終章 家族

 手が伸びてくる。それは母の首に伸びて、そのまま母は抵抗もせず……

 目が覚めると、ライリオンは全身が汗ばんでいた。

 いつもの夢だ。隣を見れば、やはりそこに愛しい妻の姿はなく、シアンだけが丸まっている。彼女がそばで寝息を立てているときだけ見なくなった悪夢を、ライリオンは久方ぶりに見たのだった。

「さて、聖女様はどうしていないのだろう?」とシアンの毛並みをなでながら考えて「ああ、友人のところだろうか」と合点がいく。そういえば、いつの間にか友人になっていたらしい、異母弟おとどのメリエルの正室であるアルバと、明日は小さな茶会を開くのだ、とローディアは言っていた。

「だから、すこし早く出かけるのよ」と彼女が話していたことを思い出し、ライリオンは深い息をついた。

 その話をきいたときになにも思わなかったのは、ひとえにこんな夢を忘れるほど、一緒に床を供にしていたからだ。供に、とは言っても、そこに性的なものは一切なく、だからこそローディアも安心して、いまになってはほぼ毎日ライリオンと同じ寝台で眠っているようだった。

「少し前まで別室で寝ていて、それを臣下しんかたちにとやかく言われるほどだったのにな」と思えば、あんな夢を見たあとだというのに、心が安らいでくる気がする。

「おはようございます、ライリオン様」

少年の声に、シアンがびくりと体を竦める。緩慢かんまんにライリオンが少年のほうを見れば、それはローディアの護衛であるマルタであった。

「なんだ、マルタ。お前はローディアについていかなかったのか?」

「アルバ様のもとに行くと言って、ジン様だけ連れていかれたんです」

「ジンだけを?」と問うと、マルタの話によれば「ただいつもアルバのもとに行くときはジンではなくマルタであったから、アルバに今度は英雄様を連れていらっしゃいよと言われた」というだけであるらしい。それはアルバらしい提案であって、ライリオンも成程と頷いた。

 アルバの部屋には、アルバの侍女が用意した特製の焼き菓子と、良い香りの茶葉、そしてアルバとローディアとジンという不思議な三人が揃っていた。

 ジンはといえばテーブルについているわけでもなく、ローディアの後ろに立って、二人の話を無言できいている。時折アルバがジンに話を振っても、ジンが話を得意としていないことを知るローディアが、適度に受け流していた。

「ところで、お話しというのは? アルバ様」

 茶が進み、話題も尽きてきたところで、ローディアがそう訊ねる。今回の茶会はアルバがローディアに「話したいことがあるの」と言い出したことから始まったものであった。アルバはローディアの問いに、無言で目をふせる。

「言いづらいことかしら」

「そうね……」

 アルバがそう、やっと口を開いても、またすぐに閉ざしてしまう。ローディアはそっとジンを振り返って、また再びアルバに向かい合った。

「ジンを下がらせましょうか?」

「いえ、良いのよ。私が来いと言ったのだもの。来てもらっただけで、全くお話しなさらなかったけれど」

「申し訳ありませんわ、アルバ様。ジンは口下手なの」

「そう……あの人も、それくらい無口だったらよかったのに」

 そのアルバの言葉に、ローディアはますます首をひねる。

 ――もしや、メリエルのことでなにか、私に話したいことでもあったのだろうか……

「……あの人、いま、桃色の髪だとかいう浅ましい娼婦にくっついているのよ。それで、こちらにはほとんど帰ってこないの。ローディア様も、最近メリエルを見ないでしょう?」

「そういえばそうですわね。そう、娼婦のところに行っていたの……それはなんというか……」

「みっともないとしか言いようがないわ。娼婦、娼婦って、あの人、私と婚姻こんいんを結んでからも、一度も遊びをやめたことがないの」

 その言葉はとても淡々としていたが、だからこそそこに燃え盛る嫉妬があるのに、ローディアは勘付いていた。しかしそれを指摘すれば、アルバはローディアにさえ心を閉ざしてしまうかもしれない。

「挙句」とアルバは呟き、それきり口を閉ざした。

「挙句?」

 ローディアがたずねかえしても、もうアルバは話をしたくもなさそうだった。

「違う話にしようか」とローディアが思案していると、そこに場違いな軽い足音が割り込んできた。

「ただいま、アルバ。元気にしていたか?」

「メリエル様……」

 渦中の人物の登場に、アルバの眉間に皺が寄ったのを、ローディアとジンははっきり見た。

 メリエルは「おや」とでも言いそうな顔をして、はあとため息をつく。

「最近、ずっと機嫌が悪いようだな、アルバ。いつ帰ってもそんな顔をされては、こちらも気がめいる」

「言いたいことはそれだけかしら? はやくおやすみになれば? そのためだけに返ってきたのでしょう」

「そうさね。そうしようか。花でもと思って準備したというのに、これでは」

 メリエルの言葉に、アルバは顔をますますしかめる。

 ローディアはメリエルの手元を見た。メリエルの手にはたしかに小さな一輪の花がそっと握られており、それは透明の包装にアルバの目の色のリボンが巻かれていた。

「捨てて」

「そうかい」

 アルバの冷たい一言に、メリエルのほうも少々頭にきたらしく、短くそのアルバの言葉に返した彼の声も、平静にない冷淡さをはらんでいた。

 ローディアとジンが顔を見合わせた、その瞬間だった。アルバが泣き崩れたのだ。

「出て行って、顔も見たくない!」

 アルバは叫び、持っていたカップの中身をメリエルにぶちまけた。それを避けもせず、メリエルの派手なフリルに茶の赤が染みる。

 それをちらりと流し見て、メリエルはその染みを軽く指で触れてから、ため息をついた。アルバはそれにますますヒステリックに声を荒げる。

「なにがミーシャよ! あの女がそんなにいいなら、あの女こそ正室にしてしまえばいいのだわ。そうすれば私もお払い箱で、貴方には利しかないでしょうに」

「何度言えばわかる、アルバ、ミーシャは……」

「ききたくない!」

 アルバが卓上の食器をひっくり返す。ジンがとっさにローディアをかばい、マントに菓子を引っかぶった。

「奥方様」とジンはローディアに退室をうながしたが、ローディアはアルバの初めて見る勢いに飲まれて腰が抜けているようで、ジンに必死でしがみついているだけである。

「お払い箱にしてしまえばいいの……そうすれば……私も」

「どうしたんだい、アルバ。ここ最近、お払い箱、お払い箱、とそればかり」

 その言葉に、アルバは一瞬動きを止めた。その不気味なほど静かな空白ののち、アルバはメリエルに宣告するかのような響きの声で言った。

「子どもができたの……男の子かしらね。女の子を貴方は望むでしょうね。貴方は自由でいたいのだもの。ああ、そうか、もしかしたらどちらにしろ邪魔かも……でも私は男の子を産むわ。王にして、貴方の息の音を止めてやるから」

「アルバ」とメリエルがアルバの名を呼ぶ。しかしアルバは呪詛じゅそのような言葉を吐きつづけた。

「いつもみたいに軽率に笑うこともできない? そうでしょうね。こんなこと、貴方にとっては最上級の災難でしょう。ふふ、いい気味ね」

 二度目の嘆息たんそくを吐いて、メリエルはアルバに背を向ける。寝室に入る前にちらりとアルバを振り向き「俺は嬉しいよ、アルバ。男の子でも、女の子でも」

「うるさい!」

 アルバはいよいよ、メリエルが消えた扉の背に茶器を投げつける。がちゃんと派手な音を立てて壊れた茶器に、ローディアが短い悲鳴を上げた。そんなローディアを庇っていたジンは、その場に立ちつくしうなだれているアルバに近づいた。

「落ち着いてください」

 は、とアルバは大きく息を吐く。それから断続的にはは、と声を出してまた口をつぐみ、そして腰から崩れ落ちた。

 両手で顔を覆い、全身を震わせて、しかし声は漏らさずに……泣いているようだった。

 アルバの様子にローディアは震える足をなんとか引きずり、アルバへと手を伸ばす。ローディアが触れると、アルバは一瞬びくと体を竦めた。

 ――子供ができたの

 その言葉に、ローディアはやっと、あの桃色の髪の娼婦を一度だけ見たときに、彼女の腹が大きくなっていたことを思い出していた。

 ――もしかしてアルバは、そのことを知っているのだろうか? だからこんなに身を震わせて泣いているのだろうか……

 しかしローディアは、それをたずねることができなかった。震える細い肩を抱き、その背を優しく摩る。

 抵抗もせず、アルバはそのままローディアの胸ですすり泣いていた。

 アルバの様子を見に、ローディアは早足で廊下を進んでいた。あの後、いつもであれば一週間に一度は茶に誘っていたアルバが、何の音沙汰もなくなったのが心配で堪らなかった。

「アルバ様?」

 アルバの私室について、上がる息を整えノックする。耳が鳴るほどの静けさに、ローディアはじれて何度か扉を叩く。やっと開いたと思えば中から出てきたのはアルバではなく、彼女気に入りの侍女であった。

「アルバ様はいらっしゃいません。お引き取り下さいませ」

「アルバ様がいない?」

「ローディア様、メリエル様をお見かけになりましたか?」

 ローディアの問いに答えず、たずね返す侍女に、ローディアも違和感を覚える。

「メリエル様?」とその名を返せば、侍女は困惑している様子でローディアに言った。

「メリエル様がお戻りになっても、室に入れないようにと言うのです。かと思えば、朝がたにはもう、アルバ様のお姿が見えなくて……」

「今朝からいないというの? まあ、どうしていままで探しもせず」

「探しました。城内の至る所を、西の塔までも。それでもいらっしゃらないのです。それに、それも今日始まったことではなくて……いつも、夜にはお戻りになるのですが」

 その言葉に、ローディアは気が付くと、アルバを思い当たるところすべて探し回っていた。

 東の塔、中央、西の塔、騎士団に続く森の中……ふと思い当たり、まさか、とアルバが以前ちらりと話していたことを思い出す。その場所は王宮の庭園のずっと奥で、そこには寂れた東屋がぽつんとあり、そこでメリエルと初めて会ったのだと彼女は言っていた。

 アルバの姿を探して、ローディアはカナリアの木彫り人形が門番をしている鉄門をくぐった。美しい庭園は、アルバ一人など簡単に飲み込んでしまうほどに広く、その広さがローディアには心細かった。

「アルバ様……」

 どれくらい時間が経ったのだろうか、気が付くとローディアの純白のドレスは裾が泥に塗れてしまっていた。

「アルバ様」と何度も呼んで、ついにローディアが「ここに彼女はいないのか、あの東屋も自分の記憶違いで存在しないのか」と思ったとき、不意にその姿が目に入った。

 入口の鉄門にくっついているカナリアと同じ人形が至るところに飾られた、年季のある可愛らしい東屋が前方に見えている。ローディアは慌てて、あった、とその東屋に近づいた。生垣のざわざわという音で、そこにいた人物がこちらを見る。

 ――アルバだ

「アルバ様、やはりここにいたのね」

「どうしてここがわかったのかしら、嫌な人」

 うつろにそう言って、アルバはすぐに視線を逸らし、頬杖ついて庭園を再び眺める。ローディアは彼女にそっと近づいて、彼女の前の席を指し「座っても?」

「良いわよ。許可なんていらないでしょう、私のものでもなんでもないんだから」

「アルバ様、ご加減は大丈夫ですの? こんなところに居ては、体を壊しますわ。いまは大切な時期でしょう」

「大切な時期ね……気がめいってばかりよ。こんなことなら子なんて欲しがるのではなかったと、そればかり考えてしまって」

「アルバ様は……子が嫌いですか?」

 そのローディアの問いに、アルバはちらりとローディアを流し見る。それから息をついて「嫌いじゃない。そういうことではないの。そもそも、子を嫌っているのは、私でなくあの人でしょう」

 ――本当に、アルバはそんな風にメリエルのことを思っているのだろうか

 そんなことは、きっと、ない。だからこそアルバは傷ついて、あの瞬間あんなにも苦しそうに暴れて泣いていたのだろう。しかし、アルバの口からこうも否定的な言葉が飛び出せば「自分も、腹の子でさえ、嫌な気持ちになるのでは」とローディアは思う。

「アルバ様、メリエル様はきっと、アルバ様のことをとても大事に思っているわ」

「そんなことはないわ。あの人、女にならば誰にでも、わりあい優しいほうだから、そう思うだけよ」

「そうでしょうか。愛しているから、瞳の色のリボンなんてみつくろってくるのではないかしら」

「瞳の色のリボン」と訊いて、アルバはちょっと肩をすくませる。

「あれのことね」とその形の良い唇で呟いて「あのみっともない花、もう捨てたわ。あのあと、机を見たら、花瓶に挿してあったの。ご丁寧にあのリボンはその花瓶に巻かれていたわよ。本当にきざというか、ばかだというのか……」

 言いながら、アルバははあと深いため息をついた。なにか目頭が熱くなるらしく、そっと指で眉間に触れてうつむいてしまう。

「嫌になるわ」

「アルバ様は、メリエル様がお好きなのね」

「どこを見ていればそんなおかしなことが言えるのかしら。あの人を嫌っていることくらい、すぐに分かりそうなのに」

「夫婦という感じが、するのです。アルバ様とメリエル様は、本当にお似合いよ」

「やめて頂戴」

 そういうアルバの顔は心底嫌そうで、しかしなんとなく、数刻前よりほころんでいる気もする。ローディアはしかし、それ以上は追及せず「アルバ様。この東屋でメリエル様と出会ったと言っていましたわね」

「ええ、そうよ。嫌な記憶でしょう」

「カナリアの人形が可愛らしいところね。とてもロマンチックだわ」

「少女らしいことを言うのね」

 やっと、アルバが微笑む。それにつられて、ローディアもくすくすと優しい声でつい笑ってしまう。

「少女らしいかしら?」

「ええ、やはり貴女はまだ若いのねって思うわよ……今度私のとっておきの小説を貸しましょうか?」

「それは嬉しいわ。毎日時間をつぶすのが苦痛なほどなのよ」

 そう愚にもつかない話をしているうちに、空が橙に染まる。その頃にはアルバはもうすっかり元気になっており、ローディアと別れるときには、ローディアを抱きしめていた。

「また、お茶会しましょう。私も、いつも時間を潰すのが苦痛だものね」

「それはいいわね」

 ローディアの言葉を真似るアルバに、すっきりとしたものを感じてローディアも白い歯を見せる。アルバの体が離れ、その姿が渡り廊下の端に消えたときには、ローディアも何故かせいせいとしていた。

「アルバ」

 アルバが東の塔に着くと、メリエルが待っていた。少し疲れた顔でアルバに近寄る彼に、アルバはすこし体を避ける。

 折角気持ちが晴れていたのに、とその顔に嫌気がさしたが、しかし彼がいつものにやけ面ではなく、真摯な顔をしていることに気が付き、アルバは「まあ、そんな顔をしているのなら、話をきいてやってもいい」とちょっと胸を張った。

「体を冷やしていないか? 部屋に戻ろう」

 メリエルの言葉に、アルバは「なによ」

「なによ、とは? 心配しているんだよ。体を壊してはいけないだろう」

「そういって、今日もミーシャに会いにいっていたのでしょう」

「ミーシャもちょっと目が離せなくてね。すまない」

身重みおもだからかしら」

 アルバの言葉に、メリエルはちょっと驚き目を見張る。だが、表情の奥に、その驚きは隠されてしまう。しかし彼は、いつものように軽率に笑いもしない。

「どうしてそれを?」

「私がなにも知らないと思っているのね、本当にうつけだわ、貴方。毎日、毎日、貴方が尻を追っかけていれば、彼女のことが噂になるのも当然でしょう」

「そうか」

「貴方の子なの?」

「そうだよ」

 アルバの問いに、メリエルは少し迷う素振りを見せた後、そう静かに頷いた。アルバはその、否定もしない態度に苛立つ。

 それでもここで感情を露わにしても、アルバが傷つくだけだ。

「そう」

 ――本当は、マリア様の子なのでは?

 女の勘とでも、言うのだろうか。何故だかアルバは、あの東屋でぼうっと物思いにふけるうちに、そんな突拍子もないことを思いついていた。どうしてそう思うのかは自分でもよくわからないし、弟とはいえ他人の子に、どうしてメリエルがそこまでするのかもわからない。

 メリエルはそのミーシャとかいう娼婦のことを愛しているのだろうかとも思ったが、そうでもない気もしていた。愛だとか恋だとか、そんな汚いものより、メリエルのミーシャへの感情は、随分綺麗に見えるのだ。

 それでも自分の問いに、彼は「そうだ」と答えた。それが答えであって、きっとそれ以上は自分がどう問い詰めてもうんともすんともいわなくなるのだろう。

「それならなにも知らない振りをしてあげるわ」とアルバは彼に同情する。

 ――あのとき、嘘でも「男の子でも女の子でも嬉しい」と言ってくれたお礼よ。メリエル・アージー=キングストーン

 アルバはそう、薄っすら微笑む。その笑みを見たメリエルは、なぜか目を逸らした。しかしアルバはそんなメリエルの表情の変化を追いかけもせず、メリエルの横を通り抜けて東の塔を進んでいく。

 その後ろを、数歩、遅れてついてくるメリエルを、今度はアルバも嫌がらなかった。

 柱の向こうに佇む人影に、ライリオンは目をこらした。

「マリアだ」と思ったのもつかの間、影はすぐに王宮に続く渡り廊下のほうに消える。マリアが西の塔の様子を時々伺っているのは知っていた。しかし「なぜだろう」と思う。マリアにしてみれば、ライリオンは、近寄りたくもない存在である。

 ライリオンの弟は、三人いる。そのどれもが異母弟であり、メリエルとはそこまでなくとも、マリアとセルフィウスというまだ若い二人とは、ライリオンはあまり話したことがなかった。いや「マリアとは幼少期にはよくつるんでいたが、それも彼の母親のせいで……」と考えて、ライリオンは「今更思い返すことでもない」と首を振る。

「今更」とは思っても「あの時もう少し、マリアにしてやれたことはあったのではないか」というのは、ライリオンの心の隅にいつもあった。

 当時ライリオンはまだ幼稚で、王妃という高貴な女性の血を継ぐ、真っ当な王子であるマリアが羨ましくて、憎らしかった。

 自分がどんなに努力をしても手に入らない、立場や名声を、マリアは幼いながらに持っていた。

 マリアも努力したということはわかっていても、それ以上の努力を重ねても、名声はライリオンには絶対に手に入れられないものだった。

 ライリオンの血筋が様々なものを邪魔するのが当たり前のように、マリアの血筋はマリアを駆り立てた。それがライリオンには腹立たしく思えたのだ。

 だから、マリアがライリオンの傍に好んで居る理由が、ライリオンには全く分からなかった。

 確かに幼い弟の世話はよく見ていた。メリエルなどははなからライリオンに近づいてこなかったが、マリアは何故かライリオンの傍にいるのを好んでおり、だからライリオンも、それをむげにできずに、可愛がっているように見える行動はしていた。

 それも、自分の汚い気持ちを、周囲から隠すため以外の何物でもなかった。

「ライリオン様?」

「ああ」

 トランに名を呼ばれ、ライリオンはマリアがいた柱の陰から目を逸らす。

 トランはそちらをちらりと見て、それからライリオンににやりと白い歯を見せる。

「殿下がいらっしゃいましたね。彼はよくこちらを眺めているようで」

「なにか用事があるのだろうか」

「さあてね……心を読むのにも、殿下の心中は少しこたえるものでして、あまり気が進まない」

「読まなくて良い……こたえる、か」

 トランの言葉をきっぱり断ってから、ライリオンは少々考え込む。

「こたえる」とはどういう意味だろう。しかしトランにそれをきくのは、この臣下が面白がることを知っているからこそ気が進まない。

「ライリオン様が気になるというのなら、俺はいつでも答えるし、殿下の心中も詳しく覗いてみせますよ」

「良い。マリアは俺を憎んでいる。それだけ知っていれば充分だ」

「そうでしょうかね」

 トランのほうを見ているライリオンの、その視線をそらすように、トランはおもむろに「ああそうだ」と言って手元に文字をうつした。

 それは魔法によるもので、トランならではの情報提供だ。魔法でいま瞬間的に文字を見せるのであれば、形に残らないから、というのはトランの言い分である。ライリオンはそれを頭に叩き込み「そこはこうしろ」と判断を下してトランに委ねる。

 トランの策と、幽閉した祈師の神通力によって、こたびも王国軍は無事に勝利を掴むことができそうだった。

「して」とトランは口火を切る。

「ライリオン様が戦場に出る必要は、もうしばらくないでしょう。今日くらい休日として、奥方様とのんびりなされても良いのでは?」

「そうだな……戦地におもむこうと思っていたが」

「その必要には及びません。戦地にはもう赤旗が到着してますよ」

 トランの言葉に、ライリオンは目を瞑る。そうだな、と頷いて「それなら、マリアのもとへいこうか」

「おや……これは意外」

 ほくそ笑むトランをいちべつして、ライリオンは背を向けた。

「ローディアを連れて行こうか」と、以前彼女がちらりと「弟たちにお目通りしたい」と言っていたのをライリオンは思い返していた。

 ライリオンが室に戻ると、ローディアはやはりそこにいて、シアンとともに寝台に寝そべり本を読んでいた。

 マルタとジンがライリオンに敬礼する。それを制止させ、ローディア、と彼女の名を呼べば、ローディアはライリオンのもとへと駆け寄ってきた。

「おかえりなさい」

「なあ、ローディア……マリアに会いにいかないか?」

 そのライリオンの提案は、やはり思いがけないものであったらしい。ローディアは鼻白んで「えっ?」と訝し気な声を上げた。

「どうして?」

「いや、そういえばまだ会わせていなかったなと思ってな。以前、貴女も会いたいと言っていただろう」

「覚えていらしたの? いえ、それは良いのですけれど……突然ね?」

「あいつも暇をしているみたいだったからな」

 言って、ライリオンは笑う。ローディアは「ちょっと待って、身支度を」といってセレンとともに鏡台に座った。

 マリアのいる東の塔に入るのは、ライリオンとしても数年ぶりだった。

 ここにはメリエルの妻、アルバがいるからか、妻のローディアには慣れた場所であり、ライリオンよりもローディアのほうが落ち着き払って見える。

 勿論ライリオンも、おもむろに興奮しているわけではないのだが、やはり意識のすみでは、柄にもなくいささか恐縮きょうしゅくしてしまっていた。

「さて、マリアはどこにいるのだろう」と辺りを見渡す。と、面白いものを見つけたといわんばかりの表情を浮かべたメリエルと出会った。

 メリエルは片手をあげてこちらに軽い挨拶をすると、おもむろに近づいて「珍しい人物を連れてきたな、聖女様。アルバに言われたのか?」

「違いますわ。ライリオン様がマリア様に会うからと私を連れてきたのよ」

「おや、それは珍しい。どういう風の吹き回しだ? 兄上」

「そういえば、ローディアが一度会っておきたいと言っていたのを思い出してな。今日は私もトランに休めと言われて退屈だったから、丁度いいかと」

 そうライリオンが簡単に説明すると、メリエルはそれで納得したらしい。

 ふうんと鼻を鳴らして「折良く、今日は王妃様は視察にいってるんだ。マリアに会うには絶好の日だよ……マリアならそこの庭園に居たと思うけれど、連れて行こうかい? それとも連れてくる?」

「連れてこられるのか?」

「嫌がる弟君を引っ張ってくるなんてわけないね」

 メリエルがそう、意地悪く目を細めて笑ったのを見て、ライリオンもひとしきり笑い「いや、やめておこうか。こちらからいくよ。庭園だったな。珍しい、あいつは最近離宮にはいっていないのか?」

「そうだよ。俺のせいでね」

「ほう、お前のせいか」

「そうだ……まあ、その話はあとで。あまり長話をすると会う前にマリアが執務に行ってしまうのでは?」

 そうだな、とその言葉にうなずいて、ライリオンとローディアはメリエルと別れて庭園にでた。

「マリア様は、ここに?」

「ああ、そうらしい……と、いた」

 庭園を進み、奥の東屋のほうを見たライリオンの表情に、ちらりと緊張が走る。

 そのライリオンの視線の先を向いて「ローディアはあの方?」と首を傾げた。

 東屋の椅子に座って、マリア・ドルフォン=キングストーンは遠くを眺めているようだった。金髪は長く、ひとつに結って肩に垂らしており、その目はライリオンと同じ青をしている。

 まるで女性のような顔立ちはライリオンとまた違うが、細工でできているように美しく、彫は深いが、受ける印象が薄い。彼はちらりとこちらを見ると、慌てたように音を立てて座っていた椅子を蹴って立ち上がった。

 真っ青な顔でライリオンを凝視する。開いた唇からこぼれた声は、掠れていたが涼やかな響きを持っていた。

「兄上!? どうして」

 言ってから、マリアは冷静を努めようとしたらしく、首を振った。そんな様子のマリアに、ライリオンは遠くから眺めているだけで全く近づこうとしない。

 そんなライリオンの手にローディアがそっと触れ、ライリオンはそんな彼女にちらりと微笑んで、マリアにようやく近づいた。

「久しぶりだな、マリア。何年振りだ?」

「本当に久しぶりですね、兄上……なにをしにいらしたのです?」

「お前に会いに来たんだよ。まだ妻を紹介していなかったと思ってな」

 そのライリオンの言葉に、マリアは眉根に皺を寄せる。はあと心底嫌そうにため息を吐き「妻を? ああ……聖女か。そちらが噂の?」

「そうだ。俺の自慢の妻だよ」

「よくもまあ、戦った相手の娘と婚姻など……貴方の中で、父上は一体どれだけのものなのです? 呆れたな」

 マリアの言葉に、ローディアが息を呑んだのが、ライリオンにまで伝わってくる。

 ライリオンはちらりと彼女を見て、彼女を自分の背後に隠す。それはそのマリアの言葉に羞恥を覚えたからではなく、ただ反射的に守ろうとしての行為だった。

 それはマリアも感じ取ったらしく、ああ、とマリアは目を細める。

「失礼なことを言って申し訳ありません、聖女様?」

「いえ、よろしいのです。私のことならば、なんとでもお呼びください。でも、ライリオン様のことを侮辱するのはやめてくださるかしら」

 思いがけず冷静に、そうローディアが返したことに、ライリオンは内心舌を巻いた。

 その様子にくすりと場違いながらも笑いが落ちてしまう。

 ――そうだ、最初から、自分はこの聖女のこういうところが好きだったのだ……冷静に返答する、堂々たる姿。年に見合わないそれこそ、まさしくほかの姫君以上のもの

「そこまでにしておいてやれ、ローディア……なあマリア、俺は今日、お前と口論をしにきたわけではないんだ」

「自慢をしにきたのでしょう? まあ、受けるくらいはします。聖女様は確かにお美しい。僕のミーシャのほうが綺麗だけれど」

「ミーシャとは、お前の娼婦か」

「そう、ですよ。ミーシャは僕の娼婦だ」

 ライリオンの何気ない言葉に、マリアは意外にも苦々しく答える。それからさっとライリオンとローディアから顔を背け「執務があるんです。僕は行きます、もう用事は済んだのでしょう」

「セルフィウスはどこに?」

「ルイヤ兄上には会いました? 聖女様。まずそちらからいかれるのが賢いのではと思いますね」

「セーラには会わせたくないか」

「それが分かっているなら、二度と僕の目の前でセーラに会うなどと言い出さないようにしてください、兄上」

 マリアがそう冷笑すると、ローディアがライリオンの服の袖をそっと掴んだようだった。

「やはり一筋縄ではいかないな」とライリオンは内心苦笑する。

「今日は兄のルイヤと会うくらいで止めておいたほうがローディアにも良いだろう」と判断したのは、まさに英断だった。

 セルフィウスは、マリアと母が同じ、つまり王妃の第二子に当たる、まだ幼い弟王子だ。

 セルフィウスが生まれた頃にはライリオンはもう西の塔に厄介払いされていたような記憶がある。

「そういえば」と、ライリオンはその兄マリアについて、再び過去のことを思い出していた。

 マリアとの確執は、もうずっと以前、ライリオンがマリアを嫉妬していたときにできたものだった。マリアはその頃病弱で、努力すればするだけ体を壊していた。次第になにも食べなくなり、やせ細っていく弟に、ライリオンが目の前で一緒に食事をしだしたのは、そういえばなぜだったのか。

 食事を共にするうちに、マリアはライリオンの前でだけ、物を食べることに楽しみを見出すようになっていたらしかった。

 あの事件が起きたのは、そんな時である。

「ルイヤ様は、どんな方なのかしら」

「兄上か。立派な人だよ。あの人こそ、次代の王に相応しいと思うような、堂々とした人だ」

「でも、次代の王はマリア様なのでしょう」

 そのローディアの言葉に、ライリオンは笑って頷く。

 ――そうだ。それすら、昔の自分はマリアを嫌う一因にしていた

 マリアは王妃の実子であり、長男であった。王妃の、ではないのであれば、王の長男はルイヤであり、序列的にはその次がライリオンで、第三位にメリエルがいた。

 ――しかし、血筋で自分は落ちこぼれ扱いをされ、どんなになにかで秀でても、それは覆らなかった

 挙句、ライリオンはマリアの誕生を機に、継承権を剥奪されたのだった。

 当時のライリオンにとって、王位継承第二位という称号は、自分が王子であると、陛下の子であるのだと周囲が認めてくれる架け橋になると思えるものであったのだ。

 それを奪われるということは、ライリオンにとって、もはや自分は王の子でもなんでもないと言われたのと同義だった。

 マリアに何一つ落ち度はなかったが、その、生まれたときから勝っている弟に、ライリオンは苦い思いをしていたのだった。

 ――しかし、それはもう、昔の話だ

「ライリオン! 久方ぶりだな。王妃殿下に見つからなかったのか?」

 兄王子のルイヤと会えたのは、昼過ぎになってからだった。ルイヤはちょうど執務を休憩し、食事をとろうとしていたところだったらしく、自室にいた。

 その部屋を訊ねたライリオン夫婦は、妻であるローディアがルイヤに挨拶し、ルイヤもきっちりローディアをおもんばかってくれた。

 ルイヤが椅子を勧め、机を挟んで三人座ってしばらく談笑してから、ルイヤが「マリアには会ったか?」

「ええ、会いました。らしくなくきりきりとしていましたが、なにかあったのですか?」

「いや……くだらないことだ。お前の耳にいれるまでもない理由でな……いや。あいつがキリキリとしていた、というのは、もしかしたら別の理由かもしれない。あいつはな、ライリオン。お前に悪いことをしたと、それをずっと抱え込んでいるらしいんだ」

「私に?」

 思いがけないルイヤの言葉に、ライリオンは目を丸くする。

 ローディアも驚いたらしく「ライリオン様にですか」と小さな声でルイヤに訊ねていた。

「そうだ。昔、お前がマリアに毒を盛っただのなんだのと、騒ぎになったことがあっただろう。あれの首謀者がことでね。それを気に病んでいるみたいでな」

「ああ……そういうことでしたか。そんなの、あいつが気にしても仕方がないだろうに。殿下が俺を嫌ってなにかするなど、全く珍しくもなんともない。謀反の囚人をいれていたという西の塔にわざわざ恩恵だと渡り廊下をつけて、俺を軟禁したような人だというのに」

「その件も、何度聞いても凄い話だと思うよ。まあでも、それも身内話に留めよう。お前だって、今となっては騎士たちをかき集めているだろう?」

 ルイヤがそう口角を上げ、ライリオンも可笑しくなって声を出して笑った。

 ライリオンが幼い時、彼と食事をするようになったマリアを見て、第三者がマリアに毒を盛り、ライリオンがその犯人だという風に見せかけたことがあった。

 そのためライリオンは西の塔に謀反の刑で――当時、西の塔は謀反犯を収容する場所だった――幽閉され、あわや死罪となるところであった。

 そんなライリオンを助けたのがライリオンの父親であった国王陛下であり、その毒を盛った主犯は、ライリオンの母が王に殊更愛されていたことを妬んでいた王妃であった。

 しかし当時の周囲はライリオンを主犯と決めて疑うことを知らず、ライリオンはすっかり東の塔に居場所をなくしてしまっていた。

 当時、西の塔に収容されるほどの謀反犯はライリオンしかいなかったこともあり、王はそのままライリオンの居場所に西の塔を宛てたのだという。王妃がそうするのであれば今回だけは忘れてやろうと言ったという話もある。

 ライリオンは、それを「あり得る話だ」と思っており、それは渦中の者以外の、王室の者たち、ほぼ全員がそう思っているようであった。

「まあ、王妃殿下もセーラだけはお前に会わせたくないとまだ言っているようだし、今日はもうセーラに会うのはやめておけ。聖女殿も嫌になるだろうよ」

「私は構いませんが……そうですね、ではご忠告を受けますわ。そうしましょう、ライリオン様。私はいつでも良いですから」

「そうか……貴女がそういうなら、今日はもう暇しようか。それでは、失礼する、兄上。今日は本当に有難うございました」

「いやいや、私も聖女殿に会えてよかった。また来れるときに来い。私も時間ができれば西の塔に行くよ」

 そういって、ルイヤはライリオンとローディアを、西の塔に通じる渡り廊下の辺りまで見送りに出てくれた。

「ライリオン様。私、なんだか自信をなくします」

「どうした?」

 ルイヤと別れて、開口一番に、ローディアがそう呟いた。ライリオンはその心細げな顔を覗き込む。ローディアは立ち止まり、ライリオンに体ごと向き合った。

「私、ライリオン様との間に、子ができたときに、どうなるかしらと考えていたの。でもこれでは、きっとこの冷たいところに放り込むことになってしまうわ」

「ルイヤ様はとても良い方でしたけれど、王妃様も、マリア様も……きっと私たちの子を可愛がってくださらない。そうして欲しいわけじゃないけれど、ライリオン様の……ライリオン様、ごめんなさい。貴方のように悲しい思いをさせたくない。絶対守護力を持って生まれてきたとしても、きっとお姉さまのように幽閉される。持っていなくて教会にはいるのもだめよ。私も良い思い出はないから」

「貴女は優しいな」

 ライリオンの言葉は意外なものだったらしく、ローディアは驚きに目を見開いた。それから顔を背け「……すぐ話をそらしてしまうのね」

「そらしてなどいない。それ以外にも、なにか理由があるのだろう?」

「どうしておわかりになるの……怖いわ」

「どうしてだろうな。貴女は本当にわかりやすいからかな」

 ライリオンが優しく微笑むと、それでローディアは少し安心したらしく、表情を緩める。そして再びぽつりぽつりと話し出した。

「……アルバ様が、子ができたらしいの。それをメリエル様に言うときの様子が、本当に恐ろしくて……身を震わせながら当たり散らして、この子を王にしてあなたを殺すと、メリエル様に言ったのよ。それから、私、怖くて仕方がない。子ができるということは、母すらあんな風に狂わせるのかと」

「そんなことはない、子ができるというのは、少なくとも男にとっては幸福だよ。女性にとってもきっとそうだと思う。幸福だからこそ、怖くなるんだ」

「幸福だからこそ怖く……」

「そうだ。アルバはきっと、メリエルを深く愛しているんだろうな。だから怖いんだろう。なにがあったかは分からないが、きっとなにか、怖くなるような要因があったのだろうな」

「アルバ様、きっと知っていると思うの。桃色の髪の娼婦に、子がいること」

「貴女も知っていたのか」とライリオンは静かに驚く。ローディアは頷き「やはりライリオン様も知っていたのね」

「だから、アルバ様は怖いのね」

「そうだろうな……貴女もやはり怖いのならば、それは夫である俺の責任だな。申し訳ない」

「謝らないでください、ライリオン様。私が悪いの……まだ子がいるわけでもないのに、こんな気持ちになるなんて、私は本当にまだまだだわ」

 そういうローディアの睫毛に、夜露のような涙が微かに光る。こぼれそうなそれに触れたくなった手を引っ込めて、ライリオンは笑った。「さあ、帰ろう」

「ええ。今日はなんだか疲れたみたい」

「悪いことをしたな」と謝罪をしそうになって、ライリオンは前を向いた。

 ――きっとそんなことを言っても、愛しいこの妻は微笑んでくれるだけだろう

 そう知っているからこそ、ライリオンもそれきり何も言わず、その小さな白い手を取って渡り廊下を再び歩き出した。

 その日の夜、いつものようにライリオンのベッドにもぐりこんだローディアは、先に眠りに落ちていた彼の背中を抱きしめた。

 重たいまぶたを上げて、ライリオンがローディアを肩越しに振り返る。

「どうした?」

「いえ……ライリオン様」

「うん」

「私、貴方の子が欲しいわ」

 そのローディアの言葉に、流石のライリオンも面食らう。彼は眠気でぼんやりとしている頭をなんとか動かして、その言葉の意味を考え「うん?」

「私、ずっと怖かった。子どもができることも、こうして一緒に寝る以上のことも、なにもかも。貴方のことも少し怖かった。でも最近、すこし貴方がわかるようになってきた気がするの」

「そうか」

「そう、だからね、ライリオン様。私、貴方が好きよ。その先のことも、貴方の子どもも、今なら心の底から欲しいと思えるの」

 そうローディアが言い募れば、その声に含まれた真摯さに、ライリオンも眠気を吹き飛ばされたらしく、体ごとローディアのほうを向いて、彼女を抱きしめ、彼女の額にかかった髪をすこし手で払った。彼女の瞳を覗き込む。

「それは嬉しい言葉だがな、ローディア」

「なにか問題があるのかしら」

「問題はない……いや、あるといえばあるな。貴女はまだ幼い。俺が手を出してはいけないと、これでも抑えてきたのだが」

「手を出して良いと、私自身が言っているのよ」

「意味をわかっているのか」

 深い息を吐き、ライリオンはローディアの頭を胸に抱く。背中を軽く二度、子どもをあやすように叩けば、彼女は小さく嘆息した。

「子ども扱いしてるのね?」

「子ども扱いもなにも、貴女は子どもなんだ」

「子どもかもしれませんわ。まだ十四だもの。でも貴方に輿入れした日から、一歳も年を取ったのよ」

「たった一歳では、大人にはなれない。気持ちの問題ではなく、体の問題なんだよ。わかってくれないか」

「わかりましたわ」

 渋々、ローディアはそう口を尖らせてライリオンの言葉を受け入れたようだった。それから少し考えた後、彼女は勢いよく起き上がって「キスして」

「ローディア」

「それくらいなら良いのではなくて? 子は十五まで待ちます。それまで待つから、今日は」

 観念して、ライリオンが起き上がり自分の胸から離れたローディアに片腕を広げ「おいで」という。

 ローディアは満足げにその胸のなかに再び閉じ込められ、珍しく少々照れている彼の顔を覗き込んだ。

「本当に、貴女は」

「我儘でしょう? これが本当の私よ。我儘で、身勝手で、聖女らしくない」

「貴女は聖女らしいよ。誰よりも。貴女の心も、態度も、皆の前では可愛らしい貴女を隠してしまうところも」

「本当に、恥ずかしいことを言うのね」

 顔を赤らめたローディアの額に、ライリオンが唇を寄せる。ローディアが目を瞑ると、頬を滑らせてその赤い唇にもキスを落とす。

 目を閉じたまま、満足げに微笑む彼女の顔を見て、まあいいかとライリオンも目を瞑った。

 そうやって身を寄せて、夫婦は幸せな眠りに落ちていった。

「いつまでも一緒にいますわ。何年でも、何十年でも」

 懐かしい少女の声が聴こえて、ライリオンは目を開けた。

 彼女が嫁いできた時より十五も年老いた彼は、寝ぼけ眼で彼女を探す。

 小さな背中があるはずだと辺りを見渡して、すっかり斑も白毛が目立つシアンと、その犬を挟んだ向こう側の、幸せそうな寝顔を見つけ、彼は安堵の息を吐いた。

「ローディア」

「あら……もう朝?」

「今日は検診だろう」

 そのライリオンの言葉に、あら、と声を上げてローディアは起き上がる。

 以前より随分大人びた彼女の声と姿に「そうか、あれからもう十五年も経ったのだ」とライリオンは目が覚める思いだった。

 幸せな月日を、十五年重ねるのはまさに光の如き早さだったなと思う。

 大人の女性に成長した妻は背丈も伸びて体つきも変わり、とても美しくなった。あどけなさはなくなり、肩甲骨あたりほどの長さだった金髪はあの頃より伸びて、背中を纏うようになっていた。

 堪らなくなって、ライリオンが妻を抱きしめると、妻は「あら、なにかしら」

「結果が待ち遠しくてな」

「すぐわかることですわ。もう、本当にしようがない」

 ローディアがくすくす笑うのが、ライリオンには心地よい。そんな二人を割って入ったのが、若くして黄旗の副団長になったマルタ=ロイジだった。彼はローディアのように、あの頃の少年から、立派に成長していた。

「奥方様、お時間です。ドグ様に嫌味を言われますよ」

「支度をさせて、マルタ。寝室にはいってこないで」

「はあ、俺もそう言ったのですが、ドグ様にどうしても早く呼べと突かれてしまって」

「本当に、ここの男性陣は仕方のない人ばかり」

 そう言って、ローディアは朗らかに笑う。ライリオンはすっかり年老いてしまったシアンとともに寝台に寝そべった。

「朝には弱いんだ」と呟けば、マルタがちょっと呆れたように太い息を吐く。

「まあ、ライリオン様は今日は久方ぶりの休みですからね」

「ローディアを頼む、な」

「もちろんです!」

 マルタの返事をききながら、ライリオンは目を閉じた。

 あの幸せな、母の前での誓いの言葉を再び夢に見る。いつまでも、貴方の傍にいる。ローディアはそう生真面目な顔でそういったあの日のまま、いやあの日以上の優しさで、自分の傍にいてくれている。

「それに今日、もしかすれば」と、それを考えてライリオンは再び目を覚ました。

 時間はローディアがマルタに呼ばれてからすこし経っており、ライリオンも身支度をして室を出た。

 特別医務室にいくと、入ろうとした瞬間にローディアがでてきた。

 その薔薇色の頬に、ライリオンは「ローディア、どうだった?」

「驚いてくださいね、ライリオン様! 子がいるそうよ!」

 飛び跳ねんばかりのローディアの声色とその言葉に、ライリオンも彼女を咄嗟に抱きしめる。

「私たちの子か!」

「そうよ、私たちの子よ。この日をどんなに……本当に」

 そう言って泣きべそをかく妻を強く抱きしめて、ライリオンも少し涙ぐんでしまう。

「ローディア、ありがとう」

「お礼を言うのはまだ早いのではなくて?」

「早くはない。いま言いたいんだ」

「仕方のない人」

 今日何度目かの言葉を吐いて、ローディアは至近距離で困ったように笑う。

 その唇をふさげば、もう、と言ってローディアはくすくす幸せそうに声を漏らした。

 その動作、声、なにもかもが愛おしくてしようがない。

 ライリオンはまだ見ぬ我が子を宿すその腹にそっと触れて、ローディアに「ありがとう」と何度も礼を言った。

 どれだけ言っても足りない気がして、幾度も、幾度も言った。

「もう、何回言うの? 恥ずかしくなるわ」

「それはすまない。だが、もう一度だけいいか?」

「勝手にしてください」

「ありがとう、ローディア。愛している」

 そういってライリオンが微笑めば、ローディアはいよいよこらえきれずに大声で笑った。

(鳥籠の王国 -了-)

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volaille -鳥籠の王国 なづ @aohi31

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