、拘束し納屋に閉じ込めております」

「わたしの名を伝えておるか」

「はい」


 カナデは、ぼくを街道外れの農家の納屋に連れていった。

 引き戸を引くと、小柄な男が猿ぐつわを咬まされ、足と手を縄紐で縛られて土間に転がっている。ぼくは、腰を屈めてその顔を覗き込んだ。やっぱり猿だわ。藤吉郎はサルだった。

「おまえは、木下藤吉郎か。そうであったら頷いてみせろ」

 男は目を見開いて、ぼくを睨みつけている。

「おまえは、六天魔王と話をしたか」

 男はぼくを見つめたまま頷いた。

「カナデ、猿ぐつわを外してやれ」


「六天魔王について、説明してみろ」

「おまえは、まことに、織田信長か」

「そうだ」

 男は天を仰ぐと大きな口を開けて笑い出した。

「夢の中で、六天魔王と名乗る魔物が現れて、こう言ったんだ。後五年したら、織田信長の所に行き、仕官したいと申し出よ。必ず願いが叶うだろう、と。わたしは、木下藤吉郎です」

「縄紐を解いてやれ」


 藤吉郎は胡坐をかくと、土間に額を擦りつけた。

「わたしの所で、働く気があるか」

「五年経ちますれば、仰せの通りに」

「五年も待てぬ。一日でも早く、お前が必要なのだ」

「六天魔王さまの、お怒りをかいまする。なにしろ、魔物のごとく、恐ろしき顔をしておりました」


「そうだな。ならば、わたしの友達として、わたしの所に遊びに参れ。それでよかろう」

「信長さまが、それでよろしければ、そのように」

「心配するな。六天魔王が現れれば、わたしが弁明してやろう」

「それでは、主君の松下さまのお許しを得て参ります」


「信長さま、一刻も早く那古屋城に戻らなければ、帰蝶さまとの婚儀に間に合いませぬ」

 犬千代が焦りの声を上げた。



 那古屋城二の丸に入ったのは、夜半を過ぎていた。

 気が重い。それなのに心がざわつく。

 わざと遅れて戻ったのだ。

 足袋と冬羽織を脱ぎ、それを抱えて、そっと寝所の襖障子を引いた。寝所には布団が二つ並んでいる。廊下側の布団には掻巻を着た女が寝ている。忍び足で奥の布団に向かう。布団の上には、見たこともない掻巻布団が敷いてある。ぼくは袖を通した。布団の上に横たわり、大きなため息を漏らす。


 そっと横の女を見た。眠っている。この女が帰蝶か。

 すべてのことは、明日になってからだ。

 ぼくはほっとして吐息を漏らした。眠りに落ちた。


 重苦しくて目が覚めた。帰蝶がぼくの体にしがみついている。ぼくの目を見つめると、掻巻布団の中に潜り込んできた。大胆にも、ぼくの体を撫でまわしてくる。ぼくは彼女を抱きしめた。ぼくも彼女の要望に応えて帰蝶の体を撫でまわしていく。


「ぎゃあー」

 ぼくは大声を上げて飛び上がった。

「お~と~こ~}

 ぼくは這いつくばって、廊下に逃げる。

 帰蝶が追ってくる。ぼくを仰向けにして、腹の上に跨り、両手で短刀を掲げた。

 鬼の形相で叫んだ。

「信長さま、お覚悟」

 ぼくは目を閉じた。


 襖障子が荒々しく開けられた。

「帰蝶どの、お戯れも酷すぎますぞ」

 ぼくは目を開け、その声の主を見上げた。髭面の若者が仁王立ちしている。

 帰蝶はぼくの体から転げ落ちると、腹を抱えて笑い出した。

「小六、信長殿は、ウブで弱いぞ」

 ぼくは、起き上がり胡坐をかいた。

 眼光鋭く、小六がぼくを見詰めてくる。

「信長さまも、信長さまです。男色は戦国武将の嗜みでありますぞ」


 動悸が止まらない。

 男は嫌いだ。断じて嫌いだ。

 戦国時代……、もう嫌だ。



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